「センカ。」
 ふいに後ろから名前を呼ばれ、彼はその声の主を探して振り返った。
「久しぶりだな。」
 片手を上げて挨拶をするその姿に、センカは笑みを浮かべて頷いた。
「一月ぶりだったか?」
 確認するように返せば、笑って頷いた彼はゆっくりと歩み寄ってから問いかけた。
「最近どうだ?」
「そろそろ、中忍試験でも受けさせてやろうかと思ってるところだよ。」
 センカの現在の仕事は、下忍の担当官である。どの子どもも、アカデミーを経ることなく下忍になっており、未だ6歳という幼さだった。
 もちろん、彼らがその年齢にして下忍として認められたのは、その能力あっての事である。センカが中忍試験を受けさせようと考えているのも、酔狂で言っていることではない。
「それは、それは。」
 馬鹿にするでもなく、恐れ入るでもなく、上っ面の声を返した彼は、ひょい、とセンカの背中の方へ視線を向けた。その先を辿る事なく、センカは問いかけた。
「反対しないのか?」
「お前の子どもの事を、俺がどうこう言えるものじゃないだろ?」
 センカが子ども達を『うちの子』と紹介する為に、彼は担当する下忍達を、センカの子どもと言う。そして、その言葉通りに、下忍達をセンカの家族のように評するのだ。
「……まぁ、ね。」
「俺だって、うちの子どもの事、お前に何か言われる筋合いなんてないわけだし。」
 彼の言う『うちの子ども』は、彼の息子の事である。
 4歳になるはずだと、センカは記憶している。彼の息子への愛情はただ事ではなく、彼の息子は親の愛情に溺れるようにして生きているのではないかと、センカは思う。
 その反面で、家から外へ出る事のない彼の息子は、親以外の愛情は知らない生き物でもあるとも、センカは知っていた。
 外の世界も知らない子どもを作っていいのかと、口に出せない疑問を抱えている事を、彼は知っているのであろうと、センカは思った。
「可愛い息子は、元気にしてるか?」
「そこら中、転げ回って遊んでるみたいだ。」
 子どもの事を問いかければ、彼は嬉しそうに笑ってそう答えた。その笑みは、上忍の物とは思えない程のんびりしており、そこらの親と何ら変わるところはなかった。
「外に出したのか!?」
 その返答に驚いて問いかけると、彼は軽く頷いた。
「そろそろ、そういう時期かと思ってね。最近はお客さんも少ないし。」
 軽い言葉で表現されたが、そのお客さんという言葉が、里への侵入者を指す事を知っているセンカは、友人の顔をまじまじと見つめた。
「……もっと先にするんじゃなかったのか?」
 家を出ていくところを目撃されると困るし、帰ってきた時に襲われても困ると言っていたのを、センカはよく覚えている。
 彼がわけもなく子どもを家に閉じ込めているわけではない事は、それを聞いてわかっていたが、それだけではないことも、センカは知っている。
「どうやら、仕込みをしてるのが俺だけじゃないみたいでさ。……外に出してから、よく喋るようになった。」
 笑って楽しそうにそう言った彼は、後ろへ飛ばしていた視線を戻し、右手をあげる。
「お待ちかねのお子さん到着だ。またな。」
「あ、ああ。またな。」
 指差された先を振り返ると、彼はひらりと手を振って歩き出し、センカの元へ子ども達が駆け寄った。
「先生、報告終わりました。」
 社会勉強。などというごまかしをして、任務の報告書を提出するよう命じた子ども達は、ぴしりとそう言って、センカの言葉を待っていた。
「はい、御苦労さん。それじゃ、解散。」
 その言葉を聞いた途端、子ども達はセンカの腕を引き、その背後を指差す。
「先生、さっきの人、誰?」
「先生のお友達?」
 未だ後ろ姿が見えているのか、子ども達の視線はセンカを通り越したままである。
「先生が、誰かと立ち話してるのなんて、初めて見た。」
「なんか、ぼんやりした人だったよね。中忍?」
 子ども達の遠慮のない言葉に、センカは苦笑を浮かべる。
 確かに彼は、人当たりのいい笑みを絶やさない人物である。その上、威圧感も感じさせる事がなく、かといって、卑屈な様子があるわけもない人間だった。ただそこにいる、普通の人。彼を表わす言葉は、それ以外にはない。
「お前たちね、あれは、ぼんやりに見えても、上忍。それもわからない様じゃ、どうかと思うよ。」
 センカの言葉に、彼らは目を見開いて驚きを表わした。
「しかも、尋問係だ。」
「嘘!」
「まさか。」
「そんなはずない。」
 子ども達の主張に、センカは思わず笑いをもらし、子ども達はその反応でそれを真実と受け取ったらしく、呆然と見えているらしい姿を見つめていた。
「……先生の、友達?」
「ああ。一番の友人だな。」
 センカは、子どもの頃からの付き合いのある彼に、随分と救われているような気がしている。
 何気ない一言が、人を救う事があるのだと教えてくれたのは、彼である。
 初めて会った時に彼の言った言葉は、その後のセンカを作り上げたと言ってもいい程の影響力を持っていた。
 彼が、それに気付いている様子はなかったが、そんな事は、口にして伝える事ではないと、センカは知っていた。
「あの人、なんて名前?」
「蒼牙。」
 牙がはえてるから、こんな名前になったんだと、真顔で嘘を言ってから、真っ青の空の下で産まれたんだと、本当の事を語った。その言葉に、センカはそれをうらやましく思った事を覚えている。
「ソウガ?」
「蒼い牙って、書くんだよ。」
 あの日蒼牙が言った通りにそう伝え、センカは幼い頃を思い浮かべた。あの日、己の前に光が差したその喜びを、センカは今でもはっきりと思い出す事が出来るのだ。






