一日を終えて、やっと潜り込んだベッドで眠りに落ち込もうという時、窓が軽くノックされる音が彼の耳に聞こえた。特化された彼の耳だから聞き取れる、ほんの小さな音だったが、だからこそ、自分を呼んでいる事は間違いなく、彼は顔を上げてその音の方へ目をやった。
「ジェット?」
ひらひらと手を振る姿にため息をついてベッドを下りて、彼は足音をたてずに窓まで移動すると、それを外へ開いた。
「寝てた?」
「今、寝ようとしていたところだ。」
隣の部屋で眠っているであろう仲間を起こすわけにもいかず、脳内会話での意思疎通を選ぶ。こういうところは、サイボーグは便利だな、とジェットはぼんやり思う。隣にいる人間にばれずに、悪口だって言い合えるし。
「何か用か?」
「今日、満月だから。月見に行こう。」
そう誘えば、彼は空を見上げて小さく息をついた。
「明日、ドイツに帰るんだろう?飛行機の中で寝てればいいんだし、夜更かししても平気だろ?」
また暫くは会えないのだから、もう少しだけ一緒にいたいのだと、理由をつければハインリヒは否とは言わない。ジェットはそれを知っていたし、ハインリヒはそう思われている事を知っていた。
「何処まで行くんだ?」
「どこか、綺麗な所。」
そう答えれば、計画性のない事があまり好きではないハインリヒは顔をしかめたが、ため息一つを残して、部屋の中へ戻っていく。
「ハインリヒ?」
「これで空を飛べって?」
今しも寝ようとしていたハインリヒは、薄いパジャマ一枚の姿だ。さすがに、夜の空を飛ぶには向かない。壁のコート掛けからグレーのコートを取り上げると、ハインリヒはそれを羽織ってベランダまで出て来た。
「確かにね。」
ジェットがそう言って腕を差し出せば、ハインリヒは片眉を上げて頷き、その腕の中へ納まった。
「何なら、ドイツまで、送っていこうか?」
「不安定だからいらない。」
ジェットが自分よりも小さな子どもを抱くように、膝の裏に腕をまわして、背中を抱えるようにして抱き上げれば、ハインリヒは慣れたように肩に肘を置き、腕を首に回して掴まる。どこか近くまで彼を連れていく時は、大体この形で飛ぶ事が多い。
本当は、新婦を抱き上げる新郎の気分でいきたいのだが、彼はあまりあの体勢は好きでないらしい。それが、今のジェットの不満の一つだ。
「まぁ…もっと寒いしね……」
飛行機の飛ぶような高度を飛ぶわけにはいかないから、それよりも高い位置を飛ぶ事になる。防護服を着ていれば、ある程度の気温の変化にも堪えられるし、サイボーグの体は人間程やわではないから、特に気にする事もないのだけれど、それでもやはり、寒いものは寒いわけで、うっかり落としたらお話にならない。
「お前、落としそうだしな。」
グサリと突き刺さる言葉を、ハインリヒは平気で口にする。ジェットが自分をどれだけ大切に扱ってくれようとしているのかはわかっている彼だが、実際にうっかり落とされかけた事があるだけに、どうにも心配でならない。今も、高度を上げて水平飛行に入ってからは、どうにも不安で、掴まる腕に力が入る。
ジェットは、不安が理由であったとしても、ハインリヒが自分にしがみついている事が嬉しくて、頬が緩むのを堪えるのに必死だった。
「次は、いつこっちに来る?」
「メンテナンスの時だと思う。それまでに、呼び出しが掛からなければ。」
ハインリヒは、体の殆どが機械化されている事で、他のサイボーグたちよりも、メンテナンスに時間が掛かる。あまり頻繁には仕事を休む事もできない事から、夏と冬の休暇時期に日本へやってくる。ジェットは、ハインリヒが日本へ来る時期に合わせて、自分のメンテナンス時期を選んでいる。
「最近は、世界も平和だし、次の夏までは大丈夫なんじゃないか?」
今回の呼び出しも、結局はあまり大事にはならないうちに事は終わり、無理矢理休暇を奪って日本へ来たハインリヒは、ついでにとメンテナンスを受けていた。そうなれば、彼が次に日本へ来るのは来年の夏だという事になる。
「そうだといいがな。」
彼は、どこか不満そうにも感じる声でそう言い、首を捻って下を見遣った。
「そろそろ、降ろせ。」
「……なんで、そう態度が大きいかね。」
本当に、今ここで腕を離してしまったら、彼は真っ逆さまに海に落とされると言うのに、ハインリヒはジェットに対して、心遣いと言うものをあまり見せない。ジェットが、そんなところも好きだけどね。と思っている事を知ったら、きっと彼は態度を改めるのだろうと思うだけに、ジェットは心にもない文句を口にする。
