「おはよう。」
キッチンの扉が開く音がして、背後を振り向かずにそう声をかけると、小さな足音が傍へ寄ってきて、背中にどかんと衝撃がやってきた。
「ゾロ、頭突きじゃなくてさ…」
おはようの挨拶代わりの頭突きをくれた恋人は、何やらうなり声を発してそのまま冷蔵庫の前へ移動して行く。
弟であり恋人であるゾロは、朝が強くない。なんとか自力で起きてくるものの、暫くはぼんやりしているのが常だ。
それでも、一応、お互いにこの先を心に決めたわけでもあるし、もうちょっとこう、新婚さん気分の甘い朝の挨拶なんかあったりしてもいいんじゃないの? と、サンジは思う。
せめて、せめて、『おはよう、サンジ』くらいの事を言ってくれてもいいはずだ。できる事なら、その後にちょっと恥ずかしそうにキスの一つもしてくれたらもう、言う事はない。
「サンジ、何か焦げてない?」
「へ!?」
声に慌てて手元に目を落とせば、卵焼きが少々こんがり色付いていて、慌てて火を止めて皿に移しかえる。
「珍しいわね。」
にこりと笑うのは、先日入院生活をやめて帰宅した母親だ。
症状も暫く前から良くなっていた事と、万一の時もサンジやゾロがすぐに帰宅できる状況である事も、それを決めた理由の一つだ。どちらかと言えば、子供達に心配を掛けないように、というのが入院生活の理由の殆どであったから、家族の勧めに母も同意し、退院の運びとなったわけだ。
「何か、おかしな事でも考えてたんだろう。」
少々見てくれの悪くなった卵焼きを食卓に運ぶと、そこに陣取っていた祖父がそう言い放ち、さっきまでぼんやりした顔をしていたゾロが、不思議そうな顔でサンジを見返してくる。
「料理中に、他事考えるのは感心しねぇな。」
相変わらず、サンジには冷たいと言っていい程の祖父の言葉に、サンジはぐっと言葉を飲み込む。
サンジの気分がいくら新婚さんだと言っても、この状況はサンジの望みを適えてくれるような朝の状況ではない。ゾロだって、本当はそうしたいけれど、恥ずかしがっているのかもしれないじゃないかと思う。
だから、家を出て生活しようか、と考えなかったわけではない。けれど、結局は家の近くにある店に勤めているわけだし、何れ店を持つという最終的な目標に向かう為には、家賃のいらないこの家での生活は貯蓄を増やす為にも有効だ。
それに、母の事を考えれば、未だに家を空けている事が度々の父に期待をかけるというのも無理な話であり、サンジは勿論ゾロも、母を一人でこの家に住まわせるなんて心配でならないというのが一番の理由だ。
せめて、祖父のように離れに暮らしていれば、と思わなくもないが、それでも食事も一緒だと思えば、大した変化ではない。
結局、他の家族に気兼ねしている限り、何の進展も見えないと言う事なのだ。
「きっと、何か楽しい事を考えていたのね。」
にこりと笑う母は何の含みもなくそう言っているのはわかるのだが、楽しい事の種類が少々違った身としては、なんとも言えない笑いを返す事しかできなかった。
「今日は、店には来るのか?」
「打ち合わせがあるから行く。」
祖父の質問はゾロに向けられたもので、サンジは自分の席について食事を始める。
ゾロは、経済大学に無事入学し、その勉強の一環として、店の経営状況にチェックを入れ始めた。
もちろん、店の経営者は祖父だから、帳簿を見たりして実際の経営とはどんな状況かを知る為にしている事なのだが、勉強をし始めてすぐの人間の疑問というのは、実際を知らないが為にやたらにカチカチの論理でできていて、祖父が戸惑いつつ答を返すのをサンジは何度も見てきた。
ゾロも最近では市場の動向などを理解して、無茶な事は言わなくなったが、時折店にやってきては、帳簿を見たり、ついでに店を手伝ったりしている。
