約束を、一度でも嘘にしてしまったら、もう二度と、約束を約束と思ってくれないんじゃないかと、そんな不安を抱きつつ、彼が自分を忘れない程度の頻度を確保してその家を訪ねるようにしている。
別に、どうしてもそうしなくちゃいけないわけじゃなくて、ただ、自分がそうしたいだけ。
そんな事をぼんやり考えていたノイは、ふいに名前を呼ばれて足を止めた。
「ノイ、ちょっとこっちおいで。」
手招きするのは、彼の知り合いの娘で、自分も既に馴染んだ、果物屋の女主人だった。
珍しい品物でも入荷したのだろうかと、彼女の如才のない商売の腕を思い出して、そちらへ足を進めれば、彼女はいつもとは少し違った表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
「ちょっと、聞きたい事があってね。中へお入りよ。」
言われるままに、店の奥まで入ると、そこで、彼女の母親である、彼の馴染みの人物が待っていた。
「こんにちは。」
「いらっしゃい。」
彼女には、彼の若い頃の話を、少しだけ聞いた事がある。彼女にとっては、自分の祖父の事になっている、彼の事。
「どうしたの?」
「実はね、ちょっと気掛かりな手紙が来たのよ。」
彼女はそう言って、封筒を差し出した。
「読んでいいの?」
「ええ。それが用事なの。」
言われるままにそれを受け取って、中を開けてみると、そこには、固い文字で綴られた手紙と、古ぼけたメモを写した写真が入っていた。
「この差出人の事を、知ってるかって事?」
「それと、そのメモの事を知っているか、という事なの。」
「………俺はわからないけど、アルトに聞いてみる。」
彼女の所へ送られてきたというのならば、彼に心当りがあってもおかしくはない。それに、そのメモの筆跡は、大人が書いたと言うよりも、子供の字のようにも見えるから、彼が知っている可能性もないわけじゃないはずだ。
「お願いできる?」
「うん。…これ、急ぐ話かな?」
「そうね…多分、少し急ぐのだと思うわ。」
彼女の返答にしっかり頷いて、そこを離れる。
「これ、持って行かなくていい?」
「覚えたから大丈夫。」
手紙の内容も、写真の文字も、一度見れば頭の中に保管しておける。そういうところは、この頭はなかなか便利だ。少なくとも、今日一日くらいなら、完璧に思い出せるはずだ。機械と違って、ちょっと、保管能力は劣るけれど、でも、彼に関する事だとしたら、きっと、もっと長く覚えていられるはずだ。
少し不思議そうな顔をする彼女に笑って、そこを離れる。急ぐのだとしたら、早く伝えてしまった方がいい。そう思った。
彼は、いつものようにドアを開けて、中へ招いてくれた。そうしてくれないと困るけれど、時々、それを不思議に思う事がある。彼は、本当は何を思ってこうしているんだろうかと。
「さっき、果物屋で、カール・イェレミースって人の事を知ってるか、って聞かれたんだけど、アルト、知ってる?」
テーブルに座って、彼が出してくれたコーヒーを受け取ってから問い掛けると、彼は少し驚いたような表情を浮かべた。
「知ってるが……」
「その人が、メモの意味を知りたいって、手紙を出してきたんだって。誰か、知らないか。って聞かれた。」
「………どんなメモだった?」
心当りがあるのだと、それでわかった。表情が固くなり、それに答えを返すのが、いい事なのかどうかがよくわからなくなる。それでも、黙っているわけにはいかなくて、見てきたメモの内容を思い出す。
「赤い花の下を探せ。恐れるなかれ、其は、冒涜にあらず。」
子供の書いただろうと思われる文字にしては、内容は固く、それは誰かに頼まれて書いたものだったろうと思う。
「………帰ってたのか…」
彼は、それを聞いて、小さくそう呟いた。だから、それは、当りだったんだろう。あのメモを書いたのは、彼だったという事。
「なんか、ちょっと急ぐみたいだよ。」
「連絡が欲しいという話だったのか?」
「1週間後に、こっちへ来るから、その時に話が聞きたいって。」
「……そうか。」
「連絡する?」
知らせるべき電話番号も覚えているし、どこか、乗り気でないようにも見えるけれど、こちらからそれを閉ざしてしまうわけにもいかなくて、そう問い掛ければ、彼は黙って頷いた。
「俺も、その時一緒にいてもいい?」
