「帰っては駄目。」
大きな金色の目に涙を溜めて、可愛らしいドレスを着た少女が言う。
「もっとお話をして。」
もうお別れをしなさいと言われて、少女はそう言って駄々をこねた。それを聞いて、そう言った彼女の母親も、俺の保護者も、とても驚いた顔をしてから、どこか悲しそうに笑った。
「また、来るよ。」
でも、今日は帰らなくちゃ。そう言えば、少女はふるふると首を横に振る。
「今がいい。」
「我が儘を言っては駄目よ。」
「でも」
どうしても諦めきれないようで、少女は母親に縋るような目を向ける。
「約束する。きっと、また会いに来るから。」
床に膝をついて、その手を取ってそう言えば、諦めきれないという表情を浮かべながらも、少女はじっと見つめ返してくる。
「本当に?」
「うん。きっと、会いに来る。」
約束。と小指を絡めて言えば、少女は小さく頷いた。
ぽかりと目を開けて、今しがた見た夢の内容を思い返す。もう、十年以上前の記憶だ。自分より、三つか四つ年下の可愛らしい少女だった。
初めて連れて行かれた王宮でのパーティーで、話し相手をしているようにと言われて、長い時間話をしていた。どんな話でも興味深いようで、目をキラキラさせながら話を聞いてくれたから、自分の知る限りのことを話して聞かせた。それまでに知らなかった、楽しい時間だった。
結局、あの日の約束は今も果たされていない。彼女がそれを覚えているかもわからない。ただ、その後もう一度だけ彼女を見た事がある。
彼女の母親の葬儀の時だ。三人目の王妃だったその人の葬儀の日、師匠に着いて王宮へ行った。
彼女の傍に寄ることはできず、遠目で見た彼女は、黒いドレスのスカートを握り締めて、泣きもせずにじっと立ち尽くしていた。
その頃彼女は、周りの少女達とはどこか違う事が明らかになりつつあった。そんな時に、母親という後ろ盾をなくした彼女が、この先無事にいられるのかと、不安に思った。いっそ、連れ去ってしまえたらいいのにと、本気で思った。
あの時を機に、師は王家との関係を断ち切ってしまった。それまでは度々の召喚にも応じていた師であったから、第三王妃の死に、何事かの謀があったのだろうとしか思ったけれど、その選択は、更に彼女との距離を広げるだけにしかならなかった。
子供の頃、いつかきっと、素敵な王子様が現れて、自分をとても大事にしてくれるんだなんて、そんな事を考えていた。
でも、現実はそんなに簡単ではなくて、と言うより、そんな期待が間違っていたという事で、そんな夢のような王子様なんてそうそう簡単に存在するわけはないのだ。
「姉君様には、隣国の王子が求婚なされたそうでございますよ。」
そう言って知らせてくれたのは、侍女頭で、自分の世話する姫には何故それがないのかと、惜しんでいるように見えた。
「そう…」
今の時代、姫君は余っている。それなのに、ゾロはこの国の第五王女だ。求婚したところで王位も得られず、さして美人でもないゾロに、わざわざ求婚する王子などいるはずもなかった。
「姉君はお美しいから…」
ゾロは、何を間違って女に産まれたのか…と言われる程、儚気な雰囲気も、柔らかな声も持たずに育ってしまった出来損ないの姫だ。
十四ともなれば、体つきも柔らかく丸みを帯びて、軽やかな足取りでダンスの一つもできて当然の年頃だと言うのに、ゾロはといえば、周りの姫君たちよりも頭一つは背が高く、それでいて、柔らかさは欠片も見当たらない。目つきもきつく、笑みを浮かべる事も苦手とあっては、尚更に女らしくはないというものだ。
最近のゾロの不安と言えば、このまま成長してしまうと、背の高さは父に並びかねないのではないかというものだ。今でも、ドレスを選ぶのは一苦労で、周りの少女達から見劣りしないようにと、侍女たちがあれこれ苦心をしているのを見ている。
それを見ていると、城のパーティーに出て行くのも躊躇われ、周りはそれを歓迎している風で、特に強く出席を勧めるものもいなくなった。敵になるか否かは置いても、わざわざ強く誘って、万一の機会を与えてなるかという意図もあるのだろうと、ゾロは思う。
王宮の中はいつでも競争で溢れ返っている。求婚を受けたという第二王女は今年で十八になるが、これまでに何件もの求婚を断っている程の美貌の持ち主で、他の王女達も、彼女と美しさを競うのは無理であろうと、他に目標を据えている者が多い。
ゾロは今のところ、これと言う自慢もない。母が生きていた頃は、揃って庭を歩いたり、母から剣の扱いを教えてもらったこともあったけれど、母が死んでからというもの、何もさせてもらえなくなってしまったからだ。勉強も、本を読むことが精々で、それすらも与えられたものを読むばかり。刺繍やレース編みなどは教えられているけれど、幼い頃に庭を駆け回って遊んだゾロにとって、そんな細かい作業を続けるのはなかなか骨の折れることだった。その為、なかなか腕前は上がらないままだ。
「父上も、私がもっと幼い頃に、適当なところへ縁組みして下さればよかったのに。」
十歳の頃などは、ゾロだって、愛らしい姫君だと言われていたのだ。幼い頃は、男も女もなく、子供はえてして可愛らしいものだ。その頃に嫁に出てしまえば、育ってからどうなったからと言って、それを理由に離縁される事なんてないはずだ。それに、十で嫁に行くことなど、別段珍しいことではない。
もしかしたら、自分はこのまま女性らしいところなど持てずに育つのではないかと言う不安のあるゾロにしてみれば、そんな事を考えるのは一度や二度のことではなかった。