そんな中で、オーナーである祖父は、店の貸切りパーティーの受付けと取り仕切りを、サンジとゾロに任せる事を決めた。それには二人は勿論、店の従業員達も、遂にオーナーが店を譲ると考え始めたのかと驚いたものだったが、祖父にはそんな様子はさっぱり見えず、『俺は、料理以外の注文に頭を使いたくねぇ』と言い放ったという経緯がある。
それというのも、最近はレストランウェディングなんてものが一般化し、バラティエにもそれを希望する者も増えた。世に溢れる本などで仕入れてきた情報を元にした、テーブルクロスの色は何で、飾る花はどうで、流す曲はどれとどれ、などという注文は、料理の道を突き詰めてきた彼にとっては、はっきり言って別次元のものだったのだ。
かと言って、店で請け負う仕事に手抜きがあってはいけないし、そんな事で本業である料理を悪く言われても困る。ならば、経営に興味があるらしいゾロと、そういう細かい事にも気を回す事が面倒ではないサンジに任せてしまえ、という事になったわけである。
「今度は、どんなパーティーなの?」
時折、店に顔を出す事もある母は、その話を聞くのを楽しみにしていて、時折、二人にアイデアを出したりする事もあった。やはり、サンジが幾ら気が回ると言っても、結局は男の気の回し方で、結婚式に夢を見る女性の気持ちというものをリアルに想像する事は難しい。そんな時は、知り合いの女性に声を掛けてアイデアを貰ったりする事も度々だった。
「結婚式の二次会。でも結構、注文が多くてさ。」
今の女の子達は、色々知ってるから大変。と、ゾロは苦笑を浮かべ、サンジも頷いて同意する。
料理一つにしても、料理本を持ってきて、これがいいと指定する客もいる。今回の客は、料理にはあまりうるさくなかったが、店内の飾りにかなりのこだわりを持っていて、ゾロは花屋を回ったりその費用を調べるのに必死だ。
「どうしても、ひまわりの花がいいの! とか言われてもさ、今もう秋だし…」
できるだけ本物っぽい造花はどれか、なんて事まで調べに出掛けて、大変な騒ぎだ。
「あらあら…」
大変ね。と母は笑い、祖父が笑みを浮かべているのを見て、二人は少しだけ、祖父を恨めしく思った。
「結婚式かぁ…」
ぽつりと漏れた言葉に、ゾロは驚いて隣のサンジをちらりと見やった。
打ち合わせはなんとか無事に終わり、費用の調整にうるさくはない客にゾロがほっとしていた時だった。
サンジは何か夢見るようなぼんやりした表情で、そう呟いてから小さくため息を零した。
暫く前に、叔母がサンジに見合いの話を持ってきた時、一応はお互いにお互いが一番大切である事と、この先もずっと傍にいたいのだという意志は確認した。けれど、やはり自分達は兄弟で、法律上結婚する事は無理で、身内を集めて結婚式を挙げるなんてのも無理な話だ。
それでも、二人で写真を撮って、一応、気分的には新婚さんって事なんだと思っている。でも、実際のところ、生活は以前と何一つ変わっているわけではないのだ。
相変わらずゾロは自分の部屋で普通に生活しているし、サンジが部屋にやってくる事も多いわけでもない。二人でいる場所は家の居間で、そこには祖父と母も姿を見せるわけで、流石に子供の頃のように膝に乗せてもらってるなんてのは、見ていてちょっとキビシイものがあるだろうとゾロは思う。
だから、結局、何の進展もなく、あれから半年だ。
サンジが、何やら変化を期待している様子はゾロも気付いている。だけれど、一体どんな変化が欲しいと言うのか、さっぱりわからないのが現実だ。
「結婚式…」
初めてパーティーを担当した時、サンジが、俺達だったらどんなのがいいかな、なんて話をしたのを、ゾロは思い出した。
その時のサンジは、結構本気だったと思う。テーブルクロスの色から飾る花の種類まで、よくまぁそんな事まで知っているものだ、とゾロが思った程に事細かに並べられて、料理の話は流石に本職らしくこれまた細かかった。
