窓の外の丸い月を眺めて、イルカは小さく頷いた。
「大丈夫、だよな……」
ここへ来て増えた荷物を入れている棚へ手を伸ばし、小さな鈴を手に取り、小さく振れば、それは小さく澄んだ音を響かせた。
「持ってきてよかった。」
村を出る時に、何を持って出るべきかと考えて、迷わず手にしたのがそれだった。
母が大切にしていた品で、置いていくには偲びなかったせいだったが、おかげでこうして役に立っている。
「成功するといいけど。」
うまくことが運びますように、と月にお祈りをして、イルカは寝台へあがった。
明日は晴れるといいと、寝転がった視界に入る空を見ながらそう思い、イルカは目を閉じた。
「今日の夜、お月見をしませんか?」
朝食の席でイルカがそう提案すると、センカが不思議そうに首をかしげた。
「どこで?」
「綺麗な所見つけたんです。」
内緒です。と笑うその表情を見て、センカは頷き、隣のカカシに目をやった。
「この間、蒼海花見せてもらったので、お返しに。」
「じゃ、また酒持って行きましょうか。」
あの時は、イルカも珍しく沢山酒を飲んで、思いのほか楽しい夜となったのだ。センカもカカシも、いつになく色々なことを話した。イルカがここへ来てから、一番楽しい夜だったと、二人は思っていた。
「昨日でお酒の樽空になっちゃったんで、俺、後から買いに行ってきますね。」
「ありがと。じゃ、ついでに買い物頼んでいい?」
この家の台所を預かっているセンカの言葉に、イルカは頷いてほっと息をついた。
「最近、カカシも飲んでるから減るの早いよね。」
以前は、センカが殆ど空けていたのだが、最近はカカシもぽつぽつと飲むようになり、酒の消費が増えたのは確かだった。とは言っても、センカの消費量はカカシを圧倒的に上回っており、カカシはセンカの言葉に内心で首を傾げて表は素直に頷いた。
「今日は満月だから、きっといい夜になりますね。」
カカシの言葉に、イルカは深く頷いた。
イルカは荷馬車で町に着くと、薬屋の前に馬車を止めた。
「こんにちは。」
声をかけて店の中へ入り、カウンターに座っているコノトに歩み寄る。
「どうした?」
「幻想花と同じ物ってありますか?」
声を潜めて問いかけると、コノトは驚いたようにイルカを見返し、しばらく考えてから頷いた。
「何に使うんだ?」
「ちょっと、幻影を見てもらおうかな、と思って。」
イルカは言葉を濁し、説明が難しいのだと表情で語る。
「………まぁ、いいが……」
コノトはどこか納得の行かないような顔をしながらも、カウンターを出て棚へ歩いて行く。
「こっちの人間は、薬の効きがいいからな、あんたの10分の1も飲ませれば十分のはずだ。」
「やっぱり、効き目がいいですよね。こっちの人たち。」
コノトの言葉に頷き、イルカはこれまでのことを考えた。
センカから色々と教わっているうちに、凱華の人々が、垓紫の人間よりも薬の効きがいいことはわかった。イルカの調合では、こちらには薬の効果が強すぎるのだ。その理由は予測はついているが、それはどうしようもないことだと思うしかなかった。
「幻覚系の薬は特に効き目がいいからな、気をつけねぇと。」
コノトの言葉に頷き、棚から取り出された薬草を受け取る。
「効力はほぼ違いはねぇ。使い方も同じだ。」
「やっぱり、耐性がついてないって事でしょうか。」
「そうだろうな。こっちの呪術師は扱いが低いからな。呪い用の香すら身近じゃねぇって話だ。」
垓紫では呪術師は扱いが高い。様々な儀式を執り行うのも彼等で、祭りにはなくてはならない人々だ。それがないことなど、イルカには考えられなかったのだが、凱華にはそういった祭りや儀式というものすら、殆どないのだ。それでは、呪術師の仕事もなかろうと、イルカはしみじみ思った。
「薬がなくて、更にそれが効き難い人間の国もありゃ、薬があって、更にそれが効きやすい人間の国もあるってんだから、神様も酷だよな。」