ジェットからしてみれば、周りの誰とも違う態度を見せてくれるのは、自分が特別だという証のようで、嬉しい事以外の何者でもない。でもきっと、それをハインリヒが知ってしまったら、きっと彼は周りと同じ扱いをしようとするに違いないのだ。それは、大変面白くない展開だ。
「じゃ、あそこにしようか。」
目に入った小島の上まで飛び、体を起こしてゆっくりと降りる。下を眺めているハインリヒの上体をきちんと抱き寄せて、落とさないようにしているこの体勢が、一番好きかもしれないな。とジェットは思う。そんな事を言おうものなら、暴れられるに違いないから、黙っているが。
「で、月は何処だ。」
ごつごつとした岩場に降りたジェットの腕から、ハインリヒはすとん、と降りて問いかけた。
「何処だろ…」
二人で空を見上げてぐるりと頭を動かし、あるべき丸い月を探す。
「雲の中…とか。」
飛んでいる間のジェットは、空の月の在り処なんて見ていないし、ハインリヒは月ではなくて星を眺めていた。結局二人はため息をついて岩場に腰を降ろして目的だった月を待つ事にした。
「そのうち出てくるだろう。」
ぱたり、と背中から倒れ込んでハインリヒは言う。それを見下ろすように眺めて、ジェットは頷いた。
「冬の休暇は何時から?」
ジェットがそう問いかけると、ハインリヒは不思議そうな視線をそちらへ向けた。
「会いに行こうかな、と思って。」
そう説明すれば、ハインリヒは更に不思議そうな表情を浮かべた。
「嫌なの?」
「暇人だな。と思っただけだ。」
好きな人に会いに行こうってのに、暇はないでしょうよ。と腹の中で反論すると、ハインリヒは少し思案しているような様子を見せた。
「クリスマスからだと思う。今休暇を貰ってしまったし。」
答えをせっつこうとしたところに答えを投げられて、ジェットはじっとハインリヒを眺めた。
「じゃぁ、クリスマスの祭りを案内してよ。ドイツのクリスマスも派手なんだろ?」
「お前の好みそうな派手さとは違うと思うぞ。」
「別にいいよ。ハインリヒがいればいいんだし。」
そう言えば、ハインリヒはおかしそうに吹き出し、ジェットはため息をついてその額に指を突き付ける。
「そんなに笑う場面じゃないだろう。」
「笑うだろう。」
滅多な事で声を立てて笑わないハインリヒが、転がって笑うのを眺めて、ジェットはため息をついた。
「本気なんだけど。」
「だから、おかしい。」
下から見上げてハインリヒがそういうのを聞いて、ジェットはため息を重ねる。どうしてだか、ハインリヒはジェットが本気で彼を口説こうとすればするだけ笑ってくれる。そんなに、自分はおかしな言動をしているだろうかと、いつもいつも後になって考えるのだが、とてもそうは思えないでいた。
「なんで?」
「無駄な事をしてる。」
あっさり返った言葉の意味がよくわからなくて、彼の顔を覗き込むように見つめると、ハインリヒは口の端をあげる笑みを浮かべた。
「ハインリヒ?」
どんなに自分が口説こうとしても、彼は自分のものにはなってくれないと言う事だろうかと、その理由を問いかけるように名前を呼べば、そっと腕が伸びて、首に回された。
「俺の事なんて、好きじゃないって事?」
問いかけると、その腕に力が込められて、引き寄せられた。
すぐそこに、彼の青い目があって、その青とその上の透明のレンズに自分が映り込んでいるのが見えた。
それに吸い込まれるように、そっと彼の上に覆い被さるように、その唇に初めて触れた。思いのほか心地よくて、離れがたいと思っていたら、とんとん、と背中を叩かれて、慌てて離れた。
「感想は?」
「…………ごちそうさま?」
すぐそこにある彼の表情は楽しそうで、思わずそう返すと、彼はまた声を立てて笑った。
「ねぇ、何時から?」
「何が?」
背中に回っていたはずの手が、鼻を摘んでいるのを掴んで退かし、真直ぐに見据えれば、彼はきちんと見返してくれる。
「俺の事、何時から好き?」
「………そんなに最近じゃない。」
その答えに、俺は天を仰ぎ、その先にぽっかりと浮かんだ真ん丸の月を見つけた。
アンケートお礼小説のちょっと大人向けバージョンだったもの。これのイメージイラストを頂いたのは嬉しい思い出
(2002.5.1)