久しぶりに見る、ちょっと飛んでしまったようなサンジの様子に、ゾロは何一つ言葉を挟めなかったものだ。けれど、そんな事を夢見るくらいは別に構わないよな、とも思った。
自分達にできる事と言ったら、ちょっと不思議そうな目で見られながら写真を撮る事と、誰もいない教会でこっそり誓いの言葉でも口にするくらいの事だ。夢くらい描いたってバチは当たるまい。
「やっぱり、一つの節目だよね。」
今度のお客は、随分長いおつき合いの後の結婚だという話だ。お互いにとてもよくわかりあっている様子も見えるし、押す場所と引く場所が絶妙だなと、ゾロは思ったものだ。
ここでやっぱり、けじめをつけないとね。なんて笑った顔が、なかなかに印象的だった。
サンジとの関係を考えれば、初めて会ってからもう10年以上が過ぎて、互いに知らない事は少ないんじゃないかと思うだけの時間があったわけで、これに劇的な変化を期待しようと思ったら、それはやっぱり結婚とか別れとかそういうはっきりした目に見える事がないと、無理なんじゃないかという気がする。
でも、やっぱり、ちょっとは、変化があった方がいいなぁ…と、ゾロも思ってはいるのだ。ただ、やはりサンジから某かの行動がないと、ゾロとしてもどうしていいやらわからない。
「……してぇの?」
問いかけると、サンジは吃驚したような顔をして、ゾロを見返す。
「え……そりゃ……まぁ…」
サンジは戸惑うように言葉を濁し、顔を赤くしながら笑ってみせる。
「できたらね。」
してみたい気持ちはあるよ。とサンジは苦笑し、手元の紙を纏めはじめる。
「でも、写真撮ったもんな。」
最近は、写真だけで結婚式を済ませる人もいるらしいよ。なんてサンジは言って、そそくさと厨房へ足を向ける。その後ろ姿を見送って、今のはどういう反応なのだろうと、ゾロは首を傾げた。
じっと目の前の扉を見つめながら、サンジは考える。
誰より早く起きている祖父に次いで、サンジはこの家で二番目に起き、一番早くキッチンへ下りる。だから、ゾロと二人きりになれなくて歯痒い思いをしているのならば、ゾロが母より先に起きて、二人でキッチンに立てばいいのだ。祖父は早く起きるが、朝食の支度が整う頃までキッチンへは来ない。朝、二人で時間を過ごそうとしたら、その時しかない。
だけれど、ゾロは朝の早起きが苦手だ。今でさえ、ゾロにとっては必死の早起きなのだ。それを、もう30分程早く起きて来いなどとは、言い出せずにいたのだが、今日の反応を見ていたら、ゾロだって、少しは自分と新婚気分を味わいたいと思っているっぽかったと、サンジは思った。
ならば、この提案だって、もしかしたら受け入れてもらえるかもしれない。
「ゾロ、入るよ。」
決意と共に声をかけると、中から入室を許可する声が返り、サンジはドアを開けた。
「どうしたんだ?」
既に寝に入る体勢だった様子で、ゾロはベッドの上から問い掛けてくる。
「ちょっと、提案があるんだけど。」
ベッドまで寄ってそう切り出せば、ゾロは不思議そうな顔をして、先を促すように言葉を待つ。
「明日から、一緒に朝ご飯の用意をしよう。」
「なんで。」
朝食の準備はずっと前からサンジの仕事で、今になってそう提案される意味がわからず、ゾロは即答で切り返した。せめて、料理を覚えた頃や、大学に入った頃のような、何かの変化がある時だったら、わかりやすかったと思う。
「……だって…」
困ったように視線をあちこちに飛ばしながら言い淀むサンジを見て、ゾロはなんだか変な事言い出しそうだな、と身構えながら続きを待つ。
「俺達、一応、新婚さんでしょ? やっぱりさ、一緒にご飯作ったりとかさ、お風呂入ったりとかさ、したいじゃない。」
