不思議な生き物



「ゾロ、出ておいでよ。今日のおやつは、ゾロの好きなチョコレートムースだよ。」
 閉ざされたドアは、鍵なんてかかっていないけれど、鍵なんてなくても、そこを勝手に開ける事は許されないことで、このドアの向こうに籠ってしまった住人に、必死に声を掛けるのが精一杯だった。
「余計な事をしたのは、謝るから。」
 部屋の中からは応えも反応もなくて、サンジはため息をこぼす。
 部屋の中に籠ってしまっているのは、10歳年下の8歳の弟だが、彼がこの家に来たのはほんの1カ月前の事だ。サンジが彼に初めて挨拶をしたのも、その時の事だ。
 ただ、サンジは彼の存在をそれより1年も前に確認している。今でも、当時を思い出すと、よくまぁ、犯罪者扱いされなかったものだと思うような行動だったけれど。
 それはさておき、その小さな弟が、こうして部屋に籠ってしまったのには勿論わけがある。サンジにしてみれば、ゾロが心配でした事だったのだが、ゾロにはかなり余計な手出しだったらしい。
「だって、ゾロが怪我したかもしれないんだよ。心配だったんだ。」
 語りかけても、ゾロは一言も返事をしない。家に来るまでの道のりと同じ事の繰り返しだった。
「………ゾロ、怒ってるの?」
 10も年下の子供にむかって、こんな事をしているのを、友人達に見られたら、かなりの高確率で指を差して笑われると思うのだが、そんなことはもう、どうでもいい事で、どうしたら、ゾロが部屋から出てきてくれるかが、サンジの一番の心配事だった。
 
 
 それは、今日の学校からの帰り道で起きたのだ。
 ゾロは、母親の事故死を理由に、サンジの父親に引き取られてきた、異母弟である。ゾロは、その事を知らないでいるが、サンジの父親が外に作った子供だという事になる。
 それほど遠い場所に暮らしていたわけではなかったのだが、ゾロはこの家に引き取られた際に転校が必要になった。転校したからには、それまで築いてきた人間関係を、最初から作り直す必要性が出てくるわけである。
 ゾロは、その歳の子供にしては、少々小さい。母親があまり子供に手をかける人間ではなかった事が理由か、遺伝的な事かは知らないが、とりあえず、現在のゾロは小さい。小さいが、ゾロは剣道を習っていたりして、殴られて泣くような子供ではない。そうではないのだが、やはり、小さいというだけでそう見られるところもあるわけで、ゾロはその周りからの扱いに、かなり不満を感じていたらしいのだ。
 しかし、道場などで教えられているせいなのか、ゾロは自分から喧嘩を吹っかけるような乱暴者ではなく、周囲の評価を改革する機会に恵まれていなかった。
 そこに、今日の事件が起きたのだ。と言っても、小学生にとっての事件なので、警察沙汰とかそういう事ではない。同じクラスの苛めっ子が、女の子たちと一緒にいたゾロとその友達に、ちょっかいをかけたわけだ。
 多分、その苛めっ子が気になる女の子でもいたのだろう。小学3年生ともなれば、女の子と手を繋いだりする事を恥ずかしいとか言い出す頃で、それをネタにからかったりする事もある頃だろう。
 その辺は、落ち着いてみれば、サンジにだって軽く理解の及ぶところだったのだが、その時は、結構、頭にきたのだ。
 ゾロは、方向音痴だ。しかも、自覚がない。学校から家に帰るのに、真直ぐ帰れば10分で済むところを、1時間歩いていたって、少しも気にしないくらいの大雑把さも持ち合わせている。前の小学校ではそんな事はなかったと聞いてから、サンジは小学校の下校時間に、ゾロを迎えにいくようにしていたのだ。もちろん、ゾロが友達と一緒にいれば、声を掛けて邪魔をするなんて事はせずに、少し離れて後を歩くようにはしている。
 それで、今日のゾロは、最近仲良くなった友達数人と一緒に下校となったわけだ。サンジは、それを確認して、その一行から少し離れて後をついて歩いていた。ゾロは楽しそうに友達と話をしていたし、一緒になっていた女の子達とも、仲良くできている様子で、サンジは親のような気持ちでそれを眺めていたわけだ。
 断じて、ストーカーとか幼児趣味のある変質者とか言われるような事ではない。
 そこへ、苛めっ子の登場だ。ゾロは、からかいの言葉に怒って殴り掛かるような事もせず、まずはちゃんと言葉の応酬となった。
 やっているのは小学生だ。内容は微笑ましく、女と一緒に帰るなんて〜、とかいう言葉に、ホントは自分が一緒に帰りたいんだろう、なんて核心を突いた返答を返す程度のものだったが、核心を突いてしまえば後は実力行使しかないと相場は決まっている。ゾロは、かなりやる気だった。相手も勿論、自分より小さなゾロならば、一撃だと思っていたのだと思う。思ったので、サンジは慌てて、声を掛けてしまったのだ。
 『ゾロ、新しいお友達ができたのか?』と。
 小学生の喧嘩の中に、大学生が割り込んだら、普通に考えて、小学生は退く。ましてや、サンジは金髪でここいらの住人から少々浮いている。やる気満々だった空気は一瞬で霧散した。
 霧散したやる気に、いらぬ手出しをしたと、ゾロは怒ったのだろう。驚いた顔で見上げる小学生達に、小さくサンジを兄であると説明し、それっきり黙ってしまった。ゾロの新しい友達たちは、何やら楽し気に話しかけてくれたが、そのゾロの沈黙に、サンジは気が気ではなかった。
 その友達と別れてからも、ゾロは一言も口をきかなかった。仕方なく、サンジは色々考えて、自分のした事のまずさに気付いた。
 ゾロは、父親は死んだものと思っている。母親は、ゾロに殆ど構わなかった。だから、ゾロはこれまでずっと、自分の後ろ楯がなかったのだ。喧嘩をしても庇ってくれる大人はいないから、ゾロは喧嘩に負けないようになったものと思われる。1年前には、自分よりも大きな友達を、背中に庇っていた姿も見た事がある。それくらい、ゾロには喧嘩をし掛けるものじゃないと思われていたわけだ。
 それが、今回、サンジが現れてしまった事で、ゾロは自分が庇われる人間になってしまった事に気付いたわけだ。それは、悪い事ではないのだが、ゾロにとっては、考えた事もない事態だったのだろう。怒っているような、戸惑っているような、不思議な表情を浮かべていた。
 あの場で、サンジが出ていかなくても、ゾロはちゃんと相手を打ちのめしてみせただろうし、それを怒った親が押し掛けてきたって、ゾロに非がないのは明らかなのだ。大きな問題にはならなかったと思う。
 それでも、ゾロが誰かに暴力を受けるなんて事は、サンジにはとても我慢できる事ではなかったのだ。
 あんなに可愛らしい顔に、傷でも付けたらどうするつもりかと思う。多分、他の誰も、サンジの意見に賛同はしてくれないだろうけれど。
「ゾロ、もうしないから。約束するから、出ておいで。」
 再度呼び掛けて、サンジはため息をついた。
 
