「もしさ、あれがなかったら、あんた、今どうしてたと思う?」
 テレビに映る、嘗てあった壁を見ながら、ジェットはそう問い掛けてきた。そう言えば、確かに、あれに関する話をあまりした事がないと、記憶を掘り返して思った。
「そうだな……」
 あの日、壁ができなかったら、あの町はずっと、唯一の接点として残った事だろう。ならば、答えは一つだ。
「今頃、年とってじじいになって、昔は良かった。DDRの時代に戻りたいよ。って、言ってんじゃねぇかな。」
 あの日壁ができなかったら、あの町を通って二国を行き来する人は絶えなかっただろう。その人達の波を見ながら、毎日工場に通って、ノルマをこなして賃金を貰って、安い飯を食って、時々あちら側に行って手に入らない物を買ったりして、そんな風に暮らしてたに違いない。
 こうして、機械で作られた体になんてなったりしないで、頑固で融通が聞かないじじいだ、なんて言われたに違いない。
「……西側に行きたかったんじゃねぇの?」
 どうして、東を懐かしんだりするんだろうと思っているのだろう。ジェットは、不思議そうに問い掛けてきた。壁を越えてまで逃亡した過去を知っている彼等は、自分がそちらに憧れていたと思っていたのかもしれない。今まで、そんな事を話さなかったから、あの時の事情を、彼等が知っているわけもないのだけれど。
「俺はさ、彼女といられたら、自分がどっちにいてもよかったんだよ。」
 他にも気掛かりな事があったのは確かだけれど、もし、彼女が、ついていけないと言ったとしたら、自分はきっと、そこに残ったと思う。
「俺は、あの国が気に入ってた。色々、問題はあったよ。目を反らしてた部分だってある。でも、俺が生きてこられたのは、あの国だったからだと思う。10やそこらのガキが、一人取り残されても、勉強もさせてくれるし、金もくれる国だったから、俺は、無事に育ってこられたわけだ。向こう側だったら、どうだったかわかんねぇよ。やっぱり無事に育っていけたかもしれねぇが、そうじゃねぇ確率は高かったろうと思う。」
 戦争の後、まともに勉強すらできていなかった小学生時代を過ごした俺たちは、それを取りかえすのに必死に勉強をした。算数すらまともに出来やしないと言われていた時代の人間だ。それが、工場で機械設計までするようになれたのは、やっぱり、教育に力を注いでた国の方針があったからだと思う。
 国の金で教育をして、国の金で養ってくれる。病気になったら国が看てくれるから、安心もある。
 本当は、ずっとずっと、国の経済状況は悪かったんだって話だ。でも、俺たちには、その言葉が頼りだった。何もない、廃虚のような所から立ち上がって、必死になって作ってきた国だっていう、誇りみたいな、そんな気持ちだってあったのだ。
「俺は、あの国が、もっといい国になるって思ってた。……もう、こんな国はいらねぇなんて、言われるような国になるなんて、思ってもなかったよ。」
 あの国が消えてしまった理由が、国民の意志だったって事が、どんなに悲しかったか、多分、彼にはわからないだろうと思う。国がなくなってしまった事じゃなく、そんなに酷い国になってしまったんだって事が、悲しかったのだ。
「でも、彼女は、そこにいたくなかった?」
 控えめに聞いてくるジェットが、彼女の事を、実はとても気にしているのだという事を、俺は知っている。多分、どんなに、彼女とお前は違うんだと言っても、ジェットはそれを気にするだろうと思う。俺が、ジェットの周りにいる人達を気にするのと同じ事だ。
「彼女は、最初からベルリンにいたわけじゃないんだ。別の町から逃げてきたんだ。堪えきれなくて、逃げてきた。それでも、それは追い掛けてきてたんだ。だから、彼女はあの壁ができた日に、あちらへ逃げる事を考えた。」
「危ないのに?」
「危ないからだ。」
 それを越えるのは危険だ。それでも、うまくやれば、やれない事はないかもしれない。彼女は、それに賭けた。そして俺は、それをかなえてやろうと思った。
「命がけで壁を越えてまで、自分を追い掛けてくる事はないだろう。彼女はそう思ったわけだ。」
 俺たちは、命がけで壁を越えて、彼女は命を落とし、俺は体を失った。
「じゃぁ、壁がなかったら、逃げなかった?」
「……彼女は、一人で行ったかもしれない。」
 それくらいの行動力はある人だった。俺が渋っている間に、しびれを切らして行ってしまったかもしれない。そうしたら俺は、きっと、それを追い掛けたりしなかったと思う。彼女には、俺がもう必要ないのだと思って。
 祖母がいる間は、あちらで働いていたかもしれない。でもきっと、祖母を看取ったら、俺は元の工場へ戻っただろう。俺は、あの国が好きだったから、理由さえなければ、きっと、そうしたと思う。
「それで、俺たちはこうして会ったりしなくて、知らない他人のままでいたってわけだな。」
 それは悲しむべき事か、喜ぶべき事か。
 俺たちの立場はあまりに微妙で、その答えはとても難しい。
 今、ジェットがいなくなる事を考えるのは嫌だと思うけれど、ジェットがサイボーグにならずに済んだと言うのなら、俺は、それを喜ぶべき事と思いたい。
 俺たちが会えた事は喜べる事だけれど、それを喜んでいると表現していいものかどうか、俺はよくわからないでいる。
 彼女をなくした事は悲しむべき事だけれど、それを超える喜びを得られた現在を、それほど嫌っていないという事を、俺はまだ、彼に伝えられないでいる。




ベルリンの壁とハインリヒ。
この人が好きだと言って、この話題に触れずに済むわけもない。他所の人と同じ事を書くのが嫌だってのもあって、うちの人は、壁に殆どこだわりを持ってません。だから、東側に帰ってきて暮らしているのです。別に、西ドイツに行きたかったんじゃないから。彼が帰りたかったのは、戦争してる前のドイツです。

(2003.4.25)


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