ゾロの存在を知ったのは、自分の進路をどうするべきか、考え始めた頃だった。
父は、ちょっと名の知れた会社を経営している。
祖父は、結構名の知れたレストランを経営している。
俺は、ガキの頃から、ジジイのレストランの厨房に居着いていた。父親はあまり早く家に帰る人間ではなかったし、母は俺が8歳の頃には、入退院を繰り返すようになったから。
俺から見ると、母はそれ程体調が思わしくないようには見えないが、家で血の気の失せた顔で倒れる母を見るのは、ガキの俺には結構堪えた。そんな俺を気遣ってくれていたのかも知れないと、今は思うが、あの頃は、誰もいない家にいるのが寂しくて、人が忙しく働いている厨房に毎日出掛けていた。
レストランの厨房で時間を過ごしている内に、自分も同じように、コックになりたいと思ったのは、ごく自然な流れだったと思う。周りの誰も反対しなかった。賛成もしなかったけれど。
初めて包丁を持った時や、まともに料理を作り上げた時の感動は、今でもはっきりと思い出せる。
だからこそ、俺は、大学に進学するよりも、調理師の資格を取り、きちんとした基礎を身につけるためにもと、調理師学校への進学を考えていた。
高校受験の時も、さして親に相談する事はなかったが、これは一応、自分の人生に関わる事だから、両親に告げた方がいいのではないかと思って、父の予定を知る為に入った父の部屋で、俺はゾロの写真を見つけた。
父と見知らぬ女性と少年の写真は、机の中の封筒に入れられていて、短い手紙が一緒にあった。
父が、外に女を作っているのではないかというのは、考えた事がなかったわけじゃなかった。でもまさか、子供までいるとは、と愕然とした。しかも、その少年は、俺が一人きりになった頃と同じ年頃に見えた。
その子供が、親に挟まれるようにして楽しそうに笑っているその姿は、自分が得るはずだったものだと思った。
勿論俺だって、両親と出掛けた思い出はあるし、それを見つけた頃だって、年に一度は家族3人で旅行に出かける事もあったのだ。何がそんなに気に入らなかったものか、思い出そうとしても、思い出せない。
とにかく、苛立った気持ちのまま、その手紙を持って、俺は差出人の住所を訪ねた。
写真に映る子供が、どんな生活をしているのか、確かめたかったのだ。
そして辿り着いたアパートは、小さくてあまり新しいものではなかった。薄汚れているとは言い過ぎかもしれないが、なんとなく、寂れていると思わせる建物だった。
部屋の前まで行ったものの、流石に、チャイムを押す気は起きず、写真片手に近くの公園に子供の姿を探しに出掛けたのは、丁度、小学生の下校時間で、俺はあっさりと、目当ての子供を見つけた。
友達数人と、楽しそうに笑いながら歩く姿は、ごくごく普通の少年で、あれが俺の弟かと、ぼんやりと思った。そして、その子供の後を間を開けて追い、ゾロが先程サンジが訪れたアパートの一室に、自分で鍵を開けて入っていくのを確認した。
母親が働いていれば、それは当然だと思ったが、それでも何か、違和感を感じた。手紙の内容からして、母親が、働きに出ている様子は感じられなかったから。
アパートを伺っていると、ゾロは暫くして服を着替えて出てきた。道場の印の入った黒い上下で、ゾロは走ってアパートを出て、その途中で、先程一緒に帰ってきた友達に手を振っていた。
その表情が、どこか寂しそうなのに気付いた。必死に走っていく後ろ姿を眺めて、あれは、その寂しい気持ちから逃げているのではないかと思った。
何の確証もなかったけれど、あの子は、多分、毎日寂しい思いを抱えて生きているんじゃないかと思った。
その日は、アパートの見える公園のベンチで、ゾロの帰りを待った。その間に、母親が帰ってくるんじゃないかという気もしたからだ。
働きに出ているのならば、子供の夕食には間に合うように帰ってくるものだろうとなんとなく思っていたから、ゾロが暗くなってから帰ってくるまでの間に、写真の中の女性が姿を見せなかった事に驚いた。
小さなゾロが家に帰りついたのを示すように、部屋に明かりが点って、俺はそこを離れた。
次の日も、同じ時間にその公園へ出掛け、今度は友達と連れ立って同じ服装で出掛けていくのを見て、昨日感じた事は間違いじゃないと確信した。その日のゾロは、本当に楽しそうに笑っていたから。
だから、何となくその後をつけて、どこへ行くか確かめようという気になって、彼等の通う道場へ辿り着いた。辺りではちょっと立派な建物で、門から中を伺う事はできなかったけれど、その家をぐるりと回ってみると、少年達の声と竹刀の合わさる音が聞こえて、彼等が習いに来ているのが剣道だと理解した。
