贈る物



 コーヒーを飲もう。そう思ってキッチンに足を運んだハインリヒは、そこにあるべきものがない事に気付いた。
「…おかしいな…」
 決まった豆を決まった量だけ。という、きっちりとしたコーヒーに対する決め事を持つドイツ人である彼は、豆をきらした事などこれまでに一度だってなかった。量が減ってきたら必ず買い足しておくようにしている。
 でないと、こうして飲みたいものも飲めなくなるのだから、それは当然の事。
 どうして忘れていたんだろうかと必死に記憶を探れば、仕事で家をあける前にここを訪れていた人物が、豆がなくなったと言っていたような気もする。
 彼は、教え込むまでは、水のようなコーヒーをいれてきた呆れるべき舌の持ち主だから、豆を買いに行かせる事なんてなかったのだが、こんなことならば、買ってこいと言っておくべきだったかもしれないと思う。
 仕事を終えて、ゆっくりコーヒーでも飲んで寛ごうと思っていただけに、これから豆を買いに外へ出るのも面倒で、自然、ため息がもれる。
 仕方がないから、紅茶でも飲んでみるかと、普段は滅多に開けない棚を開けて、そこに納まっている紅茶の缶を取り出した。
 それは、以前にこの部屋を訪れたイギリス人が持ってきたもので、彼がここにいる間は、コーヒーではなく、紅茶を飲まなくてはならないのが決まり事だった。初めて彼がここで紅茶をいれた時、隣でコーヒー豆を挽こうとしたら、紅茶の香りの邪魔になると、怒られた。
 それを聞き、自分が水のようなコーヒーをいれるアメリカ人に向かって怒った事を思い出し、おとなしく引き下がってしまった。
 もちろん、ここは自分の家なのだからと、抵抗する事も可能だったはずなのだが、おとなしく座って待っていろなんて、自分に向かって言う人間なんて滅多にいない事も抵抗できなかった一因だと思う。
 懇々と説明された、おいしい紅茶のいれ方を記憶の底から引きずり出して、ケトルに水を注ぎ入れた。
 コーヒーにこだわりはあるが、紅茶にこだわりはない。美味しいもまずいも、正直言ってわからないのだが、旨い紅茶葉なのだから、きちんといれて飲めと言われて教えられれば、真面目にそれを実行しなくてはならないような気にもなる。
 教えられた通りに準備を重ねて、紅茶をいれ終わった時には、疲れに拍車が掛かったような気分になり、ベッドの端に腰を掛けてカップに口をつけると、盛大なため息がもれた。
 やっぱり、コーヒーがいい。
 しみじみとそう思いつつ、カップの紅茶をすすっていると、ドアをノックする音に続いて、声が聞こえた。
「ハインリヒ、いるんだろ?」
 聞きなれた声に、立ち上がって壁際のテーブルにカップを置くと、玄関へ足を向ける。
「ハインリヒ?」
「今、開ける。」
 近所迷惑も考えない大声にそう返すと、ドアの向こうの彼はおとなしくなり、カギを開け、ドアを開けた。
「こんばんは。」
「ああ。」
 海を越えたところに暮らしているはずの彼は、割と頻繁に海を越えてやってくる。自分ならば、海を越えるには金がいるのだが、金を掛けずに海を越えられる彼は、前もっての連絡もなしにやってきては、暫くこの部屋で過ごして帰って行く。最初は他人が生活圏にいる事に堪えられず、早く帰れとせっついていたのだが、最近では、それも気に掛からなくなっている。
「飯は?」
「まだ。」
 コーヒーを飲んで一息ついてから、軽く何かを腹に入れようと思っていたのだが、紅茶をいれ終わった時点で、既にその気も失せていた。
「よかった。土産買ってきたんだ。」
 ほっとしたように笑って、彼は手に持った袋の一つを上げてみせると、中へ入ってくる。
「今帰ってきたところ?」
「ああ。」
 先に立って中へ戻ると、彼は後ろをついてきて、テーブルの上のカップを見て首を傾げた。
「なんで紅茶?」
「豆がなかったから。」
 そう答えると、彼は得意げに胸を張って、先ほど見せたのとは違う袋を開けて、中に入っていたものを取り出した。
「あ…」
「豆の名前なんて覚えてなかったんだけどさ、袋の色と、ハインリヒの特徴言ったら、店の人が出してくれた。あったら、持って帰ろうと思ってたんだけど、役に立ってよかった。」
 こういうところ、この男は気が効くよな。と思う。言われたこちらはすっかり忘れていたのに、言った当人はきっちり覚えていて、それを用意してくる。こういう気遣いと言うのは、自分にはないな。と思う。
「疲れてるんだろ?座ってなよ。コーヒーいれてくる。」
 そう言って、テーブルに置いておいたカップを持って、彼はさっさとキッチンへ足を向けてしまう。
 せっかくいれたんだから、何も片付けなくてもいいのに。と思いはしたが、コーヒーをいれてくれるなら、おとなしく待っていようとすぐに思い直し、そのままベッドに転がった。
 
 
 