問い掛けると、彼は安心したように、笑って頷いた。多分、彼も、一人で会うには、困るような相手だったんだろう。いい思い出か、悪い思い出か知らないけれど、でも、50年以上握っている事なのだから、きっと、重いものなんだろうと、思った。
「本当は、会いたくない?」
「どうかな………よくわからない。」
彼がこんな物言いをする事は、本当に珍しい事で、ちょっと戸惑う。この話は、自分が握りつぶしてしまうべきだったんじゃないかと思って。
「手紙の内容、どんなだった?」
「えっと……それだけが心残りで、それが解決できたら、自分の苦しみは、殆ど全部、消えるだろうって。そんな感じだった。」
思い出しつつ、かいつまんで説明すると、彼はつまらなさそうに頷いた。これで、彼の関心事は他所へ移ったんだと思って、別の話でもしようと、この間出掛けた先の事など話してみる。せっかく傍にいるんだから、彼の沈んだ顔なんて見ていたって、楽しくないから。
1週間後、約束通り彼の家を訪れると、相変わらずの黒い出で立ちで、彼は俺を迎えてくれた。
「双児みたいだな。」
多分、彼は黒いだろうと思って、それに合わせて黒い服を着てきたから、彼は笑ってそんな事を言った。
俺たちは、確かに、双児かもしれない。親子かもしれないし、全くの他人なのかもしれないけど、でも、彼が、自分と同じ部分を認めていてくれるような気がして、なんだかとても嬉しかった。
「待ち合わせは何時?」
「人目がない方がいいから、夜にした。」
彼はそう言って、いつものように、俺にコーヒーとお菓子を出してくれる。もしかして、落ち込んでいたりしないかと、少し心配していたんだけど、意外に大丈夫そうで安心した。
「悪い事でもするの?」
「誉められたりはしないだろうな。」
彼は笑ってそう答え、向いに座って、一緒にコーヒーを飲む。
目の前に出されているケーキが、彼の手作りなんだと知ったのは、ここへ来はじめてから、5回目くらいの事だったと思う。まだ、ケーキは焼けていなくて、彼は、とりあえずコーヒーだけ出してくれた。
俺は、それまで、誰かの手作りだ。とはっきりわかる物を食べた事がなくて、それが、凄く嬉しかった。
研究所では、普通の食べ物はあまり食べないし、自分の為に作られた物でもないから、『手作り』なんてものだとは思えない。美味しくもまずくもない食べ物が、毎日用意される。
でも、ここで用意されているのは、自分の為に作られた物なのだ。もちろん、自分の為だけに作られているわけじゃないのかもしれないけれど、でも、間違いなく、この家を訪れる人間の為に作られているわけで、その中には、俺だって入っているはずだ。
「今日は、チョコレートケーキなんだ…」
「昨日、チョコレートが安かったんだ。」
所帯染みた事を言って、彼は手を伸ばして、俺の皿の上からケーキを一欠け奪っていく。こういう事ですら、俺には嬉しくて、駄目だなんて言いながら、皿を自分の方へ引き寄せる。
ここにいると、何をしていても楽しい。黙って背中合わせで寝転んでいる事も、何のあてもなく散歩している事も、絶対、何かの意味があるような気がして、いつも、幸せな気分になれる。
ただ、そこに、彼がいるだけで。それが、何より嬉しい。
最初、それがあまりにも幸せだったから、彼を、連れて帰りたいと思った。ずっと自分の傍にいてくれたら、どんなに嬉しいだろうと思った。だけど、それでは、意味がないって事も、すぐに気付いた。
俺は、ブラックゴーストにいて、彼は、そこから逃げ出したのだから、彼を連れて帰れば、俺は、逃亡者を捉えたとして、きっと、何らかの恩恵を受ける。でも、彼は俺の傍から取り上げられて、一緒にいる事なんてできない。
それじゃ、他のどこかへ、連れて行ったらどうかと思った。でも、それも良くはないと思った。俺は、ブラックゴーストにいるから生きていけるのであって、他では、何をしたら生きていけるのかわからない。
彼をずっと傍に置いておきたいなら、俺は、彼を一人でどこかへやるのも嫌だろうし、自分が一人でどこかへ行くのも嫌に違いない。そうしたら、俺たちは、生きていく事なんてできない。
だから俺は、ずっと一緒にいる事は、望まないようにした。俺は、彼がここにいて、俺を笑って迎えてくれる事が、一番いいことなんだと思うようになった。
