004と初めて話をしたのは、初めて彼と会ってから随分後になってからの事だった。その間、俺は彼を見ていたのだが、彼は全くといっていい程、俺を見ていなかったはずだ。
そう思っていたら、どうやらそれは少し違っていたようだと、後になって知った。彼は、最初に俺と会った時、きちんと俺を認識したらしく、その後も、見かければきちんと俺だと理解して、時折動きを追っていた事もあったそうだ。
彼曰く、『人の動きを見るのは、自分の動きを制御するのには必要だったから。』だそうだ。
今一つ、俺の求める『見ている』とは違うのだが、まぁ、それでも由としようと思った。
「ハインリヒ、ちょっといいか?」
彼の部屋をノックして、答えが返る前にドアを開けると、彼は少しだけ不機嫌そうな目を俺に向けた。
「ごめん。」
返事を待ってドアを開けろ。と言われ続けているのだが、なかなかそれを実行出来た事がないのを、彼が怒っているのはよくわかった。何せ、言葉を口にしない彼の機嫌を伺って来た年月は洒落にならなく長い。自慢じゃないが、と言うか、自慢にもならないが、それだけは誰にも負けない自信がある。
「何だ?」
謝れば彼はくどくどと文句は言わない。多分、謝らなくても言わないのだけれど、悪い事をしたと思った事を表わすには、謝罪の言葉を口にする以外に方法はないのだから、そうするのは当然だ。
少なくとも俺は、彼ときちんと意思疎通をしたいと願っていて、間違いなく自分を理解してもらいたいと思っている。きっと、謝らないでいたら、俺が彼の意見を重く見ていないと思われるに違いないのだ。だから、きちんとそうでない事を伝える。それは、俺の感覚で、彼はあまり言葉を口に出そうとはしない性質があるから、読み違えている事もあるだろうと思うのだけれど。
「フランソワーズが、買い物に行くから、何か欲しいものはあるか。って。」
「一人で行くのか?」
女性一人で買い物に出かけると言うのなら、荷物を増やすような事は彼はしないだろう。無愛想で皮肉屋だが、彼の仲間に対する気遣いは、優しいと言ってもいい程だ。だから、皆は彼の皮肉もあまり気にする事がないのだと思う。
「ジョーがついて行くってさ。」
「……欲しい本がある。」
暫く迷ってから彼はそう言い、机の上の紙切れに何か文字を走らせると、立ち上がった。
自分の買い物を頼むのに、人づてにそれを頼むなんて失礼なまねを彼はしない。こういう律儀なところも、彼が仲間内でそれなりの尊敬を勝ち得ている理由の一つだろう。時折失礼な事をしたとしても、それまでの積み重ねがそれをカバーしてくれるものだ。随分前に、俺は彼からそう諭された事がある。
その時は、それをあまり良くは思わなかったが、仲間との生活を続けていると、それも必要な事だな。と思えるようになった。
昔は、自分が頭で、仲間は仲間でも、自分が守ってやるべき人間だったから、そんな立場の違いで、俺がどんなに理不尽な事をしたとしても、彼等は表立って俺を責めたりはしなかった。
でも、ここにいる仲間は全て立場が対等だ。まぁ、ジョーはどちらかと言えばリーダーだが、彼は性質が穏やかだから、それをかさに着て行動する事はないし、誰だって、必要な時は彼に指示を出す。だから、まず俺たちの立場は対等だと言っても問題はないはずだ。
そんな中で、あまりに周りから信頼されていないと言うのは、大いに問題がある。望んだわけじゃないが、俺たちが平和に生きて行くためには、俺たちに向かってくり出されるブラックゴーストからの攻撃を躱さなくてはいけないのだ。共に戦う上での信頼関係は、平時に共同生活をするのとはまた違う。自分の命と仲間の命が掛かっているのだ。信頼できない人間に、自分の命なんて預けられない。これは重要だ。
そんな事を理解するに至ってからは、ハインリヒの言い分も幾らかは理解できるようになった。まぁ、あまり打算的なのは俺には向かないから、自分に正直に、更に仲間に気を使おう。というのが限界点だが。
「何の本?」
「写真集だ。」
意外な答えに驚いて彼を見ると、その視線に気付いたのか、彼は嫌そうに顔を歪めて部屋を出ようと足を進める。
「何だよ。その顔。」
「何でもない。」
何処が、何でもないと言うんだろうかと思う表情でそんな事を言うのは、はっきり言って無意味だ。正直に何が嫌なのか言うべきだと俺は思う。
「何でもない顔じゃないって。別に俺、あんたがグラビアモデルに興味があったって何も言わねぇし。」
その言葉は、所謂、余計な一言と言うやつで、彼は足を止めて俺の目の前にに右手の人さし指を突き付けた。
「それが嫌なんだ。大体なんで俺が、グラビアモデルの写真集なんて買ってこさせるってんだ。」
思うのだが、彼は俺に対する態度が、確実に他の誰かに対する態度と違う。フランソワーズやジョーに向けて、彼が右手を突き付ける事なんて絶対にないし、こんなに刺のある言葉も使わない。