「………そうですね…」
神様のなさることを恨んでも仕方がないけれど、どうしてそんなに違いがあるのか、それを考えると、どうにもやりきれない気持ちになることは、抑えようのないことだった。
「ま、仕方のねぇ事だがな。」
苦笑を浮かべて、コノトはそう言った。
「イルカ、垓紫って、呪術医がまだ主流だって本当?」
「薬師が主流です。医者は珍しいので。」
センカの問いに、イルカはまだ火の灯っていないランプを軽く振りながら答える。
今日も、荷物持ちの担当はカカシが殆どの担当となり、イルカはランプと自分の荷物を持っていた。一応、提案者の責任と思い、自分が運ぶと言ったのだが、センカの鶴の一声で、荷物持ちはカカシの仕事となっていた。
「呪術医でも、薬師よりは医者扱いなの?」
「はい。南部なら、医者よりも呪術医の方が腕がいいです。麻酔も使えますし、怪我を治すのは特にうまいんです。」
その答えに、センカとカカシは驚いてイルカを見つめる。
普通垓紫では、医者が最新の医療を持っているもので、呪術医は呪い師と同等の扱いをされ、医師としての技はないものと見られているのだ。もちろん、垓紫だけではなく、そういう国の方が多いはずだ。
「麻酔って、医者でも使うの難しいんじゃなかったっけ?」
センカは確認するようにカカシに問いかけ、カカシはそれにぎこちなく頷いた。
薬師でも、麻酔薬を調合できる者は、かなりの技の持ち主として扱われる。センカやカカシも、麻酔はあまり扱いたくないと考えている質の人間だった。
「そうなんですか?俺たちなんて、一番最初に麻酔の扱い教えられますけど。」
あっけらかんとイルカがそう言い、センカは驚いてイルカの表情を伺った。
「だって、間違ったら死んじゃうんだよ?」
カカシやセンカが麻酔を扱いたがらないのは、結局はそれが一番の理由だった。
薬師という仕事は、医師程ではないが、人の命を左右する仕事だ。失敗は命に関わり、助けるためにこの仕事についている以上、あまり危険な橋は渡りたくないものだ。
覚えねば一生使えないというのは確かだが、元々、凱華では麻酔を使っての治療などは一般的ではないため、医師がそれを求められる事も稀なのだ。
薬師にそれが求められるなどということは、更に稀な事だった。
「間違わなければいいんですよ。」
イルカはあっさりとそう言って、ごそごそと腰に下げている袋を探った。
「これ、麻酔薬です。即効性と遅効性と分けてあるんですけど、これが作れるようにならないと、薬の調合は教えて貰えないんです。」
さらりと説明するイルカの手には、小さな瓶が二つ載っている。どちらも何の変哲もないガラスの瓶で、中には液体が半分程入っていた。
「……効果は、何で調べるの?」
まさか突然、客に処方するなどという危険な事はできないだろうが、誰かに使わなくてはその効果が確かめられるわけもない。
「自分か師匠かってところですね。あとは、採取対象の動物とか。…これは、針につけて刺して使うんですけど、吸引用のは呪術医しか使わないです。難しいので。」
「…………今度、教えてくれます?」
まさか、こんなにあっけらかんと麻酔を語る人がいるとは、これまでに考えたこともなかったカカシは、恐る恐るイルカに問いかける。
垓紫では、麻酔を扱おうとする薬師など、まずもっていない。センカでも、数度、師から手ほどきを受けたことはあるが、実践したことはなく、そこから時間が開いてしまったがために、もうそれに手を出そうという気はなかったのだ。
「はい。よろこんで。」
イルカはにこりと笑って、カカシにそう答え、センカも横で手を挙げてそれに加わることを主張した。
「お二人に俺が教えることがあるなんて、思いもしませんでした。」
イルカのその言葉に、教えを乞うた二人も、力なく頷いた。
「…ここですか?」
