ガチャン、と音を立てて、それは床の上に転がった。
「あ……」
そこにいた人々は、揃って小さく声をあげ、それを凝視した。
「…………どうしよう……」
床に転がっているそれは、随分古い様子の、木でできた写真スタンドだ。この部屋の住人がここにいる間は、大切に棚の一番目につく場所に飾られていて、彼が帰っていくと共になくなるものだった。
呆然と呟き、そっとそれを拾い上げた彼は、ガラスが大きく割れてしまっている事を確認して息をついた。
スタンドの中に入れてあるのは、セピア色の古い写真が1枚。
椅子に座った初老の婦人と、その脇に立つ大きなテディベアを抱えた少年。その後ろには、穏やかな笑みを浮かべる女性と、少し緊張した面持ちの男性。
それは、彼とその家族であろうと、この家に暮らす者は想像していたし、それは多分間違いではないだろう。少年から彼の面影を見る事は難しいが、後ろに立つ男性からは、彼の雰囲気を感じる事ができる。
「帰って来たら謝って、新しいのを用意するしかないんじゃないかな?」
壊れてしまった物に入れておくわけにはいかない、大切な写真であろうし、割ってしまってそのままに済ますのは、彼等としても納得できない事だ。
だけれど、先に代わりを用意するなんて事も、失礼な事のように感じる程に、そのスタンドは大切に扱われている跡が見えるものだった。
「そうね。そうしましょう。」
彼女はその意見に同意し、彼等はそれを大切に拾い上げると、階下の居間へ足を向けた。
夜も遅くなって、外から何やら話す声が聞こえてくると、彼等は一様に緊張した面持ちで玄関へ視線を向けた。
彼は、今日は買い出し班の一人として、もう一人の住人と共に家を開けていた。帰りには、もう二人を連れ帰ると言っていただけに、賑やかしい様子がそこから感じられた。
「ただいま。………どうしたんだ?」
景気よくドアを開けて居間に入って来た彼は、そこにいる人々を見て首を傾げ、それに続いて入って来た他の3人も、不思議そうに彼等を見遣った。
「何か、あったのか?」
心配そうに問い掛けた彼に、彼等は揃ってソファから立ち上がって、がばりと頭を下げた。
「ごめん!今日、部屋を掃除してた時に、写真立てを割っちゃったんだ。」
代表して、彼がそう言って謝り、ガラスの割れてしまった写真スタンドを差し出した。
「………あ……」
それを見た彼は、それを手に取り、暫く何ごとかを考えていたようだったが、小さく息をついて苦笑を浮かべた。
「仕方ないさ。ガラスなんて割れる物だからな。」
その声は、本当にそれを気にしていないようにも聞こえ、彼等は小さく安心の息をもらした。
彼が黙っている時間の長さだけ、彼の気落ちを表わすだろうと考えれば、ほんの数秒の間だけのその時間と、彼の声の色を合わせても、納得してくれているものと思えたのだ。
「明日、新しいスタンドを買ってくるよ。……同じのは探せないかもしれないけど。」
その写真を入れておくには、プラスチックの写真立てではあまりに不釣り合いだ。全く同じものにはならなくても、できるだけ似たものを用意したいと、彼等は思っていた。
「代わりはあるから、大丈夫だ。古くて座りが悪いから、変えようと思ってはいたんだ。」
気にするな。と彼は言って、それを眺める。
その表情は、どこか苦いものを感じるものではあったけれど、傷付いているとは思わないもので、どちらかと言えば、何かを思い出して懐かしむような様子にも見えた。
「……それ、あんたの家族だよな?」
横からその写真を覗き込んでいた彼が問い掛け、彼はそちらを見て軽く頷いた。
「何時頃の写真なんだ?」
「父が戦争に出る前だから、7歳くらいじゃないかな。」
その言葉は、彼等の中にはあまり現実感を伴わないものだったが、この写真がこれ程大切にされているという事は、この4人が揃って写真を撮る機会は、この先にはもうかなわない事になったのだと思うと、なんとも不思議な気持ちになるものだった。
「……でも、そんな頃の写真、よく持ってたな。」