俺は特別なんだと思って済ませる事もできるが、生憎俺はそんなに脳天気ではない。まぁ、滅多に見られない彼の様子が見られると言うのは嬉しくはあるが。
「……写真集って、そういうもんじゃねぇの?」
そう言うと、彼は呆れたようにため息をついて、ひらひらと手を振ると俺を振り返る事なく階段を下りていった。こういう時、彼はあまり俺に構ってくれない。仕方ないからそれを見送って自分に割り当てられている部屋へ足を向けた。きっと、後で彼は構ってくれるだろうから。
コンコン。とドアがノックされたのは、ジョーの運転する車が家を出ていってから、随分時間が経ってからだった。どうやら、下で誰かと話でもしていたのだろう。待ちくたびれた俺は、むくれ気味にドアを開けに行き、そこに立っている彼を確認した。
「……汚い部屋だな。相変わらず。」
来て早々それかい。と思った俺の表情を見たのか、彼は謝罪を示すように右手を上げた。ただ、彼の表情は殆ど変わらないので、挨拶をされたのとあまり変わらないようにも見える。その微妙な手の上げ方の違いを見分けるには、注意が必要だが、場面を考えれば答えは簡単にわかるものでもある。
「何?」
「貸してやる。」
差し出された本を受け取ると、彼は用は済んだとばかりに背中を向け、俺は慌ててそれを引き止めた。
「これは?」
「写真集。」
見ればわかる。そう思った俺の表情を見た彼は、補足説明をくれた。
「同じ写真家が、同じテーマの写真集をもう一つ出しているそうだから、買って来てもらおうと思ったんだ。」
それじゃ、これが彼の求める写真集というものか。と表紙を見れば、綺麗な青の表紙に白で題名が入っていた。サイボーグになって楽になったのは、言葉に関して問題がなくなったという事だろう。読めるし話せる。学のない俺には、有り難い話だ。
「こういうの好きなの?」
中を見てみれば、それは全て風景写真で、俺にはあまり馴染みのないものだった。
「これは、気に入った。」
彼はあっさりとそれだけ言い、ため息をついた。
「引き止めるなら、中に入れて寛がせてくるものじゃないか?」
「ああ、ごめん。どうぞ。」
そう言って入り口を開けると、彼は頷いて部屋の中へ入って来た。
「そこら辺、適当に座って。」
「ああ。」
そう返しながら、彼は俺の部屋の中を興味深そうに歩き回る。何度来てもこの行動を取る彼が不思議だが、確かに、前に彼が来た時とはまた違っているかもしれない。
「お前、片づけって言葉を知ってるよな?」
「うん。」
「そうか。じゃ、いい。」
何がいいんだろうと思いつつ、ベッドの端に腰を下ろして受け取った写真集をめくりはじめると、彼は黙って部屋の中をうろついては何かを手に取っては元の場所へ戻していく。
「ジェット、これは?」
何かが彼の興味を引いたらしく、問いかけに顔をあげれば、彼は小さな箱を手に持っていた。
「ああ、ホームプラネタリウム。見る?」
問いかけると、彼は不思議そうな顔をして頷いた。彼はわりといろんな物に興味を持つ。見慣れない物などは、とりあえず触ってみるという性質を持つ事にも、最近気付いた。
「じゃ、カーテン閉めて。」
いわれるままに彼は窓に足を向け、俺は受け取った箱からコードを引き出すとコンセントに繋いだ。
薄暗くなった部屋の天井に、箱の上部に付けられたレンズから星空が映し出された。
「こんな感じ。」
そう言って彼を見遣れば、彼は暫くそれを眺めていてから、カーテンを開けた。どうやら、あまりお気に召さなかったらしい。実は俺も、一度見たきり使ってなかったから、それを不愉快には思わなかった。
「本物の方がいいな。」
「俺もそう思うよ。」
そう言うと、彼は満足そうに頷いた。別に、人工物が嫌いだなんて言わないし、プラネタリウムに行くのは好きだが、これは相当物足りないのだ。
「ここの海岸の方が、ずっと綺麗に見えるんじゃないかな。」
「そうだな。」
彼も同意したところを見れば、俺がわがままなわけじゃないと思えた。
「今夜辺り、見に行こうか?少し飛んだら、もっと綺麗に見えるかもしれない。」
そう持ちかければ、彼は驚いたように俺を見返し、苦笑を浮かべて頷いた。
「早く、そんな誘いを向ける女性でも見つかるといいな。」
ああ、俺は彼にとって、本当に単なる仲間に過ぎないわけだな。と、思わず落ち込んだ俺を、彼は不思議そうな顔をして見返していた。
「……とりあえず、今はあんたがいいよ…」
「物好きがいたもんだ。」
呆れたように言った彼は、それでもどこか楽しそうに笑っていた。
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(2002.5.15)