陽射しが随分と温かくなってきた頃、朝食の準備の最中に、センカが話をしてくれた。
「もうすぐ、蒼海花が咲くんだよ。今度、皆で見に行こうか。」
「どんな花ですか?」
聞いた事もない名前に、イルカは首を傾げて問いかけた。
「真っ青のね、すごく綺麗な花。凱華の国花なんだよ。」
「青い花……」
垓紫では、青い花なんて聞いた事もなかった。元々花はそれほど多くはないけれど、それでも『青』という色は、垓紫では誰も見た事はないだろうと思う。
「垓紫にはない?」
「ないです。どんな花ですか?」
「炎火草に近い形なんだけどね、夜にも咲いてる珍しい花でね。波打ってる花びらがね、外に向かって薄い色になっていって、あれが咲いてるのを月明かりの下で見ると、すごく、静かな気持ちになるんだよ。」
そう語るセンカの表情が穏やかで、イルカはそれが余程綺麗な花なのだろうと思う事ができた。
凱華の地に咲く花は、色鮮やかなものが多く、イルカはいつも驚かされる。同じ花でさえ、凱華で咲けば鮮やかで、それが緑の大地の上にある事が、更にその色を引き立てているのだということに気付いた時、イルカは少しだけ、悲しい思いをした。
同じ赤い色の花を、垓紫の茶色の土の上で見つける時、それが花である事に感動する。でもここでは、それが赤い事に感動するのだ。それほどにありふれた物が、それでもずっと美しい。
「昼間はお店があるから、夜に見に行こうね。」
「はい。」
センカはイルカの返事を聞いて、満足そうに頷いた。
「もうすぐ満月だから、その時にしようか。」
「じゃぁ、お酒と食べる物持って出掛けましょう。」
「ああ、いいね。それ。」
凱華には、月を見て酒を飲む習慣はないと、初めてイルカが月見を提案した時に教えられたけれど、センカはそれを気に入ったようだった。その月に、花が増えるのならば、それは楽しい夜になるだろう。
「その花、薬になるんですか?」
草や木を見ると、それが薬になるのかどうかが気になるのが薬師の習性である。イルカは、ムードがないと、時々言われた事があった。
「あれは、見て飾るもの。女性は好きだから、花の時季に結婚する人は、必ず髪飾りにするよ。」
そんなに綺麗な花があるのならば、本に載っていてもいいのにと、イルカは思った。垓紫は本物の花を見る事が出来ない事が多いから、本で絵を見てそれを覚えるのだ。本に載っていない花は、垓紫にとって存在をしらない花に近い事になる。
「あれを枕元に飾って寝ると、死んだ家族に会えるからって、夢見草とも呼ばれてるんだけどね。」
「垓紫には、夢見の木って呼ばれてる木がありますよ。」
黄緑色の花を咲かせる、珍しいその木は、垓紫の南部にしか生息しない木で、旅人が物珍し気に眺める木であると共に、南部の人々には欠かせない木だった。
「夢を見る?」
「はい。でも、それだけじゃなくて、色々と、大切な木なんです。」
神様の住む木だと言われているその木は、各家に1本ずつ植えられている。子どもが生まれると、枝が1本落ちる。その落ちた枝で、祖父母がお守りを作ってくれるのだ。
そのお守りは、死ぬまで肌身離さず身に付け、死ぬと木の根元で燃やされ、土に返される。守ってくれた神様の力を、もう一度神様の元へ返すのだ。
「垓紫って、他所とは違う風習が多いよね。その木も?」
「はい。」
「いいね。そういうの。」
センカはそう言いながら、イルカが語らない事は聞かない。イルカは、それをいつも有難く思っていた。話さなくてはならなくても、なかなか言い出せない事を、センカはずっと待っていてくれる。それが嬉しい。
センカは、イルカの師に似ていると、時々思う。しばらく考えないようにしていた人の顔を思い出し、イルカは小さく息をついた。
自分は、彼を裏切ったようなものなのだ。いつか、きちんと謝らなくてはと思うものの、会う事は難しいのが現状だった。
「………おはようございます……」
