世の中にはね、善意が善意として機能しない事があるんです。
って。あなたが言うから、俺は、なんて言えばいいのかわからずに、ただ黙って頷いた。
あなたがそう言うなら、そう言うだけの何かがあったんだろうって、そう思うしかないから。
子供の頃、一時期、小さなガラスの鉢に入れられた、金魚を飼っていた事があった。
夏祭りで、一緒に出掛けてくれたツバキ兄さんがとってくれた、赤くて綺麗な金魚だった。
小さな金魚鉢の中で、数本の水草の間を、ひらひらと綺麗に靡く尾鰭を揺らして、赤い金魚が泳ぐのを見ているのが好きだった。
誰もいない部屋に帰っていた日々を変えてくれたのは、何も語らず、何の感情も見せたりしない、赤い金魚だった。
ただいまと声を掛けて、餌をやって、水を替えて、大切に大切に育てていたある日、ふと、金魚が不憫になった。
小さな鉢の中に閉じ込められて、行きたい所にも行けず、したい事もできないのだと思った。
自分に、その姿が重なってしまった。
自分の事を、何一つ自分で決められず、この小さな里を出て行けず、ただ与えられる仕事だけこなす毎日。
そう思ったら、金魚を眺めて楽しんでいられなくなってしまった。
その夜、金魚鉢を抱えて家を出た。里の中を流れる川が、里の外へ通じているのは知っていた。
川に放してやれば、好きな所へ行けるのだと、何の疑いもなく信じていた。
暗い川の中に放された赤い金魚は、暫くそこで揺れていて、それに背中を向けて家へ帰った。
これで、自由になったんだと、そう信じた。
次の日、家に来てくれたツバキ兄さんに、死んでしまったと告げて、それが、現実になるなんて、思っていなかった。
「金魚が、自然界では生きていけないって、知ってますか?」
ぼんやりと、庭を眺めながら問い掛けられて、カカシはそちらを振り返った。
「金魚、ですか?」
「はい。」
イルカは静かにそう返して、庭に作られた小さな池を眺める。
「そうなんですか?」
「あれは、人が、自分達が眺めて楽しむ為に作り替えた魚だから、自然界では、生きていけないそうです。」
綺麗に靡く鰭では、早く動く事もできないから、餌も取れないし、逃げる事もできない。
金魚は、人が世話して生きるように作られた魚だから。
「………そうだったんですか……」
カカシは、庭の小さな池に放されている金魚へ、目を向ける。
赤と黒の、綺麗な鰭を持った金魚は、先日の祭で、カカシが掬ってきた物だ。
それを眺めながら、イルカがどこか不思議な表情を浮かべていたのを、カカシは思い出した。
「でも俺、あれを川に流した事ありますよ。……自由にしてやりたくて。」
カカシがそう言うと、イルカは苦笑を浮かべて頷いた。
多分、イルカにもそんな経験があるに違いない。
小さな子供で、金魚をすくった事もなく、死なせた事もないというのは、多分、そんなに多くないと思う。
夏祭りの縁日で、親から、『すぐ死んでしまうのよ』と言われながら、それでも、ひらひらと泳ぐそれを捕まえるのは、とても楽しい事だから。
そして、そうしてやってきた金魚達は、何故だかあまり、長生きしない事が多いから。
もしかしたらそれは、長生きしないと思い込んでいる人間のせいなのかもしれないけれど。
「俺も、あります。……これで自由になったって、思ってた。」
金魚の話を聞いたのは、そのずっと後の事だった。
任務の中で、金魚の生産者の元を訪れた時、その話を聞かされた。
幾つもの池や水槽の中で、静かに育てられている沢山の金魚たち。
明らかに、ランクの違う金魚がいて、祭で掬うような金魚は、沢山まとめて育てられていた。
それを世話しながら、狭い所で育つのは可哀想だねと言っていたら、彼等はそう教えてくれた。
「可哀想な事、してしまいましたね。」
自由にしてやりたいと、本当に、ただ善意で行なった事だったけれど、それが、仇になったりするなんて、知らないという事が、どんなに悪い事なんだろうと、悲しくなった。
「……だからね、金魚は、大事に世話して、毎日眺めて、『綺麗だね』って、思ってやればいいんだよ、って。」
人に作り替えられて可哀想だなんて言わないで、閉じ込められてしまって可哀想だなんて言わないで、ただ、そこで穏やかに揺れている姿を眺めて、君も穏やかになったらいいのだと、彼は静かにそう言った。
何も言わない金魚に自分を重ねたのは、自分を取り巻く現実が嫌だったから。
金魚は自由なんて求めていない。
彼等は、小さな池で育てられて、小さな世界で生きていくようにできている。
それが幸せだとかそうでないかとか、金魚がそれを感じるかどうかはわからない。
でも、これで幸せなのだと思ってくれたらいいと思って、大事に大事にしてやればいいのだ。
どうせなら、そういう善意を伝えてあげればいい。
「間違えてしまったら、善意が、善意として伝わらない事って、ありますね…」
少し前に、カカシが同じ事を言った。
それがどんな経験から来ているのか知らないけれど、そんな事で、そう感じる事もあるって事は、自分も知っていると、知っていてもらいたいと思った。
「そうですね。」
だからいつか、少しずつでいいから、自分にも、彼の思った事を話してくれたらいいと思う。
そんな風に、少しずつ、彼が自分を見せてくれたらいいと思う。
彼は、口で言う程、自分を見せてくれたりしないから。
熱帯魚→金魚 と変換されました。
金魚は自然界じゃ生きていけないというのは、暫く前に、テレビで見たような記憶があります。熱帯魚の鰭を綺麗だと感じた人が、作ろうと思ったのかな?日本人って、こういうところ、ちょっと凄いよね。と思う。
ちなみに私は、逃がした事はございません。死なせた事は沢山あるけど。
そして、金魚がランク分けで育てられているのも本当。某宇宙金魚の産地では、安い金魚は、野ざらしのたんぼのような金魚池で育てられています。『らんちゅう』とかは、家の敷地の中で、網と鍵を掛けて育てられているらしい。(2003.5.17)
「文字書きさんに100のお題」の作品です。