そう思う暫く前に見たドラマの中で、自分のものにしておきたくて、相手を殺してしまった人間の話があった。殺してしまったその人間は、肉になったそれを見て、なんだかとても満足そうだったけれど、俺には、その気持ちが良くわからなかった。
だって、死んでしまったら、その人はもう、自分に笑ってもくれないし、話しかけてもくれない。他の誰かの所へは行かないかもしれないけれど、自分の所にいてくれるわけじゃない。ただ、そこにあるだけだ。俺は、そんな『物』には用がない。だから、俺は、そういうのは違うと思う。
彼が、俺の事を、どう思って傍においていてくれるのか、本当のところは、わからない。でもきっと、彼も、俺が何を思ってここに来るのかを、わかってないと思うから、これは、お互い様の事だ。
多分、俺は、彼の中で、1番にはなれてないと思う。これは、悔しいけど、認めるしかない。でも、2番には、なれるんじゃないかと思う。だから、それで、満足してもいいような気がする。俺の1番は、彼しかいないし、2番はその他大勢と一緒だから、順位に意味もないけれど。
そう、その、彼の1番。あれは、俺にとってとても邪魔な存在だ。だけど、ちょっとだけ、同志のような気持ちもあったりするのも、本当。大嫌いだけど、あれは、彼には必要なものなんだと思う。
この部屋の中にある、あれが寄越したと思わしきもの。ソファベッドだったり、鉢植えだったり、とにかく存在を主張するものが多い。そういう物を置いて、自分がいるのだという事を主張しているのだけど、それは、単に好きな人の傍に自分をいつでも主張したいとかだけじゃなく、自分の存在を、彼が忘れてしまったりしないように、という事なのだ。
もし、彼の周りに何か起こって、それで、彼が自分なんてどうでもいいんじゃないか。なんて思った時に、そう思ってない人間がいるって事を、知らせる為に、必要な事なのだ。
それは、俺が、次はいつここへ来るのかと、大雑把な約束をして帰るのと同じ事。彼を、この世につなぎ止めておく為に、必要な事なのだ。
あれは、そういう事を、よくわかってる。だから、そういうところは、あれを認めてもいいと思う。あれの事は大嫌いだけど、あれが彼の為にしている事は、よくやってくれてると思う。多分あれも、俺の事を、そんな風に思ってるんじゃないかと思う。
その人は、二人連れで姿を現した。年寄りが一人と、もう若いのが一人。考えるまでもなく、年寄の方が、用件の人物に違いない。若い方は、今の俺たちよりも、ちょっと若く見えるくらいだから。
年寄りの方は、俺達を見て、少しだけ驚いたような顔をした。アルトは、父親に似ていると聞いているから、多分、その辺の事情なんだと思った。
「では、行こう。」
アルトはそう言って、先に立って歩き始め、俺は後をついてくる足音を確認しながら、慌ててその後を追いかけた。
二人連れは、どこか緊張したような様子で、足音も落ち着かないもので、平然と歩いているアルトとは正反対だった。もちろん、アルトは行き先を知っていて、彼らは知らないのだから、それも仕方のないことなんだろうけど、多分、それだけじゃないんだと思う。そう思うくらい、年寄の表情は、暗かった。
「どこへ向かっているんだ?」
質問は、若い方から、英語で向けられた。俺は黙ってアルトの背中を見やり、アルトは振り向きもしないで答えを返した。
「着けばわかる。」
その答えを聞いて、若い方の男は少しむっとしたような表情を浮かべたけれど、アルトはそちらにはまるで注意を払っていなかった。もしかしたら、彼はそんな風に対応されるのに慣れていないのかもしれない。そうなると、それなりの扱いをされる地位にいるという事だろうか。そんな事を思いつつ、彼の服装を眺めれば、俺たちよりはいい生活をしているのは確かだと思った。なんとなくだけど、服の仕立てが良いように見える。年寄りの方にしても、来ている服がピタリと体に合っているように見えるから、あれは、所謂るオーダーメイドってやつなのかもしれない。
それなら、自分よりも見劣りする服装の人間から、こんな反応をされるのが納得いかなかったんだろうけど、アルトは、そういう事にはちっとも構わないから、可哀想と言えば、可哀想かもしれない。世の中には、そういうものに、欠片も敬意を払わない人がいるって事を、知っておくのは、いいことだと思うけど。
