君の隣で



 一月ほど前から、俺にはとても可愛い家族が一人増えた。俺より十歳年下の小学生のその子供は、歳の割には小さくて、それがまた庇護欲をそそると言うのか、なんと表現するのが正しいのかはわからないが、とにかく、とても可愛い少年だ。
 柔らかい緑色の髪と、金色の大きい目。細い手足は意外に力強い動きを見せるけれど、それでもやはり、押せば飛びそうな不安も感じる。どこをとっても、愛しくて仕方がない存在だ。
 突然、小学生が生まれるわけもなく、その新しい弟は、父が外で作った子供という事になるのだが、その育ち方に自分と重なる部分を見つけてしまった俺は、それを理由に無碍に扱うことなどできなくなった。
 もしかしたらそれは、その子供に構う事で、自分を慰めているという事なのかもしれないが、例えばそうであったとして、俺がそれで満たされて、弟もそれで満たされるのならば、それを否定することなんて必要ないと思う。俺達は上手くやっていけているし、この先も、上手くやっていきたいと思う。
 
 
 新しい家族である弟は、とてもとても愛しい子供なのだ。
 
 
 
 前を歩くランドセルを背負った姿の群れの中に、大事な緑色を探すのは、サンジにはとても簡単なことだった。
 他の子供と色合いがまるで違うから、などという理由ではなく、例えば同じ色の子供がいたとしたって、サンジは弟を直ぐに見つけ出す自信がある。何故なら、それ程に、弟であるゾロの存在感はサンジにとって特別だからだ。両親や祖父よりも、恋人達よりもずっとずっと特別な存在だ。
 正直に言えば、現在の自分の中で、一番大切な存在だとサンジは思っている。そんな事を口に出すことはないし、通常そんな言葉を伝える相手は弟ではないだろうけど、そんな世間の常識はどうだっていい事だとサンジは思っている。
「ゾロ。」
「サンジ!」
 後ろから名前を呼べば、一人で歩いていた背中が振り返って、そこに立つサンジを確認し、満面に笑みを浮かべて名前を呼んだ。
「一緒に帰ろうか。」
「うん!」
 こくこくと何度も大きく頷くゾロの首は細くて、そんなに勢いよく振ったら折れてしまうんじゃないかと、サンジは思わず不安になるのだが、それ程自分の存在を喜んでくれると、恐ろしい程に大きな喜びが沸き起こってくる。
 今迄同じ時を過ごした誰にも、こんなに大きな喜びなんて感じなかったと思う。感動の方向性が違うからだと言われればその通りだが、今は、この感情の振れ方が何より嬉しいことのように感じる。それが家族に向ける愛情なのか、異性に向ける欲を伴う愛情なのか、ただ人が人に向ける穏やかな愛情なのか、どれがこの喜びの基にあるのかは、現状でサンジには掴みがたいことではあるけれど、ただ自分がそこにいるだけで、笑ってくれる存在は、これまでになかったような気がするから、これ程嬉しいのだという事だけわかっていればいいとサンジは思う。ゾロが隣にいれば、それだけで嬉しい気持ちになるように、ゾロも嬉しいと思っていてくれればいいと思うのだ。
 ゾロはサンジの差し出した手をきちんと握り、必死にサンジを見上げてくる。どうやらゾロは、人と話をする時には、相手の目を見て話をしなさい、という教育を受けているらしい。いつでも、サンジを真っ直ぐに見て話をする。それが、嬉しそうな笑顔であれば、サンジが不快になるわけもなく、こうして歩きながら話す時ですら自分を見てくれるゾロが可愛いと思う。足元に気を払っていないから、転びやしないかと言う不安は絶えず付きまとうけれど、その為にも手を握っているのだと理由もつけられて嬉しい。転びそうになるゾロを抱き上げてあげるのも、そうされて恥ずかしがって暴れるのも、何もかもが喜びの素だ。
