平等とは幻想に過ぎない


昨年から今年にかけて、凶悪な殺人事件が後を絶ちません。
犠牲者はそのすべてが、幼い子供や、女性や老人でした。犯人は明らかに自分より腕力の
劣る弱い者を狙ったのです。これは、人心の荒廃の極みと言ってしまえばそれまでですが
昨年の事件で、私の印象に強く残っている事例が2件あります。
ひとつは、大阪の教育大学の付属小で起きた児童の殺傷事件であり、もうひとつは、池袋
東急ハンズ入り口前で起きた無差別殺人です。
大阪の事件の犯人は、「エリートの子供を殺せば確実に死刑になると思った。」と述べ
池袋の犯人は、「ちゃらちゃらした人間が許せなかった。」と供述しています。
両事件の犯人に共通して言えることは、劣悪な環境に育ったということと、自己の人生に
対する救いようのない敗北感と、社会への強い不平等感と自分の境遇より恵まれていると
思われる者へのねたみと、それを誰にも理解してもらえないことに対する孤独感が彼らを
凶行に駆り立ててしまったのではないかと言うことです。
彼らが、そもそも平等など存在し得ない。恵まれた者とそうでない者、幸福な者と不幸な
者が並び立つものである。しかし、人間は自分の置かれた境遇の中で、精一杯努力をすれ
ば、必ず救われる。ということに気がついていれば、もしかしたら犯行を思いとどまった
かも知れません。

平等とはまったくの幻想に過ぎません。日本国憲法第14条第1項では、「すべて国民は
法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的
又は社会的関係において、差別されない。」と謳っておりますが、現在の我が国の状況は
それとは大きくかけはなれたものであります。たとえこれから百年の歳月が流れても完全
な平等は達成されないでしょう。残念ながら。
ところで、皆さんをがっかりさせるかも知れませんが、神道においても不平等の存在を必
ずしも否定してはいないのです。「勝ち組と負け組」の段でも述べましたが、人類社会に
は、強には弱、金持ちには貧乏人というように相反する者が同時に存在するものとされて
います。自分がそのどちらに属するとしても、人は清く明るく直く正しい道を歩まねばな
りません。不平等をありのままの事実として受け入れましょう。
神道とは極めて現実的かつ実践的な宗教です。日常生活そのものが信仰なのです。
人間には、自由に生きる権利が神によって与えられています。しかし、自由であるが故に
それぞれの能力の差がもろに出てしまいます。こうして人々の間に格差が生じます。
この格差は、自由ゆえの必然的帰結であり、神もまた、それを認めています。

凡人は自分の期待どおりに事が運ばないと、簡単にあきらめてしまうものです。
しかし、そこであきらめたら、すべては終わってしまいます。
神は、あきらめた人間は一切助けません。ひたすらがんばる人間にだけ救いの手を差し伸
べるものです。恵まれない境遇にある者にも、逆転のチャンスは残されているのです。
成功した人を、うらやみ、ねたむのはやめましょう。あまりにも悲し過ぎます。
それは、してはいけないことです。02/08/31
※池袋の事件は、3年前に発生したものでした。訂正いたします。
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