「君たちは、誰から、これを伝えられたんだね?」
「じい様から。」
本当は、アルトがずっと一人で抱えていた話だけど、そんな事を説明するのは難しいし、いもしないおじいさんを設定しておいても、問題ないはずだ。問い掛けた年寄りの方だって、俺たちから見て、祖父だったとしても、そんなにおかしくはないと思う。
「そうか…」
納得したのかしないのかは微妙な感じだったけれど、年寄りの方はそう呟いて黙った。
「ところで、どっちがカールさん?」
一応確認しておくべきだろうと思って問い掛ければ、年寄りの方が自分だと認めた。そのまま、視線を若い方に向けると、その人は、苦笑を浮かべて答えをくれた。
「そちらは、孫のスヴェンだ。」
「スヴェン?」
何か気に掛かったのか、アルトはその名前を聞き返し、それを聞いた年寄りは、アルトに少し戸惑ったような表情を向けた。
「知ってる名前?」
「…じいさんの隣の家に住んでた子供の名前と一緒だ。」
アルトの隣に住んでいた子供の名前。別に、特別な名前じゃないけれど、多分、なんらかの意味を含ませてつけられた名前なんだろうと思う。
孫の方は、それを知らなかったようで、少し驚いたように自分の祖父を見やった。でも、その祖父の方は、まるで何かに怯えるかのような表情でアルトを見つめ、アルトに正面から見据えられると、慌てたように視線を外した。
「別に、珍しくもないけどな。」
その場の雰囲気をごまかすようにアルトは呟き、そのまま歩き始めた。なんとなく、この会合は、楽しい結果だけ産むものじゃないんじゃないかという気になってきた。誉められる事じゃない事をしに行くわけだから、心楽しい事ではないだろうとも思っていたけど、なんだか、掘り起こしてはいけない過去を掘り起こしに行くような、そんな気がしてくる。
「アルト。」
「どうした?」
やめたほうがいいんじゃないかと言いかけた俺に、アルトは不思議そうに問い掛けて、それから、少し心配そうな表情を浮かべて、俺の様子を伺う。
「帰るか?」
「一緒にいる。」
やっぱり、アルトも気乗りじゃないのだとわかったから、だったら、俺がいなくちゃダメに決まってる。だってこれは、アルトの生きてる理由が一つ減るかどうかって話なんだから、あれがここにいないなら、俺がいなくちゃダメなんだ。
「あなたたちは、双児なのか?」
黙って歩いている事に飽きたのか、孫のスヴェンが俺たちに声を掛けてきた。
祖父の方は、なんだかそれどころじゃないような、思いつめたような顔をしていて、そちらには声を掛けないのが無難だと、一目で知れた。だから、しかたなく、ちょっとだけ下手に出て声を掛けたんだろうと思うくらい、どこか不服そうな表情を浮かべているのがおかしかったけれど、その辺は、見ない振りをしてやるのが、心ある人間のやり方ってやつだと、本に載ってた。
「従兄弟だ。」
アルトの知ってる事と、俺の知ってる事には差があるから、双児だって事にすると、ちょっと都合が悪い。だから、俺たちは従兄弟だって事になってる。だって、一緒に育った人間が、子供の頃の記憶が違ってるって知れたら、引き離されて育ったのか、本当は双児じゃないのか、って事になるじゃないか。
「よく似てる。」
「双児同士の子供だからさ。」
俺が補足説明を付けてやると、スヴェンは納得したように頷いた。全くの嘘なんだけど、これが通じなかった事がないから不思議だ。言ってる俺もそうだけど、なんとなく、説得力があるような気がするんだと思う。
「それで、あなたの方だけが、情報を持ってたって事か。」
「ああ。」
アルトは軽く頷き、俺は、その向こうに見える景色に首を傾げた。
「アルト、そこ、お墓…」
「え?」
スヴェンも驚いたようにそちらに目をやり、アルトは黙って頷くと、足早にそこへ近付いていく。
「そこが、目的地なのか?」
「そうだ。」
「誉められない事って、アルト、もしかして…」
お墓で昼間にはできない、誉められない事と言えば、墓荒らしくらいしか思い浮かばない。
ここのお墓は、昼間は訪れる人が多いし、誰もが、お墓は綺麗に飾ってる。クリスマスに来た時なんて、小さなツリーが飾ってあったし、花壇みたいになってるお墓だってある。アルトのおばあさんとお母さんのお墓は、いつも黄色の花が咲いてるのを、俺は知ってる。