 
 紅茶の入ったマグカップを持ってキッチンへ行くと、小さくため息がもれた。
 キッチンの戸棚の中に、それがあるのは知っていたし、時々、その中身が減っているのも、知っていた。もちろん、それが誰の手でこの家へ持ち込まれたのも知っているし、それが減る理由もわかっている。
 この家を訪れるのは、自分だけではない事。彼にとって、その人物も自分も、単なる仲間に過ぎない事もわかっている。でも、それが少し悔しい。
 この家にあるもので、自分でもなく、ハインリヒでもない人間が持ち込んだと思われるものは二つ。紅茶の缶とティーカップ。戸棚にきちんとしまわれたそれは、自分がこの家にいる間には、絶対に棚から出される事はない。
 この家にあるもので、自分の持ち込んだものは一つもない。でも、自分の為にあるものが一つ。ハインリヒが買ってくれた青いマグカップ。他の物は、元から家に用意されていたものを使わせてくれるのだけれど、コーヒーを飲むマグカップだけは、何故だか自分のために買ってくれた。どうやら、それが彼なりの決め事のようだとは後になってわかったが、それでも、嬉しかった。
 でもなんだか、あの紅茶の缶だけが、どうしても気になって仕方がなかった。
 だって、マグカップはハインリヒは使わないけれど、紅茶は彼も飲む。だから、悔しい。
「そんなの、考えてないだろうけど。」
 小さく舌打ちしてケトルに水をいれて火にかけると、マグカップの中の紅茶をシンクに流し、カップを洗う。彼に恨みなんて感じたりはしないけれど、彼の紅茶はちょっとだけ恨めしい。だから、自分がいる間は目に触れないでほしいのだ。
 買ってきたコーヒー豆の袋を開けて、教えられた通りにきちんと量を計って、コーヒーミルに豆を入れる。ごりごりと豆を挽きながら、この時に、嫌いな人の名前か何かを唱えていると、ちょっとだけ気が紛れると、彼が言ったのを思い出す。
 グレートの紅茶。真っ白のティーカップ。勝てないレース。遅い車。
 でも、憎い程の人間を思い浮かべると、動きが荒くなるから、ちょっとだけ気に入らない人にしておかなくてはいけないそうだ。
 鈍いハインリヒ。
 大好きだけど、ちょっとだけ、嫌い。
 そんな事を考えながらコーヒーをいれて戻ると、ハインリヒがベッドに転がっているのが見えた。
「ハインリヒ、コーヒーできたよ。」
 いつもならば、それで起き上がる彼が、寝転んだままだという事に首を傾げ、二つのマグカップをテーブルに下ろすと、そっとその様子を伺った。
「……」
 目を閉じていると、彼はずっと人らしく見えるようになる。表情も、どことなく柔らかく見えるような気がする。
 そんな事を思いつつ、そっと傍に寄って、近くでその様子を眺めようとすると、ぱちり、と彼が目を開けた。
「あ…」
「……寝てたか…?」
 少しぼんやりした声で問い掛け、体を起こすのを見て、小さくため息がもれた。彼は、顔を眺めていられるのがあまり好きではないから、寝ている彼は、じっくりと姿を眺められるいいチャンスなのだ。
「ちょっとだけ。飯にしよう。」
 笑ってそう言うと、彼は頷いてベッドをおりてテーブルに戻ってくる。
「随分、疲れてるみたいだけど。」
「長距離の仕事だったから、ちょっと寝不足なんだ。」
 彼は、人相手の仕事は向かないからと、ずっとトラックの運転手を続けている。もっと楽な仕事もできるんじゃないかと思うのだが、どうやら彼は、その仕事が気に入っているようだ。
「邪魔だった?」
「コーヒー買ってきてくれたからいい。」
 それは、手ぶらで来たら追い返したという事か?と、取れなくもない事を言う彼は、別にそんな事を考えているわけではなくて、邪魔ではないと答えてくれているだけだ。こういう時、彼はあまり素直でない。
「何時までいる?」
「とりあえず、三日はいる。」
「じゃ、明日の朝、パン買ってきて。」
「うん。」
 最近彼は、帰れと言わなくなった。いるならば役に立てと言うけれど、それはどこか嬉しいからいい。
 もそもそと買ってきたサンドイッチを食べている彼は、どこか眠たそうで、少し微笑ましい。そんな事を言ったら、帰れと言われるに違いないから黙っているけれど。
「今度、サボテン買ってきてもいい?」
 以前に、殺風景な部屋に鉢植えでも買ったらどうかと言ったら、家を開けて枯らすのが嫌だと言って断られた事がある。でも、サボテンだったら、2日くらい家を開けていたって、大丈夫だ。
 この家に、自分が持ってきたものを置きたい。これまでは、あまり強く思ったりはしなかったのだけれど、今日は何だか、とても気になる。
「枯れるから、植物はいらない。」
「サボテンなら大丈夫だって。簡単には枯れないのに、花が咲くと綺麗だよ。」
 そう畳み掛ければ、ハインリヒは少し困ったような顔をしてから、頷いた。
「枯らしても、文句言うなよ。」
 悪い事を想像しなくてもいいのに。と思うのだけれど、彼の性格なのだろうから、頷くだけで済ませておく。
 自分が、未来を良い方向に想像して行動するのと違い、彼は最悪のパターンを想像して行動する。こういうところで、自分達は少しも似ていないと思うのだけれど、でも、だからいいのだと思う。
「花が咲いたら、呼んでよ。」
 そう言うと、彼は苦笑を浮かべて頷いた。





silver moonの村瀬さんのお宅へ、貰い物と交換でお嫁入りしました。
ほのぼのした感じのお話が。ということで、ちょっと暖かめのお話を書いてみたつもり。しかし、どこまでいってもちらつく7番さんの影。
 おわかりと思いますが、この3人、いたってノーマルな仲間付き合いを続けておりまして、7番さんにはそれ以上の感情なんて、これっぽちもありませんし、4番さんも、特別なお仲間との認識しかしておりません。2番さんが一人で、4番さんを好きなだけ。と言うわけでもないですが。
 しかし、最近、一人称のお話ばかり書いていて、3人称のお話の書き方忘れてるかもしれない。


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