戦争を無事に過ごせたとしても、彼はその後、恋人と逃亡を図り、それに失敗してブラックゴーストに連れ去られるという目にあっている。とても、こんな写真を持っていられるとは思えないのだ。
「友人が、幾つか保管していてくれたんだ。……手元に戻ってくるとは思ってなかった。」
そう言って、大切そうに木の枠を辿る指を見ていると、それがどんなに彼にとって大切なものなのかが知れるような気がして、彼等は、やはり、それをそのままにしてはいけないのではないかと、不安になった。
「俺は、そういうのないからわかんねぇけど、俺にもあったら、親の顔とか覚えてられたのかな。」
「俺も、じいさんの顔は、写真でしか見た事ねぇが、それで知ってるって言ってるんだから、忘れるって事はないな。」
彼等は二人でそう交わして、ふと気付いたように抱えている荷物を持って、慌てたようにキッチンへ入っていった。
「………なんか…凄い悪い事をした気分だよ……」
わざと落としたわけでもないし、うっかりしていただけなのだけれど、そんなに大切なものだと聞いてしまえば、何とかして元に戻さなくてはいけないような気分になる。それなのに、どうやら彼はそれを受け入れる気はないようだと言うのが、また困ってしまう事だった。
「なぁ、なんで、熊の人形なんか抱えてんの?」
部屋へ戻ったハインリヒは、当然のようにくっついてやって来たジェットの質問に、苦笑を浮かべて答えを返した。
「家族の写真を撮るんだから、ウォルフも一緒じゃないとおかしい。って俺が言うから、折れてくれたんだろうな。」
『ウォルフ』という名前が、この彼の抱える熊の名前なのだと理解して、ジェットは首を傾げた。
「人形が家族?」
スタンドを持ったまま、ジェットはハインリヒの腰掛けているベッドに飛び乗り、体を伸ばして問いかける。
「5歳の頃に、友だちに弟が生まれたんだよ。で、俺も欲しいって言ったら、暫くしてから、父親が買って来てくれたんだ。これが、今日からお前の弟だよ。ってな。」
「で、名前を付けて、弟だって事にしたわけか。」
「俺が、名付け親。飯の時間に隣の椅子に座らせてさ。大事にしてやってたんだ。」
ずりずりと肘で体を動かして、座るハインリヒの脇まで移動し、ジェットは写真を指差して問いかける。
「これ、親父さんだろ? 戦争に行っちまうから、弟ができないって事?」
「子供をもう一人は養えないって事だったんじゃないかな。うちは、あんまり裕福じゃなかったし。」
「……ふぅん…」
「まぁ、貧乏ってわけじゃなかったし、戦争始まる頃は、金は持ってたみたいだったけど。」
「軍事特需ってやつ?」
「準備の為の労働力が必要だったから。と、ものの本には書いてあったけどな。」
ハインリヒが、ブラックゴーストから逃げた後、自分の国へ帰る前に、様々な本を読んでいたのを、ジェットは知っていた。
彼が帰るべき国は、彼が国を出て来た時とはまるで様変わりしていると言うのを聞いた時には、その為の準備なのかと思っていた。だけれど、彼が最も多く読んでいたのは、彼がその国にいた頃の事を書いた本だという事も、様子を見ていて気付いていた。
「でも、疎開してる間に空襲で家が焼けたから、ウォルフと一緒にいたのは、短い間だったな。」
「……焼けちゃったのか…」
どこか悲しそうなその声に、ハインリヒは笑みを浮かべて、ジェットの頭を軽く叩く。
「戦争なんて、そういうもんだ。沢山のものがなくなる。」
生まれた家も、大事にしていた物も、大切な人も。それから、信じていた事も。
「……でも、この写真は、無事だったんだな。」
「ばあさんが、この写真だけは持って逃げたんだ。父さんが戦死したって知らせは聞いてたから、じいさんの写真と、この写真だけは、いつもトランクに入れてた。ベルリンから逃げる時も、持って逃げたんだって。」
「そっか。」
大事な写真なんだと、そう言っているのだと理解して、ジェットはガラスのない写真立てを撫でる。
「このスタンドもその時の?」
「ああ。」
「………そっか…」