「そう。『赤い花の下を探せ。』だ。」
「そんな、こんなに沢山の中から?」
スヴェンも慌てたようにそう言い、困ったように辺りを見回した。大体、夜に赤い花なんて見つけられないだろう。ここは、明かりもまばらだ。
「あんたの赤い花だ。」
アルトは、年寄りの方を見据えてそう言った。そして、それを聞いた当人は、弾かれるように顔を上げ、言葉にならない何かを伝えようと、口をぱくぱくと動かした。
「伝言が書かれたのは、あんたがそれを受け取ったのと、それほど違わない時期だ。」
「……私の……」
「そう。あんたの、赤い花。」
二人にしか通じていないんだろうと思うやり取りに、俺とスヴェンは何も口を挟めなかった。でも、暫くして、ふらふらと歩き出した祖父を、スヴェンは心配そうに眺めていた。
「恐るるなかれ、って、その下を掘れという事だな?」
「ひねりのない前文と合わせれば、そういう事だよね。」
「暗号じゃねぇんだから、ひねりがあるわけねぇだろう。」
アルトは呆れたようにそう言い、俺たちは、ちょっとがっかりした。すごい大変な宝探しだと思ってたのだ。なんとなく、含みがなさそうでもない文章だったから、まさか、本当にただの伝言だなんて思わなかった。
「……それで、出てくるものは、いい物なのか?」
ふと、それが気に掛かったようで、スヴェンは問い掛け、アルトはふらふら歩き出した祖父のカールをゆっくり追い掛けながら、首を傾げた。
「どうだろう……俺には、ちょっとわからない。」
アルトも戸惑っているのは、その答えでわかった。アルトは、こういう時に曖昧な事はあまり言わない。だから、本当に判断がつかないんだろう。
「贈り物なんてのは、受け取る側の心一つだからな…」
「どういうことだ?」
スヴェンがその言葉の意味を読み倦ねたのか、そう問い掛けた。
プレゼントは贈る人間の気持ちを表わすんじゃないだろうか。俺も今までそう思ってきから、その気持ちはよくわかった。だって、どんな本を読んだって、心を込めて贈り物をしなさいと書いてあった。
「昔、貧乏人は嫌いだって、手酷く振った女に、高い結婚祝貰ったらどう思う?」
質問で返されて、俺とスヴェンはちょっと考え込んだ。こういう時のアルトの質問って、物凄くストレートで、そういう経験とかあるんだろうかって、思ったりする。
「嫌がらせだな。」
「ちょっと、嫌な感じ。」
あんまり変わらない答えが出てきた事に、アルトはおかしそうに笑った。
「二人とも、余裕が無いな。実は、富豪の妻になってて、自分の事を本当に祝っててくれるのかもしれないじゃねぇか。」
その答えに、俺はアルトが何を言おうとしてたのか、ちょっとわかった。
それは多分、善意から用意された物だけれど、受け取るあの人が、それをどう受け取るかで、善意はかき消えてしまうかも知れないって事。だから、アルトには、それがいい物なのかどうか、計りかねるという事。
「そんなに、微妙な物なのかい?」
「50年も前の話だからな。」
「その時受け取ってたら、違ってた?」
「ああ。だから、わかりやすく伝言を書いたのに。」
ひねりもなく、ただ素直に書かれた伝言を、あの人は真正直に読めなかった。だから、今になってそれを受け取る事になって、それは、今だと、とても微妙な物に成り変わってしまっている。だとしたら、それで傷付くかもしれないという事で、アルトがあまり気乗りしない風にも見えたのは、多分、そのせい。
「ああ、見つけたようだな。」
アルトは、しゃがみ込んだ後ろ姿を見てそう呟き、俺たちは、慌ててその場所へ足を向けた。
しゃがみ込んで、必死に土を掘る姿に、俺はちょっと驚いた。
「其は、冒涜にあらず。か…」
スヴェンは祖父に手を貸さなかった。祖父の背中が、それを拒否しているように見えたからだ。
そして、その手は、土の中から、箱を一つ取り出した。
「これは、開けても大丈夫なのかね?」
「ああ。」
アルトの声は固くて、その声を聞いて、彼は暫く動きだせずに、それを眺めていた。
「………贈り主を、教えてもらえるかい?」
「開ければわかる。」
アルトは、冷たく聞こえる程に固い声でそう返して、スヴェンがそれを批難するようにそちらを見て、開けた口を閉じた。アルトが、なんだか、泣きそうに見えたから。