「サンジ、今日は何か作った?」
 ゾロは、自分の事を話すよりも、サンジの話を聞きたがる子供だった。そして、それをとても嬉しそうに聞くのだ。この年頃の子供ならば、自分の話を聞いてもらいたがるのではないかと思っていたサンジには、それも不思議な事だったが、ゾロの喜ぶ顔が嬉しくて、聞かれるままに話を聞かせるようになった。学校のことだとか、店のことだとか、サンジが聞かせれば、ゾロも少し自分の事を話してくれる。それを聞く事も、サンジには嬉しいことだった。
「作ったけど、今日は持って来れなかったんだ。」
 サンジは、現在調理師学校に通っているのだが、ゾロはそれをちゃんと知っていて、どんな勉強をしているのかと、興味津々なのだ。製菓の授業で作ったケーキを持って帰ってきてからは、ゾロにはそれも楽しみの一つのようだ。
「なんで? 俺には食べさせたくないの?」
 悲しそうに問いかけられて、罪悪感に駆られてしまうと共に、そんな顔も可愛いなんて思ってしまう自分に呆れつつ、サンジは苦笑を浮かべた。
「今日のは、お酒が入ってるから、ゾロは食べられないからだよ。」
 ケーキに使うブランデーなんてたかが知れているのだが、それがメインになるケーキとなれば、子供に食べさせるのは躊躇うところだ。それに、食べさせるからには美味しいと言わせたい。ゾロはまだ子供で、酒の味を美味しいと言う嗜好は持ち合わせていない。だから、今日は持ち帰りはせずに帰ってきたのだ。
「帰ったら、ホットケーキ焼いてあげるよ。生クリーム載せてね。」
「バナナも。キャラメルの味の。」
 ゾロは、小さな子供だからか、そういう嗜好だからなのか、甘いものが大好きだ。初めてサンジがおやつにケーキを出してあげたときは、声も出さずに驚いた顔でじっとそれを見つめていた。そして、暫くしてからやっと、食べてもいいのかと聞いてきた。サンジが頷いた時のゾロの笑顔はそれはそれは可愛らしくて、思わず力を込めて抱き締めてしまった程だ。以来、サンジはゾロのおやつに甘いものを欠かしたことがない。
「林檎もあるよ?」
「じゃぁ、林檎がいい。」
 ゾロの好きなケーキはチョコレートケーキとアップルパイだ。キャラメルコーティングのバナナもお気に入りだが、甘く煮た林檎に敵うものではない。今も、そう聞いただけで目がキラキラと輝いている。
 きっと、これが見たくて、色々準備をしてしまうのだと、サンジは思う。美味しいものを食べて、嬉しそうに笑って、それから、それを作るサンジを尊敬の眼差しで見上げるゾロは、誰よりも可愛いと思う。もっと喜ばせたいと思うのだ。
「サンジ、早く、早く。」
 示された物が待ちきれないのだろう、ゆっくり歩くサンジに焦れて、ゾロはその手を引っ張るように急ぎ足で歩き始める。わざと、それに足を遅くすれば、ゾロは怒ったようにぷくりと膨れて、振り返ってサンジの腕を叩き、サンジは笑って謝って、ゾロの先に立って歩き始めた。
 ゾロが引き取られてきてすぐの頃、サンジはゾロがこんなに懐いてくれるとは、正直思っていなかった。突然知らない人間と暮らさなくてはいけなくなって、もっと警戒したり、家に帰りたがったりするのではないかと思っていた。けれども、ゾロは全くそういう様子を見せず、すぐにサンジに懐いてくれた。あまり家に帰らない父にはここまで懐いていないし、気安くは見えない祖父と手を繋ぐこともないから、ゾロがぴったり傍に張り付くのは、家族の中ではサンジにだけ許された特権だ。それが嬉しい自分は、ちょっとどうかしているのかもしれないと、サンジは時々思うのだが、ゾロは本当に可愛らしい子供だから、仕方ないと思うことにしている。
 この意見には、賛同者がいないことが不思議なのだが。