顔を出したカカシののんびりした声を聞いて、センカはため息を一つつき、イルカは慌てたように笑みを浮かべる。
「おはようございます。カカシさん。」
「遅いっての!」
センカの言葉を気にする様子もなく、カカシは顔を引っ込め、テーブルへ戻っていく。
「お茶いれますね。」
一瞬だけ、落ち込んだような表情を見せたイルカに、何を言おうかと迷っていたセンカは、一瞬でそれを吹き飛ばしたカカシが、登場を伺っていたのではないかと、そんな事を考えた。
「カカシさん、お酒何がいいですか?」
出かける準備の為に、持って出る酒を用意しようとしていたイルカは、丁度顔を見せたカカシに声をかけた。
「何でもいいです。」
カカシは、自分が飲むものにあまり気を配った事がなかった。その場にあるものを飲むというのが基本姿勢で、好きならば量を入れ、嫌いならば手を伸ばさないというのが、カカシの飲み方だった。
「蜜酒でも?」
「………センカはなんて?」
酒の瓶を何本も持っていくのは重くて面倒だと思っての返答だったのだが、蜜酒のように甘い酒はカカシの好みではない。蜜酒がこの家の貯蔵庫に入ったのは、イルカが来てからの事だ。
「センカさんは、火酒です。」
「じゃ、そっちに。」
火が着くから火酒。という、そのままの名前を付けられたその酒は、この家で一番消費量の多い酒だった。そうは見えなくても酒飲みのセンカが毎日減らしていくため、買い出しに出かける度にイルカが樽を積んで帰ってくる。
イルカに荷馬車が来る前は、毎日カカシが酒瓶を持って買いに出掛けていたのは、笑えない事実である。
「もうすぐ出掛けますから、カカシさん、支度しておいてください。」
「はい。」
「寒いと思うんで、暖かくしてくださいね。」
「はーい。」
子どもに注意するような言葉に、カカシは苦笑を浮かべて返事をし、足を母屋へ向けた。
蒼海花が咲きそうだという話を最初にしたのは、カカシだった。
店に来た客が、緊張しながら、カカシに一緒に行かないかと誘ってきたのだ。
生憎、彼女に対してカカシは何の感情も抱いておらず、あっさりその場でお断りの言葉を返したのだが、その客と外ですれ違ったらしいセンカに問いつめられて、その話をしたのだ。
その時に、イルカを誘ってみたら喜ぶかもしれないとは思ったが、センカが本当に誘うとは思っていなかった。
「……いいんだけどね……」
誘ったセンカにも、同意したイルカにも、含むところなんてないのはわかっているけれど、少しだけ、腹の底がざわついた。
「何、ぶつぶつ言ってんの?」
ぽく、と後ろから後頭部を小突かれて、カカシは盛大にため息をついて振り返った。
「倉庫から、籠持ってきて。」
「わかった。」
「お前、持っていくんだからね。」
「わかってる。」
センカが籠を持って出かけるのなら、カカシにはその倍の物を持たせるのがセンカだ。今日だってきっと、荷物持ちはカカシになるに違いないのだ。準備は自分とイルカがしたのだから、持つのはお前だと言うだろうと、カカシは予想していた。
「……なんだろね……」
やけに物わかりのいいカカシの態度に首を傾げながら、センカはテーブルの上に用意した食事を包みはじめた。
結局3人が家を出たのは、月が登ってから幾らか時間がたった頃で、イルカがランプを持ち、カカシが籠を持っていた。
「夜はまだ、少し冷えますね。」
イルカがマントの前をしっかり合わせてそう呟き、センカも深く頷いた。
「そんなに遠くないから、急ぎ足で行こう。」
少しは暖かくなるかもしれないからと言って、足早に進むセンカをイルカは急ぎ足でそれを追い、後ろのカカシを振り返る。
「カカシさん、お酒だけでも、持ちましょうか?」
「大丈夫ですよ。これくらい軽いもんです。」
カカシは軽くそう答え、イルカに追い付くように足を早めた。
「イルカさんは、蒼海花を見に行こうって、誘われませんでしたか?」
「誘われましたよ。でも、センカさんとカカシさんと行くんです。って、断っちゃいました。」