「風呂!?」
ぎょっとしてゾロはサンジを見やり、パジャマ姿でいる事に心底安心する。いくら何でも、そんな事をしていたら母も祖父も反応に困るに違いない。何となく、気付いているようでも放っておいてくれているから、それは流石にどうかと思う。
「いや、風呂はいいんだけど…」
できれば一緒に入りたいけど、それはまぁ、追々、楽しみにしておく事にして…と、サンジはぶつぶつ言い訳をしながら、ゾロを見つめる。
「俺達、全然生活に変化がないからさ、なんかこう、もうちょっと、幸せ気分になりたいんだよね。」
本当は、色々もっとしたい事とかあるけれど、それはまぁ、やっぱり順序としてはもう少し先でもいいとして、せめて、朝のふれ合いくらいは、手に入れたいのだ。
「最近、母さんが夕食作ってくれるから、一緒に料理してないだろ?」
「…うん。」
「だからさ、朝、一緒に料理しよう。」
じっと見つめてそう言えば、ゾロは困ったような顔をして、時計に目をやる。ゾロがサンジにお願いごとをされるのに実は弱い事に、サンジは最近気付いた。じっと見つめて言えば、ゾロは大概の事に折れる。
「でも、俺、起きられないかもしれないし。」
できない事を約束するなんて、ゾロにはできる事ではなくて、頷いてしまいたい気持ちと現実の間で揺れ動いているのが、サンジには手に取るようにわかる。
「起こしに来てあげるよ。」
「……でも…」
「ゾロ、俺が起こしに来ると、ちゃんと起きられるだろう?」
「そうだけど…」
暫く迷ってから、ゾロはしぶしぶといった様子で頷き、サンジをじっと見据える。
「ちゃんと起こしに来いよ。」
「うん。」
にこりと笑って頷けば、ゾロは小さく息をついて、枕元の目覚まし時計を手に取った。起こしに来いと言いながらも、ちゃんと自分で起きる意志を持ってくれている事が、サンジには嬉しかった。自分の無茶な言い分に、仕方なく付き合ってくれていると言うわけではないのだと、その行動が示しているように感じられた。
「何時に起きればいいんだ?」
「30分早くして。」
「ん。」
キリキリとネジを回して時間をセットして、ゾロはそれをキッと睨み付けて、ベッドに潜り込む。
「ゾロ。」
「何?」
早起きを決意してベッドに入ったのに、まだ何か用があるのかと、不思議そうに問い掛けられて、苦笑を浮かべ、サンジは布団に包まったゾロに覆い被さるように顔を寄せる。
「おやすみ。」
ちょい、と唇を触れ合わせてからそう言えば、ゾロは吃驚したように目を見開いて、それからちょっと照れたように笑った。
「おやすみ。」
頭まで布団の中に潜り込んだゾロを見て笑みを浮かべて、早く、新婚さんっぽく、同じ布団で寝てみたいなぁと思ったが、それはまだ早いだろうと、必死に自分に言い聞かせながらサンジは部屋を出た。
「おはよう。」
キッチンの扉が開く音がして、背後を振り向かずにそう声をかけると、小さな足音が傍へ寄ってきた。
「おはよう、サンジ。」
そろそろ、起こしに行こうかなぁ、と迷っていたところだったサンジは、いつもとは違い、ちゃんと返った挨拶に驚いてそちらを振り向いた。
そして、すぐそこに立っていたゾロが、ひょい、と顔を寄せてくるのを、ぼんやりと眺める。
ちょい、と唇が軽く触れて、にこりと笑うゾロを見て、このまま死んでもいいかもしれないと、その場にしゃがみ込みながら、サンジは思った。
1万HITオーバー時に大庭鳩さんから頂いたリクエスト。
「義兄弟ものの続きで、できれば二人にちゅーなんて…」という内容でした。
どうでしょう?こんなでも一応、リククリアでしょうか?
多分、この兄弟、この先暫く、おやすみとおはようのキスだけですね。サンジ、ゾロと10何年かぶりに一緒に風呂に入れる日はいつでしょう。(2004.11.26)