それじゃ、せめてこれだけは、きちんとこのまま彼の元に置いてあげたいと、どこか悲しそうにも見えるハインリヒの表情を見て、ジェットはそう思った。
「ガラスを嵌め直す?」
「そう。枠は壊れてないんだから、ガラスだけ新しいのを入れてもらえばいいだろ?ついでに、後ろのスタンドも少し補強してもらえば、このまま使えるだろうと思ってさ。」
買い物に出かけると言ったジョーとフランソワーズにくっついて家を出たジェットは、写真が抜かれた後の写真立てを持ってそう主張した。
「どうせこのまま持ってるつもりなんだろうし、持ってるなら、使えた方がいいだろ。」
お詫びに、何か別のものでも贈ろうと決めていた彼等は、ジェットのその言葉に苦笑を浮かべた。
それを壊したのは、ジョー達で、ジェットはそれに関わっていないのに、ハインリヒが大切にしていた物だから。という理由だけで、自分でそれを直してあげようとする彼は、本当にハインリヒを大事に思っているのだと思い知らされる。
そして、彼がそこまで行動を起こすならば、ハインリヒがそう思い立たせるだけの事を、ジェットには見せたのだという事だ。
「どこか、工房とかねぇかな。」
「探してみましょう。時間が掛かるかもしれないけど、きっと直してもらえると思うわ。」
でも、その役目は、ジェットに譲ってあげるべきなのだろうと、フランソワーズは小さく息をついた。
ハインリヒは、自分達にはそれを望まなかった。ジェットにそれを望んだわけではないだろうけれど、多分、ジェットの好意ならば、彼はあまりこだわらずに受け取るだろう。そういう押しの強さが、ジェットにはあるとフランソワーズは思っていた。
「大事な物はさ、ちゃんと持ってねぇと。」
形に残る昔から傍にある大切な物を持たないジェットの言葉に、フランソワーズは静かに頷いた。
新しい大切な物が彼の元にできたのならば、彼がそれをずっと持っていられればいいと思う。彼の事も大切に思っているから、心の底から、そう思うのだ。
その部屋に戻って、彼はそこにある物を見て、ゆっくりとそこへ歩み寄った。
古い木枠の写真立てに、セピア色の写真が一枚。ガラスは微かに歪んでいるけれど、綺麗な一枚の新しいガラスが嵌め込まれている。
昨日割れてしまった、古いガラスはそこにはないけれど、それとよく似た新しいガラス。
形のある物は壊れてしまう決まりだから、これも壊れてなくなってしまうのは当然の事なのだと、昨日必死に自分に言い聞かせたもの。
写真に映る人は、自分を除いて全てもういない人で、自分もこの頃の自分と同じだとは言い切れない。
この写真は、信じていた世界が壊れてしまう前の、大切な時間の証でもあったから、この写真に映っているのは、もう跡形もない消えてなくなってしまったはずの世界。
そういうものだと言い聞かせて、この世にある物は全て消えてなくなる決まりだからと言い聞かせて、必死になって諦めたのに。
そっとそれを手に取って、綺麗なガラスに指を滑らせる。
今朝になって、これを借りていくと言ったのは、これが壊れてしまったのとはまるで関係のない人物だった。だから、まさかこんな事を期待してなんていなかったけれど。
そっと目を閉じて、顔を俯けると、額に冷たいガラスの感触が伝わる。
「………」
諦めたのに。
捨ててしまえないから、これだけでも取っておこうと思ったけれど、なんとかこれが壊れた事には納得したはずなのに。
ここにあれば、どうしても嬉しい。
冷たいガラスから、彼の優しさが伝わるようで、喉の奥が痛くなる。
大切にしようと、再度、そう心に決めた。
5万HITの申請がなかった事を嘆く私に、ケーキと同人誌1冊の代価としてリクエストをくれた、なこさんの5万HITキリリク。
「物は壊れる/人は死ぬ/三つ数えて/目を瞑れ」から思い浮かぶ話。
抽象的にして、具体的なリクエスト。一瞬で浮かんださ。夏の新刊の為に、色々と頭を捻っていた時だけに、サクサク書いてしまいました。
『喉の奥が痛くなる』
私、泣くのを堪えてると、喉の奥痛くなるんです。そういう事。
このハインリヒ、凄く弱い人かもしれない………