 忍術アカデミーでの生活は、センカにとって楽しい事ではなかった。そこで教えられる事は、センカにとって特殊な事でもなく、あらかたの事は知っている事であった。
 そして、その事を知っている教師たちが、自分を周りと違うものとして扱う事がある事も、センカにとっては気の重い事の一つだった。
 どうしてあのまま下忍にならなかったのかと、教師たちの目が語るのを、見ないふりで過ごしていたセンカは、友達を作る事も面倒だった。
 どうせ、すぐに別れていく人間と、わざわざ仲良くする必要もないと思っていたし、彼らも自分を違うものとしてみている事が、苦痛だった。
 そして、今日も今日とて、センカは教室の隅の机で、窓の外を眺めながら、次の授業が始まるのを待っていた。
「なぁ、お前、名前なんて言うんだ?」
 ふいに前の席に現れた少年の声に、センカは驚いて視線をそちらへ向けた。そして、そこに立つ黒髪の少年を見て、それが珍しい名前を持つ少年である事に気付いた。
「あ、俺、蒼牙。海野蒼牙な。」
 少年は急いで言葉を付け足し、センカを下から見上げている。
 木の葉の隠れ里の中で、海に関わる名前を持つ人間は、それほど沢山いるわけではない。その中で、海野という姓を、センカは自分の保護者から何度か聞いた事があった。
 同じクラスにいると伝えると、保護者は驚いたように頷いた。できるのならば、仲良くしなさいと言ったその言葉の意味を、センカはよくわかっていなかったが。
「センカ。」
 同じクラスになってから、一月近くが経とうとして、やっと口をきく人間がいるという事を、蒼牙が気にしている様子はなかった。彼は黒い目を輝かせてセンカに問いを重ねた。
「どういう字?」
 書いてみせろとばかりに、蒼牙は紙と鉛筆を差し出し、センカがそこへ文字を書くのを待った。
「………」
 センカは、それに答えを返す事ができなかった。センカは漢字で自分の名前を表わす事が嫌いだったのだ。
 センカの母は、戦場でセンカを産んだ。妊娠を知らずに任務についた母は、身重のまま任務を続けた。血を見る戦乱が始まる頃には、身体の状態を考えて、センカの母の任務は情報収集に移行した。
 センカが産まれた後も、母はセンカを里へ連れ帰る事なく任務を続け、戦の後の混乱の中でセンカを育てた。
 そして、母の送り続けた情報に依り、その街は再び戦場と化したのだ。
 そんな経緯を後に聞いたセンカは、自分の名前を不吉なものとしか思えなかった。そして、周りの大人達も、それを否定する事がなかった。
 戦火の中で産まれた子ども、禍いを呼ぶ子ども。『戦火』か『千禍』か。センカは、母が何を思って自分の名前を付けたのか、問いかける事のできぬまま、母を失った。
 その為、センカは自分の名前に、良い意味があるとは思えずに今まで生きてきたのだ。
「やっぱ、『千嘉』かな。」
 センカが答えない事に焦れたのか、蒼牙はそう言って、自分の持っていた鉛筆でたどたどしく文字を綴った。
「……千嘉…?」
 初めて見るその2文字に、センカは蒼牙を見つめた。
「あ、俺の字はね、こう。」
 何度も書いて練習したのだろうかと思うような、かっちりとした文字を蒼牙は綴った。
「牙がはえてるから、蒼牙って言うんだ。」
 そう言って、蒼牙は口を開けて、人よりも少し尖った犬歯を見せた。
「……赤ん坊に歯なんてはえてない。」
 そう言って否定すると、蒼牙は驚いたようにセンカを見返し、そして笑った。
「騙されなかったの、お前が初めてだ。……俺、真っ青の空の下で産まれたんだって。」
 蒼牙はそう言い、窓の外を指差した。
「……そう…」
「センカは?」
「俺は、曇りの日だったって。」
 空には煙が立ち篭めて、それはそれは喜ばしくない日に産まれたのだと、時折立ち寄る男が語っていった。
「じゃ、やっぱり、千嘉だな。」
「なんで。」
 蒼牙は、自分の産まれてきたその時を知らないから、そんな事を言えるのだとセンカは思った。自分は、青空に祝福されて産まれたような子どもではないのだ。
「子どもが産まれるのって、どんな喜びにも勝るって、うちの父ちゃんが言ってた。どんな悲しい事も吹き飛ばすくらいに、嬉しい事なんだってさ。」
 蒼牙はそう言って笑い、センカは蒼牙の書いた文字を見た。
 千の喜び。なんの喜びも救いもない場所で、街を焼き人を焼く煙の下で産まれた喜び。
「…千嘉……」
 青空に祝福されて、親に愛されている子どもの言葉だと、センカはそれをわずかに羨ましく思い、それと同時に、蒼牙の言葉を受け入れたいと思った。
 センカにこの名前をつけた母が、センカが産まれてきた事を、そこまで喜んでいてくれたのならばいいと、それほどに自分を祝福してくれた人がいたのならばいいと、そう思った。
 目の前でセンカを見上げている黒い目に、何かを言わねばと思い口を開こうとした時、教室のドアが開き、担任の教師が姿を表わした。
「海野。ちょっと、おいで。」
 教室を見回した教師は、蒼牙の姿を見つけるとそう声を掛け、蒼牙は小さくため息をつくと頷いた。
「何かしたのか?」
「……ん〜……多分、そうじゃないと思う。」
 少し悲しそうな笑みを見せて、蒼牙はそう答えると、教室の入口に立っている教師の元へ歩いていった。その笑みが、今さっきまでの明るいものとはまるで違う事に、センカは心の中で首を傾げ、教師と揃って出ていくその姿を見送った。
 そして、蒼牙はその後の授業には、姿を見せなかった。
 