「ここって、蒼海花の…」
辿り着いた場所で、センカとカカシは首を傾げてイルカを振り返った。
蒼海花は既に散って、そこにはもう青い葉以外の何も残ってはいないのだ。もちろん、それを見にくる物好きもいない。
「はい。ちょっと準備がいるんで、お二人はお酒でも飲んで寛いでいて下さい。」
そう言って、イルカはカカシが運んできた荷物の中から、敷き布を取り出して地面に広げると、そこへ酒の瓶やら食事を並べて場を整えてから、自分の荷物を持って花の散った蒼海花の中へ足を向けた。
初めてここへ連れて来てもらった時に父親を見てから、イルカはここには何か特別なものがあるのだと思っていた。
その後にも、一人で何度かここを訪れ、蒼海花の言い伝えは、花の力ではなく、土地の力だという事に気付いた。
垓紫で言うならば、ここは神様の土地だ。凱華には神様という存在があまり重要視されていないため、この土地も注目を集めていないのだろうが、垓紫ならば間違いなく、祠か祭壇が作られる土地だろうと思う。
花の落ちた草の前でイルカは土に膝をつくと、両手を揃えて膝の前につき、頭を下げて額を地面までつける。
『どうぞ、お力添えをお願いいたします。』
あの日、とても嬉しいものを見せてもらったから、お返しをしたいと思った。でも、彼等はどうやら見えない人のようで、イルカが見た父の姿も、それ以外の物も見えていないようだった。だから、なんとかして、この綺麗な景色を見せたいと思ったのだ。
頭を上げ、イルカは腰に下げていた香炉を取り出し、蓋を開けた。
香炉の中では、幻覚を見せる薬が焚かれている。垓紫でも人外の者が見える者ばかりではないため、重要な祭りの際には香を焚いてそれを見えやすくする手を使う事がある。イルカが手に入れようとした幻想花というのが、それに使われる薬草だった。
イルカはそれを手に下げ、二人の座る場所の風上に歩いていく。
凱華の人間は、幻覚作用のある薬を殆ど使う事がないらしく、センカがそれをイルカに教える事はなかった。と言う事は、彼等には殆ど薬に耐性がないと言う事だ。
それならば、口から体に入れる事など危険でできない。香として使ったとしても、あまり大量に体に取り込まれても困る。
ならば、遠くでわずかに焚き、できるだけ僅かな量を取り入れてもらうしかない。そして、たぶんそれでも十分だろうとイルカは思っていた。
ついでに、土地の力の補助のために、用意して来た水を草の上へ撒き、草の上に見える光が少し強くなった事を確認する。
この土地にいる精霊は、仄かに青く光る姿でイルカの目に見えていた。それが、ゆらゆらと蒼海花の上を飛んでいる。
『ずっとここに?』
垓紫でも南部の人間しか使わない呪術師の言葉で問いかければ、彼等はすぅっとイルカの顔の位置まで上がって来て、にこりと笑う。
『あの人たちに、お礼をしたいんです。』
そう言えば、彼等は笑って離れた場所にいるセンカとカカシの元へ飛んでいく。それを見送って、イルカは腰の袋の中から鈴を取り出し、一つ振った。
リン。と澄んだ音が鳴り光が一際強くなった。
「……まぁ……待ちますか……」
イルカが綺麗な場所を見つけたと言うのならば、きっと何かがあるのだろうと、離れていったイルカを見送り、センカは布の上に腰をおろし、カカシも大人しくそれに従った。
「イルカって、不思議だよね。俺たちの知らない事ばかり知ってる。」
育った国が違うと言うのは、これほどに知識に差があるものなのかと、センカはしみじみ思う。常識に差があると言うのが一番正しいような気がするが、先ほどの麻酔の話にしても、まるで違っているのだから不思議だ。
「神様とか、お祭りとかさ、少し羨ましい気もするけどね。」
笑うセンカの視線の先で、イルカは地面に何やら撒きながら歩き回っている。
「面白い、と言いたいんだろう?」
センカにカカシはそう問いかけ、センカはその問いに笑って答えなかった。