へへ、と笑うイルカを見て、カカシは誰が誘ったのだろうかと、客の顔を思い浮かべた。
「誰です?」
「名前知らないんですよ。よくお店に来てくれる女の人で、くるくるっとした金茶の髪の人なんですけど。」
「ああ……」
おとなしそうな女性を思い浮かべ、カカシは頷いた。
町の住人で、カカシが店に出ていると、明らかに残念そうな顔をするのを覚えている。もちろん、当人は自分のそんな行動に気付いてはいないのだろうが。
「あれって、何か意味があるんですか?」
「私とおつきあいしてください。って事なんだよ。」
前を歩いていたセンカが、くるりと振り返ってイルカに答える。
「え?」
「蒼海花の髪飾りでお嫁に行くと、幸せになれるって言われててね、そんなところからできた事なんだけど、女の人は、花を見に行きましょうってお誘いなら、しやすいみたいなんだよね。」
「………それは……」
知らなかったとは言え、あんまりな断り方をしてしまっただろうかと、イルカは思わず考え込んだ。
「まぁ、そういう断り方したら、誘う理由がわかってないって気付くだろうけどね……」
イルカだって、女性に声を掛けられて嬉しくなかったわけではないが、そういう意味があったのならば、迂闊に頷かなくて良かったとも思う。
だって、イルカは彼女の名前だって知らないし、彼女が自分のどこを気に入ったのかなんて、更にわからない。
「まぁ、そんな理由がある人ばかりでもないけどね。」
俺が誘ったのには、他意なんかないよ。と、センカは笑い、小さく息をついたカカシを見て、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「…?」
イルカはその笑みを見て、二人の顔を伺い、首を傾げた。
「ああ、ほら、あそこですよ。イルカさん。」
ごまかすようにカカシが進む先を指差し、イルカはそれにつられてそちらに目を向け、駆け出した。
「イルカさん、転びますよ!」
子どもじゃないんだから、と思わずにはいられないカカシの注意も耳には入れず、イルカはそこへ辿り着くと足を止めた。
煌々と月の光の輝く下に、青い花が幾つも咲いていた。
「………ぅわ……」
どの花も、輝いているように見えて、イルカは呆然と立ち尽くしてそれを見つめた。
垓紫では、青い花は凶兆の証だと言われていた。見つけた人間には、不幸が訪れるのだと言われている。
だけれど、ここで咲く花はとても美しく、凶兆だと言われたとしても、何度でも見たいと願わずにはいられない力を持っていた。
「……ぁ…」
ずっと奥に咲く花が、青白く輝いているのを見て、イルカはそちらへ足を進めた。
「………父さん……」
その花の脇に立つ人を見つけて、イルカはぽつりと呟いた。
センカが、枕元に置いて眠ると、死んだ人の夢を見ると言った事を思い出す。イルカの父は、イルカがまだ幼い頃に病気で死んでいる。だから、ここで姿が見える事も、おかしくはないのかもしれないと思う。
「…………」
イルカの目の前で、父は穏やかに笑みを浮かべ、そっとイルカに手を伸ばし、頭を撫でてくれた。
『大きくなったな。』
「……俺…ね…」
その声は、記憶の中にある通りの響きを持っていて、イルカは何かを伝えなくてはと、拳を握りしめた。
『お前は、お前の望む通りに、生きるんだよ。』
父は死ぬ時、どうして生きて行けばいいのかと聞くイルカに、そう言ったのだ。後悔せずに生きなさいと、それが、父の望みなのだと言った。
「………」
『愛してるよ。私のイルカ。』
その言葉を聞いて、ぼろり、と涙がこぼれ落ちた。あの時、イルカはどうしても泣く事が出来なかった。
自分が悲しいのか悲しくないのかもわからず、ただ、自分の持っていたもの全部をなくしてしまったような、そんな気持ちだけが残って、父のお守りを焼いた時も、皆が泣く中で、ひとりぼんやりと立ち尽くしていたのだ。