 
 
 部屋の外から聞こえてくる声に、ゾロは小さくため息をついた。
 サンジは、少し前から家族になった大人の一人だ。
 一応、兄だという事になっているけれど、ゾロと血のつながりはないはずで、ゾロをこの家に引き取ってくれた叔父さんの子供だ。叔父さんは、ずっと前に死んだゾロの父親の弟で、以前も月に1、2回は家に来てくれていた人だ。お母さんが事故で死んでしまって、これからどうしたらいいのかもわからないゾロのところへ叔父さんはやってきて、今日から家族になるのだと言って、この家に連れてきてくれた。
 サンジは、ゾロより10歳年上で、高校を卒業してから、調理師学校と言う所に通いながら、家のすぐ近くのおじいさんの店で働いているという話だった。
 ゾロが学校から一人で帰る時は、サンジと道の途中で会って、一緒に帰ってくる。友達と一緒の時は、サンジは家にいて、ゾロに「おかえり」を言ってくれる。
 サンジはおじいさんとはよく喧嘩をして怒っているけれど、ゾロには一度も怒った事がない。とても優しくて、おやつもごはんも用意してくれるし、宿題も見てくれる。
 ゾロは、これまで家に自分以外がいる事なんて殆どなくて、ごはんも誰かに用意してもらう事も殆どなかったし、おやつがある事も珍しかったから、まだ、ちょっと慣れないけれど、でも、「おかえり」は嬉しい。
 サンジは好き。
 でも、今日は、ちょっと、嫌い。せっかく、喧嘩が強いんだってみせてやれるところだったのに、サンジが来て、できなくなってしまった。喧嘩はよくない事だけど、でも、あんな馬鹿にした事言われなくて済むようになるところだったのに、もうちょっと後だったらよかったのに、とぐるぐる考えて、サンジが何か言いたそうにしていたのも、無視してしまった。
 だから、家に帰ってきても、サンジはゾロに「おかえり」を言ってくれなかった。そうしたら、なんだか、どんどん怖くなってきてしまったのだ。
 ゾロは、この家の子供じゃなくて、あんまり悪い事をしたら、出ていかなくちゃいけないかもしれない。この間見た、段ボールに入ってた猫みたいに、捨てられてしまうかもしれない。そうしたら、保健所に連れていかれて、殺されちゃうんだって、前に誰かが言ってた。
 サンジが「おかえり」って言ってくれなくって、玄関を開けてくれなかったら、ゾロはここに帰ってこられなくて、そうしたら、もう、ゾロには帰る家がないのだ。お母さんには兄弟がなくて、ここしかゾロが行く家はないんだって、叔父さんは言ったから、そうしたら、ゾロは保健所に連れていかれてしまうかもしれない。
 そうしたらもう、サンジが作ってくれるご飯も食べられないし、お休みの日に一緒に遊ぶ事もできなくなってしまうのだ。
 そうしたら、サンジはきっとゾロの事なんか忘れて、もしかしたら、新しい子を貰ってきて、その子に「おかえり」を言うのかもしれない。
「ゾロ?」
 ドアの向こうで、サンジが名前を呼んでいる。なんだか、ため息をついてるみたいな音が聞こえる。
 お母さんは、怒ると、ため息をついて、ゾロの手の甲を叩いた。サンジも、怒っているかもしれない。もう、ゾロなんていらないって、叔父さんに言うかもしれない。
 それは、とても怖い事のような気がした。
 