 
 
 その日、仕事から帰った保護者に、昼間の蒼牙の話をすると、彼はとても嬉しそうに笑った。
「センカが、いつ学校の友達の事を話してくれるか、楽しみにしてたんだよ。」
「……まだ、友達ってわけじゃない。」
 自分は、蒼牙とは違うのかもしれないという気持ちを、センカはまだぬぐい去れないでいた。そして、自分が母に望まれていたのだとも、どこかで認められなかった。
 蒼牙が立ち去ってしまったせいなのか、あの時の感動は、どこか嘘を塗り固めたように感じるようになってしまったのだ。
「……蒼牙は、青空の下で産まれたんだって。」
「…ああ…確かに、あの日は、すごく綺麗な青空だったよ……」
 その答えに驚いて、センカは保護者を見つめた。
「知ってるの?蒼牙の事。」
「俺も、情報部の端くれだったからね。」
 そう言った保護者が語ってくれた事は、蒼牙がセンカに語った説明の、何倍も暗い話だった。
 センカはそれを聞いてやっと、蒼牙の父が語ったという言葉の意味を理解した。そして、自分が母に望まれた子どもであると、母のつけた名前は、センカがこれまで考えていたような意味などないと、信じる事が出来た。
 どんなに悲しい事も吹き飛ばすくらいに、嬉しい事だったのだ。
 蒼牙が無事に生を受けた事は、蒼牙の父親にとって、何よりも嬉しい事だったのだ。多分、自分が産まれた時の事を、蒼牙は知っていて、それでも、笑って言ったのだろう。
 そして、もしかしたら、センカの産まれた時の事も、蒼牙は知っていたのではないだろうかと思う。
 クラスの中で、たった一人浮いているセンカの事を、蒼牙は父親に聞き、その答えを受けて、センカの名前を聞く事で、教えてくれたのではないだろうか。
 自分達は、決して違う生き物なんかではないのだと。
「……友達に、なれるかな……」
「センカが、それを望むなら、きっとね。」
 保護者は笑い、センカはそれに頷いた。