「イルカさん?」
問いかけるような声に、イルカはそちらを振り返り、途端に驚きに顔を強張らせるカカシを見つけた。
「どうしたんです?」
慌てたように駆け寄ってきたカカシが、何かを探すようにしてから、袖口でイルカの頬を拭ってくれる。
「転んだとか……怖いものでも見ましたか?」
イルカはその問いに首を振り、その場にしゃがみ込んだ。
「イルカさん?」
カカシは、泣き止む様子のないイルカに慌て、こういう時はどうすれば良かったのかと必死に考え、はたと思いついて、イルカの前に屈むと、その頭をそっと撫でた。
「…ぅ……うぅ…」
途端に、更にぼろぼろと涙をこぼすイルカを見て、カカシは焦った。イルカが、小さな子どもを慰める時に、こうしていた記憶があったのだが、間違いだったのだろうかと思う。
「大丈夫ですよ。何も、怖い事なんかないですから。」
「……」
頭を撫でるその手の温かさが、父の手を思い出させ、それでもそれが違う手だという事は間違いなくて、イルカはカカシのマントの端を掴んで首を振る。
「…あ……の……」
「…父が…いたんです。」
小さく呟いたイルカの声を聞いて、カカシは俯き加減のイルカを見つめた。
「頭撫でてくれて……大きくなったなって……」
「……そうでしたか…」
父親を亡くしていたのだと知り、カカシは何と声をかければいいのかわからず、周りに咲く青い花に目を移した。
懐かしい人の幻を見せてくれるのだというその花は、祝福をくれる花だと言われている。この花の見せる幻は、いつも優しく、一番大切な思い出を見せるのだとも言う。
「俺、ここに来て、なんだか楽しい事が沢山あって、先生の事とか、父さんの事とか、全然思い出さなくなってて、なんて、ひどい人間だろうって、思ってたんです。」
村は今だって変わらずにあって、薬がなかったり、食べるものが少なかったりするかもしれないのに、今ここにいる自分が幸せで、少しずつそれを忘れていた自分が情けなかった。
本当ならば、自分こそが辛い思いをしなくてはいけないはずだと言うのに。
「……でも、お父さんは、叱ったりしなかったでしょう?」
カカシの問いに、イルカは頷いた。
「だったら、泣かないで、笑って。」
頭を撫でてくれる手は優しくて、イルカは顔を上げてカカシを見た。
「イルカさんが泣いてたら、お父さんも心配しますよ。」
「……はい。」
急に、泣いている自分が恥ずかしくなって、イルカは慌てて顔を袖口で拭った。
「すみません……いい年して……」
「別に、幾つになったって、泣いてもいいんですよ。うちの師匠が言ってました。」
カカシはそう言って立ち上がり、少し離れたところでこちらを伺っているセンカを見つけた。
「…………」
あの目は、絶対に楽しんでいる目だと、カカシは思った。間違いなく、このまま戻ったらからかわれる。
「カカシさん?」
不思議そうに問いかけられ、イルカを振り返れば、少し赤い目がじっと見上げてくる。
「……行きましょか。センカが焦れて怒る前に。」
そう言ってカカシが手を差し伸べると、イルカは驚いたようにそれを見つめ、そして、そっとその手を取った。
「来年も、見に来ましょうね。」
「………はい。」
ここへ来た本当の理由を考えれば、こんな風に先の事を約束するのは間違っているのだと思うけれど、ここはとても優しくて、心地良くて、できる事ならば、離れたくないと思う。
ごめんなさい。と心の中で謝って、イルカは後ろを振り返る。
月明かりの下で、父の姿が薄れていった。その顔が、笑っている事を、神様のお許しだと思おうと、イルカは心に決めた。たとえそれが、間違いなのだとしても。
バレンタイン企画、リクエスト作品。北京ダックさんより、『花見に行くor近所に3人で薬草を取りに行くさいに、満開の花をみて泣き出すイルカを暖かい目で見詰めるセンカさんと、不器用にイルカに接するカカシ』をリクエスト頂きました。
(2002.03.14)