 
 
 キィ、とドアの開く音がして、背中を向けていたそちらを慌てて振り返ると、今にも泣き出しそうな顔をしたゾロが立っていた。
『凄く、可愛いんですけど!』
 思わず、多分他の誰も賛同してくれないであろう、歓喜の言葉を声に出さずに叫んでから、それどころではないと、サンジはゾロに向き直る。
「どうしたの!? どこか痛いの?」
 瞬きしたらこぼれそうな涙を溜めて、それでもゾロは一言も口をきかずにサンジを見上げている。
 この、見上げる目線はなんていうか、かなりヤバいと思うんだけど。と人間性を疑われるような事を思いながら、サンジは慌ててゾロに手を伸ばして、どこにも怪我はないかと様子を確かめる。
「ゾロ? どうしたの?」
 問いかける目の前で、ゾロの大きな金色の目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。
 声も立てずに、ぼろぼろ涙だけこぼしているゾロの様子に、もしかしたら、ゾロは怯えているのではないかとふいに思った。
「………大丈夫。怒ってないよ。」
 ぎゅっと握った手が震えていて、それがとても痛ましくて、抱き寄せて、ぽんぽん、と背中を宥めるように叩いてやると、ゾロはぎゅっと握った手をそろそろと動かして、服の端を握ってくれた。
 やっぱり、不安になってしまっていたのだと、その小さな動きで理解して、子供の思考回路はどう繋がるかよくわからないな、とサンジは苦笑を浮かべた。
「ゾロは、もう、怒ってない?」
 問いかけると、ゾロは小さく頷いた。
 声も出さずに泣くのは、自分が泣く事で相手に何かを主張しようとする事じゃない。子供が大声で泣いて自分の我を通そうとするのとは違う。ただどうしようもなくて泣いているだけだ。しかも、それを知らせようという気もない。怖くて不安なのに、ゾロはそれをどう訴えていいのかわかっていないのだ。
「じゃ、おやつ食べようね。」
 黙って頷くゾロをそのまま抱き上げると、ゾロは驚いたようにサンジを見返し、ぎゅっとしがみついてきた。
「今日は、道場へ行く?」
「行く。」
 おやつを食べたら、ゾロは剣道の道場へ通う。終わる頃にサンジはゾロを迎えに行き、帰って祖父と揃って夕食を食べるのだ。
「送っていこうか?」
「………うん。」
 初めての返答に、サンジは笑みを浮かべた。

 
 

キワ設定のキワもキワ。だと思っている兄弟もの。
このサンジは多分、先行きが暗い。
18歳と28歳の10歳違いと、8歳と18歳の10歳違いは、格段に後者の方がヤバいはずだ。ゾロが大きくなる迄は、サンジは変態の誹りを免れない…ハズ。

(2004.1.25)



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