 家に戻り、いつものように二人で「ただいま」と「お帰り」を言い合って、部屋へランドセルを置きに行くゾロと離れて、サンジはキッチンへ足を向ける。
 いつも、繋いでいた手を離す時が一番名残惜しい気持ちになると、サンジはさっきまでゾロとしっかりつないでいた手を眺める。
 小さなゾロの手は剣道を習っているからか、ちょっと表面が固い。けれど、子供らしく柔らかい感触もあって、それがゾロらしくてサンジはとても気に入っている。サンジ以外には可愛いとは思えないらしい、ちょっと愛想のない表情と、溶けそうに柔らかい笑顔と、ゾロの中にあるものは、あの手と同じだとサンジは思う。だから、自分の手で包み込みたくなるし、それが手の中にあると安心する。それは、ゾロを膝に乗せて抱き込んでいるのと同じ喜びのように思う。だから、腕の中から抜け出してしまう時が惜しいのと同じように、手を離す時も惜しいのだ。早く取り戻したくなるのを、抑えなくてはならないほどに。
「サンジ、どうしたの?」
 二階から急いで降りてきたゾロは、冷蔵庫を開けたままで固まっているサンジの後姿に声を掛けた。
 サンジは、家の中のことをゾロには何もさせない。ご飯の時間もおやつの時間も、ゾロは居間のソファかキッチンのテーブルでサンジが用意してくれるのを待っているだけだ。何もさせてもらえない事も、何も出来ないことも、少し悲しいと思うけれど、そうやってサンジが自分のために何かを用意していてくれるのを見るのも、ゾロは好きだった。
 サンジはゾロがそれを見ていれば、料理をしながら話もしてくれるし、美味しい匂いがしてくるのも好きだ。サンジがホットケーキを焼いてくれるのは、ご飯の用意をしている時よりもずっと好きだ。本当はもっと近くで見ていたいけれど、危ないからと言って、サンジは傍へは寄せてくれない。不満と言えば、それは不満だけれど、そんな事は言えなかった。そんな事で、サンジに嫌われたら嫌だと思うし、ゾロが少しでも怪我をすると、サンジはとても悲しそうな顔をするから、わがままを言って本当に怪我でもして、サンジに悲しい顔をさせるのは嫌だった。あんまりサンジを悲しませたりして、嫌われてしまったら嫌だと思う。サンジはとても優しいけれど、それが急に冷たくなることがあることを、ゾロはよく知っている。
「ゾロ、ケーキがあるけど、そっちにする?」
 サンジは冷蔵庫の中に入れられていた紙の箱を取り出して、ゾロの前で蓋を開ける。
「チョコムースだ。」
 ゾロの大好きなチョコレートだ。キラキラする目を見て、サンジは苦笑を浮かべた。
 ゾロのお菓子好きを知って、サンジには殆ど物を与えたことのない祖父は、店の昼休みに家に戻る際に、時折こうして店で残ったランチ用のデザートを持ち帰ってくる時がある。店のパティシエが作ったデザートは、現在勉強中のサンジが作るよりも出来がいいと、サンジも認めざるを得ない。ゾロも当然それを気に入っているのを、サンジは知っている。せっかくゾロのためにと思っていたホットケーキと林檎の出番は、明日以降になってしまうだろうと考えるのは、悔しいことだった。
「こっちにする?」
「…う…」
 ゾロは箱の中のチョコレートムースと、サンジの顔を見比べて、必死に考えた。
 お店のチョコレートムースはチョコレートクリームのケーキと固いチョコレートケーキの次に好きなお菓子だ。だけれど、サンジのホットケーキも大好きなおやつだ。それに林檎と生クリームを乗せてくれると言ってくれたし、それを楽しみに帰ってきたのだから、そちらの方が食べたい気もする。でも、ケーキは一日に一つの約束なのだ。どちらも食べたいと言うことは出来ないから、ホットケーキを選んだら、チョコレートムースは暫くお預けになってしまう。
「ホットケーキは明日にしような。」
 本当に真剣に悩んでいる様子を見て、サンジはなんだか申し訳なくなってきてしまう。ゾロはあまりわがままを言う子供ではなくて、その上、サンジや周りの人間の機嫌を損ねることを怖がっているところがある。今だって、それで好きなケーキを諦めようとしているのだったら、そんな事はさせたくない。
「ホットケーキがいい。」
 ゾロはサンジの言葉に首を振って、そう主張した。
「でも、これは明日には取っておけないよ?」
 すぐに食べてしまうために作っているから、明日まで取っておくわけにいかないのが、店の品だ。一晩で腐るわけもないが、やはり味も食感も落ちる。作った人間にとって、それが不本意だとは、サンジにだってよくわかる。