その日はそこで家へ帰った。どんな生活をしているのかはそれでわかったし、正直に言えば、その時点で、ゾロの母親の事なんかは、俺の頭の中から消え去っていたのだ。と言うより、最初から、なかったというのが正しいのだが。
そして次の日は、道場へ足を向けた。多分、今日も来るのだろうと思ったからだったが、想像通り、ゾロはその日も一人でやってきた。道場へ入っていくのを確認して、一日目のゾロの帰りの時間を考えて、どこかで時間を潰して、帰りの時間にまた様子を見に来ようと思った。あんな遅い時間に、小さな子供が一人で歩くなんて、危険な事だと思ったから。
その時、俺はもう、あの小さな子供に、どうしようもなく、惹かれていたのだと思う。
誰かといる時は、物凄く楽しそうな顔をして笑うくせに、一人でいる時はまるで泣きそうな目をしている。それなのに、それを誰にも知らせようとしないし、知らせる相手が多分いないのだ。
俺の家族を壊したのだと思って確かめに来た子供は、俺よりずっと、寂しい時間を過ごしていた。
あの道場が、俺が入り浸っていた厨房のようなものだとしたら、ゾロが頼れるのは家族でもない他人だけだと言う事で、それは、とても悲しい事ではないかと思った。
考えてみれば、父が女に走ったのはゾロのせいではないし、母が倒れたのもゾロのせいではない。俺がジジイの厨房に入り浸っていたのだって、俺が寂しいからと逃げ込んだだけの事で、ゾロのせいではない。
俺の家族が壊れていたと言うのなら、それは俺達の事情であって、外の女とか、外の子供とかは、理由付けにするに簡単な素材だったと言うだけの事じゃないだろうか。
父が外に女を作った事が気に入らないのならば、俺はそれを父にぶつければ良かったのであって、こうしてそんな事情等知っていそうにない子供を探している場合ではなかったのだと思った。
あれは、俺と同じ生き物だと思ったから、俺の事を知らないあの小さな弟を、家族として大事にしてやりたいと思った。顔を見せて、兄だと名乗る事は、ゾロを傷つける事だろうから、夜に一人で歩くのを守ってやるくらいの事をしようと思った。
そんな風に、暇な夜にはゾロの様子を見に行く日が半年程続いたある日、俺は、道場主に声を掛けられた。
「ここ半年程、よくお見かけしますが、あの子に何か?」
多分、ゾロの事情を知っているのであろうと思う問い掛け方だったが、警戒心は見えなかった。そりゃまぁ、半年も夜の間、ゾロを待っていて、少し離れて歩いている様子を見続けていれば、俺が危害を加えようとしているんじゃないって事はわかっただろうとは思うけれど。
でも、その時は、物凄く驚いて、俺は何も言い返せずにその場を逃げた。逃げてしまったが故にその道場へは行けなくなり、レストランでのアルバイトも忙しくなって、俺はゾロの事を心配しつつも、離ればなれの生活を送っていた。
そしてその半年後、ゾロの母親が死んだ事と、ゾロの存在を、父は俺とジジイに告げた。どっちも、実はもう既にそれを知っていたのだが、父はそれを知らなかったらしい。引き取ってやりたいのだと言い、俺とジジイは何の反論もなく、全面的に賛成した。ジジイが何を思ってそれを認めたのかは未だにわからないが、俺より先にあの小さな子供を見て、俺と同じものだと思ったのかもしれない。
父とジジイと連れ立って、ゾロの元を訪れ、そこで俺はあの道場主と顔を合わせ、少々バツの悪い気分にはなったが、彼は納得したように笑って、ゾロを引き取ると言った父に頭を下げ、ゾロに穏やかな声で事情を説明していた。
半年ぶりに見たゾロは、相変わらず小さくて、母親の死に直面して、少しぎこちない様子でいたけれど、その説明を聞いて、俺達を見て、大人しく頷いた。
それを見て俺は、これからは、誰にも憚らずに、この子を大事にしてやれるのだと、とても嬉しく思った。
声を掛けられて逃げなくちゃいけない理由もなく、どんなに可愛がってやったって、怒られるような事もないのだ。俺は親ではなくて兄だから、際限なく可愛がってやろうと、俺に向かって笑うゾロを見て、決意したのだ。
俺の名誉の為に言うが、あの時から、ゾロにそれ以上の好意を抱いていたわけではない。
あの時は本当に、家族として、ゾロが愛しくて仕方がなかっただけなのだ。
多分。
初めてゾロを知った頃のサンジ。
見る人に依れば、ストーカーと言われておかしくありません。
兄は、弟を甘やかしたくて仕方がないのだ。自分が、甘やかされたかったからであろうと思われる。だから弟が、兄を甘やかしてくれる日が来るだろう。
いくら何でも、高校生が小学生にムラムラしてたら不味いでしょう。これはサンゾロだから平気だけど、近所の少年達を考えたら、とてもいいとは言えませんぜ。(2004.2.23)