「アルト…」
思わず、アルトの手を取って握ると、少し驚いたようにアルトは俺を見て、それから、笑ってくれた。それで、俺は物凄く安心して、アルトが手を振り払わないでいる事を嬉しいと思った。
「……」
黙って箱を見つめていた彼は、ぎゅっと拳を握り、ゆっくりと箱の蓋を開けた。
「これは……」
箱の中には、包みが一つと、硬貨が詰められていた。それは、俺が見た事もない物だと思った。
「ライヒスマルク…か?」
硬貨の一枚を手に取って彼はそれを確かめて、それから、震える手で包みを手にした。
「おじいさま?」
なかなかそれを開けられずにいるのを見て、スヴェンが戸惑うように声をかけると、彼は大きく頭を振った。
「大丈夫だ。」
手は借りないと、その声は伝えているようで、スヴェンは膝を着こうとしていたのを諦め、小さくため息をついた。
アルトは俺の手を受け入れてくれたけれど、彼はそうではなくて、でも、スヴェンが着いてきたのは、多分、こんな時に、力になるべきだと思ったからなんじゃないだろうかと、俺は思った。思って、俺はアルトを見つけてよかったと思った。
彼は、ゆっくりと包みを開け、中に包み込まれていた封筒を開け、ゆっくりと中の手紙を取り出した。
俺の手の中のアルトの手に力がこもり、俺は、アルトがそれの内容を知っているのだと気付いた。
「……ぁ……ぁぁ………」
読み進めるうちに、彼は崩れるように地面に腕を着き、スヴェンが慌てたようにその背中を抱えた。
「おじいさま…」
暫く、スヴェンに抱えられたまま呆然としていた彼は、孫の腕に気付いたのか、次第に落ち着きを見せ、そして、アルトを見上げた。
「…私の無事だけ祈っていると……自分達の無事も祈らずに?」
途方に暮れたようなその問い掛けの意味は、俺にも彼の孫にもわからなかったけれど、アルトは、その質問を聞いて、何度も何かを言い掛けてはそれを堪えて、拳を握りしめた。
「…彼女らの無事は、あんたが、祈っていたんだろう。」
震える声でアルトはそう言い、それを聞いた彼は、目を見張り、首を横に振って口を開けた。
「黙れ。」
アルトは、その口から声が漏れるより先に、そう言い放った。それは、怒りを含んでいると、ハッキリとわかるものだった。だから、今さっきの震える声は、悲しいとか苦しいとかじゃなく、怒りを抑えていたんだと、俺はやっと気付いた。
「たとえそうじゃなくても、肯定しろ。それが、あんたの為に死んだ人間への礼儀だろう。」
その言葉に、彼は呆然を表わした表情で、アルトを見つめた。多分、彼が、聞こうとしていた事の一つが、今示されたという事で、その彼の無事を祈っていた人というのが、あの箱を埋めて、アルトに伝言を頼んだ人なんだろう。
「…俺が、そう聞いたら、言った。……あんたが祈っててくれるはずだから、自分は、あんたの無事を祈ってるって。」
「………私は…」
「あんたは、何が起きるか考えずに逃げたかもしれないが、それを聞いた人間は、何が起きるかわかってたんだ。それでも、あんたを心配してたんだよ。……だから、そうだって言ってくれ。」
必死に感情を押し殺しているのがわかる、揺れる声でアルトはそう言い、それを聞いていた彼は、口を噤んで静かに頷いた。
その姿を見て、アルトは、息を着いて彼に背中を向けた。俺は、慌ててそれを追い掛け、振り解かれてしまった手を伸ばして、アルトを追い掛けた。
「アルベルト!」
走るのに近い速度で遠ざかるアルトを追い掛けていた俺は、後ろから呼び掛けられて思わず足を止めた。
「アルト?」
俺と同じように足を止めて後ろを振り返ったアルトは、それ以上は続かなかった言葉を待たず、今度はゆっくりと歩き始めた。
「…大丈夫?」
「………ああ。」
アルトは俺の伸ばした手を振り払わず、俺たちは手を繋いでゆっくりアルトの家に向かった。
アルトの生きている理由の一つは、多分、これで一つなくてしまったんだと思うけど、でも、こうして俺と手を繋いでいてくれるなら、これまでよりも、アルトが俺の事を生きてる理由に認めてくれるんじゃないだろうか。
ずっと、こうしてアルトの傍にいられたらいい。こんな風に、手を繋いで隣を歩いていられたらいい。
この場所で、アルトと一緒にられたら、それが一番嬉しい事だと思った。