「最初イルカを見た時さ、この子は俺たちとは違う子だな。って思ったんだよね。何が違うってわけじゃないんだけど、絶対違うって確信があった。だから、連れて来たんだけど、こんなに違うとは想像してなかった。」
センカはそう言って、カップを手に取ると、酒を注げとばかりにカカシに差し出す。
「……」
カカシはその態度に小さく息をついて、酒の瓶を手に取るとそれを満たしてやる。
「このお月見ってのも、いいよね。こっちじゃ、夜に外で御飯食べるなんて、考えもしないけど。」
「夜は恐い時間だって教えられてくるのが普通だからな。」
凱華には、月や星を見て楽しむ風習はない。だから、夜に外へ出る人間も稀なのだ。そして、夜に外へ出ると、人さらいにさらわれるだとかと脅かされて、子供は大人になる。だから、余計に夜に対する恐怖感は強い。
「知らなければそれまでだけど、知っちゃったらやめられないねぇ。」
センカは酒を口に運びながらそう言い、ふと耳に聞こえた音に首を傾げた。
「?」
カカシもその音を聞いたらしく、イルカの方に目を向けた。
イルカは手に持った何かを何度か揺らし、それにあわせて澄んだ鈴の音が耳に届いた。
「………あ…れ…?」
センカは、イルカの足下の蒼海花がぼんやりと青く光るのを見た。
「カカシ、あれ。」
「……何だ…?」
花はとうに落ちて、月明かりがあったとしても、それが見えるはずがないのだ。その上、その青い光はゆらゆらと揺れて、ゆっくりと上へ浮かんでくる。
「…………」
イルカがこちらへ歩いてくるのにあわせるように、いくつかの光がその後を追い、その背後で青い光は辺りを軽やかに舞いはじめる。
「…イルカさん、あれは?」
二人の元まで戻ってきたイルカに、カカシは問いかけ、イルカは安心したようににこりと笑った。
「あれが、俺が見てる景色です。」
イルカは、垓紫でも珍しい呪術師の目と技も持っていた。母親が呪術師だった事もあり、その手ほどきを受けた事もある。
「……あの青いのは?」
「ここの精霊です。めずらしく、ちゃんと土地にいるのを見たので、お二人にも見てもらいたくって。」
イルカは笑い、カカシはイルカの肩の辺りに浮かんでいる青い丸い光を眺める。
「俺、あまり呪術師の技は得意じゃないんで、今日みたいな満月でないと多分うまく行かなかったとは思うんですけど。」
「満月とか、関係あるの?」
「俺は、月の御加護をもらってるので、満月の時がいいんです。」
イルカの言葉に、センカは首を傾げながらも頷いた。こんなに不思議な光景が見られるのならば、とくにあれこれ言う事もないかと思う。イルカが綺麗なものを見せるといい、自分はそれを見た。それでいいじゃないかと思う。
「イルカも飲もう。」
センカはそう言って、イルカにカップを差し出した。
次の朝、イルカは珍しく遅く起きだしてきたセンカが頭を抱えている事に首を傾げた。
「センカさん?」
「……二日酔いみたい……頭痛い……」
その言葉の後、青い顔をして現われたカカシを見て、イルカは青くなって言葉を失った。
「なんか、視界が白いんだけど……」
間違いなくそれは、昨日焚いた薬の副作用だとしか思えなかった。確かに昨日は二人ともいつも以上に飲んではいたが、二日酔いだと言うよりも、薬の副作用だと思った方が納得がいく。だが、イルカは二人にはそれを告げていないのだ。まさか、あれ程でこんなに反応が出るとは思わなかったのだ。
「あ……お…俺、二日酔いによく効く薬知ってます。作ってきますね!」
イルカは慌ててそう言うと、台所を出て薬草庫へ走っていった。
「………イルカ、何使ったんだろ………」
「イルカさん、なんで平気なんだ…」
イルカの姿が見えなくなってから、センカとカカシは真っ青になりながらそう呟いた。
バレンタイン企画の対作。
(2002.03.14)