「先生?」
 物思いにふけり、足元の子ども達の事を忘れていたセンカは、ハッとして声の主を見た。
 銀色の髪の、どこかふて腐れたような顔をしている子どもだ。
 彼は、両親を亡くした事を理由に、センカが引き取って育てている。任務が終わっても、センカと共に帰るように躾けていた。
「あ、悪い。……あいつら帰っちゃったのか?」
「先生が、ぼんやりしてるから。」
 そう言ってから、少年はセンカの袖を引いた。
「帰ろう。」
「ああ、悪いな。」
 揃って歩き始め、センカは低いところにある頭を撫でた。
「一番の友達って、そんなに、いいもの?」
 問いかけは、センカを見上げて口に出された。とても気掛かりな事を聞くように、そっと口に出された問いかけに、ごまかしをしてはいけない事を、センカはきちんと理解していた。
 幼い下忍を預かるにあたって、随分と勉強をしたのだ。その中には、親友とも呼ぶべき、海野蒼牙への相談も含まれていた。
 子どもとは、如何に育てるべきであるか?
 その問いに返った答えは、それでいいのかと疑わしいものだった。
 曰く、させたい事を、本人のしたい事に仕向けろ。
 そんな答えは求めてはいなかったが、あまりに彼らしく、笑ってしまったのを覚えている。
「そりゃ、いいものだよ。カカシ。」
「………」
「お前も、いつか、親友だって言い切れる奴ができるといいな。できるだけ沢山、さ。」
「………うん。」
 カカシは、少し恥ずかし気に笑って頷いた。きっと、その脳裏には、スリーマンセルの相棒達が浮かんでいる事だろう。
 できるのならば、彼らの世界が、もう少しだけ外へ広がるといいのだが、とセンカは思う。
 このまま中忍になってしまっては、それも難しいかもしれないと思いつつも、彼らの才能を埋もれさせておく事も惜しい。
 その葛藤の中で、結局センカは彼らを中忍試験に推薦した。あとは、彼らが自分達で選べばいいのだ。そして自分は、わが子同然の彼らを、守ってやればいいのだろう。
「カカシ、お前、中忍試験、自信あるか?」
「あるよ。」
 問われる事すら心外であると、少し不機嫌そうに答えたカカシの銀色の髪を撫でながら、センカは笑みを浮かべた。






 センカが蒼牙と初めて話をしたその日から、蒼牙は1週間も学校を休んだ。
 高熱が出て、とても学校に来られる状態ではないと、担任教師が説明し、蒼牙が次の日から学校へ戻ってくるという説明の時、彼の記憶がかなり乱れているのだと聞かされた。
 多分、この1週間の事は覚えていないから、それを責めたりしてはいけないと言た。その次の日、怪我から来た熱だったのかと思う程に、傷だらけで蒼牙は登校してきた。
 そして、センカが声をかけると、蒼牙はあの時と同じように、名前の文字を訪ねた。
「カタカナで書くんだ。蒼牙は、どういう字?」
「蒼い牙って書く。」
「……晴れの日に、産まれた?」
「何で、知ってる?」
 驚いたように問い返した蒼牙は、センカに語った事も、覚えていないようだった。
 それでも、センカは構わないと思った。センカしか知らない蒼牙の話。それも、いいじゃないかと思ったのだ。驚く蒼牙に、センカは笑って言った。
「なんとなく、そんな感じがした。」
「そっか……俺さ、真っ青の空の下で、母ちゃんの腹の中から引き出されたんだって。」
 蒼牙は笑ってそう言った。1週間前には言わなかった事をするりと口にしてしまった事に、自分で驚いたのか、蒼牙はびくりと震えて、センカを伺った。
「…気味悪かった…?」
「そんな事ない。俺は、戦場で産まれたらしいよ。」
 あの日言えなかった事を口にして、センカは笑った。蒼牙があの日、自分を変えてくれたから、その蒼牙にならば、話しても構わないと思ったのだ。
 蒼牙ならば、たとえ1週間の記憶がなかったとしても、センカを避ける事はないだろうと、そう信じられた。
「…………そっか……いろいろあるよな。俺ら、忍者の子どもだからさ。」
 ただそれだけの理由で納得するには重すぎるような事でも、そう言って笑える蒼牙を、センカはすごい奴だとそう思った。
 そして蒼牙は、そのセンカを、すごい奴だと思っていたと、センカはずっと後になって聞く事になる。
「よろしくな。」
 笑って手を差し出すと、蒼牙は驚いたようにそれを見つめ、小さく言った。
「俺、干渉力使いだけど。」
「触るの、気持ち悪い?」
 触れる事で他者を操る能力を、干渉力と呼ぶ。
 センカは先日、保護者からその話を聞いていた。故に、彼らに触れようとするものは少なく、彼らには、握手の習慣はないのではないかと、友達になるきっかけを何処に求めようかと相談したセンカに、保護者は言った。
「……そんな事ない。」
 蒼牙は慌てたようにそう言って、そして、差し出したセンカの手を握った。
「よろしく。」
 笑う蒼牙に、センカも笑って頷いた。これでいいのが、友達なのだと、そんな事を考えながら。

 
 
 



影形の里へ