「いい。」
 ゾロはじっとサンジを見て、深く頷いてみせる。
「でも、ゾロはこれ大好きでしょ?」
「サンジのホットケーキの方が好き。」
 なんて可愛い事を言ってくれるのだろう。サンジは一瞬にして天国の気分を味わい、ふにゃりと笑みを浮かべた。
「そっか。」
「早く、サンジ。遅くなっちゃうよ。」
 ゾロは、おやつを食べてから剣道の道場へ通うのが日課だ。毎日毎日、きちんと鍛錬をしている。
「ああ、本当だ。」
 大好きなケーキより、自分の作ったものがいいと言ってもらえて、サンジは空でも飛べそうな気分で、冷蔵庫の中から牛乳と卵を取り出し、ケーキの箱をしまいこみながら、ゾロがちょっとだけ名残惜しそうにその箱を見たのに気付いた。
 ゾロは、嘘は言っていないだろう。今日はホットケーキが食べたい気持ちの方が勝ったのだろうし、サンジの焼くホットケーキが好きなのも本当だろう。だけれどやはり、大好きなケーキも捨てがたいのだって、正直な気持ちなのだろう。そう思えば、ゾロがホットケーキを食べたいと言ってくれただけで、充分嬉しくて、ゾロにもこの嬉しさを何とかして分けてあげたいと思う。
「う〜ん」
 ケーキは一日一つ。それはゾロとサンジの約束事だ。甘いお菓子ばかり食べていては、ご飯がきちんと食べられなくなって、成長期のゾロには良くない。サンジか祖父の用意したおやつ以外のお菓子は、ゾロは食べないことを約束している。だから、ここで甘い物を食べさせては、夕食の後にケーキというわけにはいかない。
 テーブルの椅子に腰掛けて、サンジの姿を見ているゾロは嬉しそうに見える。それを、もっと喜ばせてあげたいと、サンジは真剣に考えた。
「ああ。」
 ふいに思いついた手段に、サンジは満足して手を打つ。甘い物と一緒に食べるだけがホットケーキではない。おやつは子供に栄養を補充するために大切なもので、これから道場で運動をするゾロにとって必要な事だけれど、甘い物を食べなくてはいけないということではない。
「サンジ、どうかしたの?」
「何でもないよ。すぐ出来るからね。」
 待ちきれない様子のゾロに笑みを浮かべて、サンジは手際よくホットケーキを焼き上げていく。
 可愛い可愛いゾロのための大事なホットケーキだ。こんがり狐色に、見るからに美味しそうに焼けなくては失敗作と同じ事。ふんわり美味しく焼き上げて、ゾロを喜ばせてあげなくては意味がない。
「お待たせしました。」
「…サンジ、林檎は?」
 目の前に置かれたホットケーキの上に、大好きな林檎が載っていない事に、ゾロは首を傾げて、サンジに問いかけた。
 今日のホットケーキは、生クリームと林檎が載っている約束だったはずなのに、美味しそうなホットケーキの上にはバターが一欠片と蜂蜜が載っているだけだ。
「林檎は、明日、アップルパイにしてあげる。アイスクリーム載せて、温かいのね。」
「今日は?」
 大きな目が少し悲しそうに見上げてくるのに、頭を撫でてあげてから、目線を合わせてゾロの前に屈みこんで、サンジはにこりと笑う。
「今日のおやつは、甘いのは無し。」
「なんで?」
 約束したのに。とゾロはちょっと拗ねたような怒ったような目をしてサンジを見つめ、サンジはそのくるくる変わる表情に、ちょっと舞い上がりかけて、慌てて気持ちを振り切る。
「夕ご飯の後に、ケーキ食べなくちゃいけないからね。」
 首を傾げて、サンジの言葉を噛み砕いていたゾロは、その意味するところに気付いて、ぱぁっと笑みを浮かべる。
「うん!」
 大好きなケーキもホットケーキも食べられるなんて嬉しくて、ゾロはサンジに抱きついて喜びを表す。
「サンジ、大好き。」
 ゾロがこんな風に喜びを表すことなんて初めてこのことで、サンジはその言葉と行動に、まさに天国にいる心地とはこんなものだろうかと、抱きついてきたゾロを抱き返しながら考えた。




 一月前にやってきた弟は、本当に愛しい愛しい子供なのだ。
 出来るだけ長く、こうして二人でいたいと思う。

 
 

オフライン発行「ずっと隣で」のサンジ編
発行から2年経つのと、再録もしてないので、オンライン再録です。

(2004.5.2作)
(2007.2.24up)



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