「いっそ、自分から城を出てみてはどうかしら。」
笑って言えば、侍女頭は驚いたように目を見開き、大きく首を振った。
「姫様、何をおっしゃいますか。」
「……だって、私に求婚してくれる人なんて、これからもずっといないと思わない?」
パーティーでは男性は女性に声を掛けるのが普通だけれど、ゾロに近寄ろうとする者は数少ない。精々が、他国の大臣だとかで、社交辞令に挨拶をするばかりだ。ダンスに誘われることも殆どなく、その場にいるだけで気が沈む。
そんなゾロの様子を見て、益々、人は避けるという悪循環も起きているのだが、ゾロだって、もう少し何とかしたいと思っている部分はあるのだ。あるけれど、自分からにこやかに笑って声を掛けるなんて事はできそうにはなかった。
「それに、私一人いなくなったところで、誰も気になんてしないわ。」
夢見た王子様は現れる事なく、その王子から目を反らされる日々の中で、ゾロは次第にここではない場所に憧れるようになった。
そこで本当に上手くやれる保証はないけれど、ここよりもいいのではないかと思う。
「なんて、冗談よ。」
些か真剣な感情の篭ってしまった発言に、青くなっている侍女頭の表情に気付き、ごまかすように笑ってそう言えば、彼女はほっとしたように笑みを浮かべ、部屋を出ていった。
ドアが閉じたのを確認して、ゾロは寝室へ移動し、ドレスを脱いでしまうと、クローゼットの中に隠し置いた服を取り出す。
「きっと、うまくやれる。」
衛兵達の服を、こっそりと詰め所に忍び込んで手に入れておいたのだ。泥棒の真似なんてと思わないでもなかったが、王女を咎める者はどこにもいなかった。
男物の服を着て、長く伸ばしていた髪を切って鏡の前に立てば、そこに立っているのは、出来損ないの姫君ではなく、どこにでもいるような少年のように、ゾロには見えた。
用意しておいた小額の貨幣と幾つかの宝石類、着替えを袋に詰めて、ゾロは部屋を出た。
王宮の衛兵達は殆どがパーティーに関わっていて、王宮の奥には姿が見えない。元々ゾロの暮らす居館にはそれ程人もいないため、ゾロは誰にも会わず、館を抜け出すことができた。ほっと息を着いたところで、厨房から出てきた青年と顔を合わせた。
「……?」
二人でびくりと身を竦ませ、ゾロはその顔を知らない事に首を傾げた。
ゾロは厨房へ顔を出す唯一の王族だ。厨房係の顔ならよく知っている。それなのに、こんな金色の髪の青年を見たのは初めてだった。
しかし、ここで自分の身分を明かす事もできず、ゾロはどうしたものかと戸惑い、相手も人に見つかった事に驚き、この場をどうおさめればよいのかと戸惑っているようだった。
「御同業かな?」
ゾロの背負っている袋を指差し、自分の持っている袋を示して、青年はそう問い掛けた。
王宮に入った泥棒かと理解し、ゾロは戸惑った。
「それとも、仕事に嫌気が差して逃げるところ?」
その問いは、ゾロにはとてもいい答えに聞こえて、小さく頷いてみせると、青年は吹き出すように笑った。
「ここのお姫さんに会ったことある?」
金目のお姫さん、ここで暮らしてるんだろう?と青年は問いかけ、ゾロはそれが自分の事だと気付いて戸惑った。
「見たことはあるけど。」
「今はどんな感じ?最近は、あまり姿を見ないから気になっててさ。」
可愛いお姫さんだったけど、病気でもしてるのかな。と青年はゾロに問いかける。
「病気ではないと思う。」
その話題の人物が、自分だなんて言い出せなくて、ゾロはそれだけ答えて俯く。
小さな頃、背が伸び始める前までは、祝賀の儀式などで表に立つ事も嫌いではなかったけれど、今はあまりに自分がみっともなく思えて、できるだけ表に出ないようにしてきた。
こんな風に心配してくれる人がいるのは嬉しいけれど、それを裏切っているような気がして、悲しくなる。
自分が他の王女達のように育っていれば、人前に出て笑う事だって苦ではなかっただろうと思うのに。
「また、お姿を見せてくれるようになるといいな。」
それはもう無理な話だと思って顔を上げると、目の前の青年は何やら嬉しそうに笑みを浮かべていて、王宮の中ではどうにもならない自分でも、国民のいくらかは、自分の事を思ってくれるのだと、ほんのりと幸せな気持ちも浮かんできた。
「今日も、ちらっとでも見れないかと思ってきたんだけどな。」
流石に奥までは入っていく気にはなれないな。と青年は笑った。
「ところで、俺は、これから家に帰るところだけど、お前、俺と来るか?」
逃げ出すんじゃ、家にも帰れないだろ。と青年は笑い、ゾロは頷いた。
一人ではどこへ行けばいいかもわからないし、持って出てきた宝石を金に変える方法だってわからない。いずれはどうにかして調べるとしても、今すぐに、手助けがあるというのは嬉しい事だ。大体、ゾロはこの王宮から出て行く方法だって考えていなかったのだ。泥棒らしいこの青年に着いていれば、ここから無事に抜け出せることだけは確実だと思えた。
「ちょっと遠いけど、悪いところじゃないぜ。」
青年は笑ってそう言い、ゾロの前を歩き出し、ゾロはそれを追い掛けた。
この青年はゾロである第五王女に好意的なようだから、嫌な噂話などを聞かされることもないだろうと思えば、それだけでも、この手を取るのは間違いではないような気がした。
自分の事を考えるのが手一杯だったゾロは、後ろを着いて来る足音を聞きながら、青年が楽しそうに笑ったのに、気付く事はなかった。
青年の馬の後ろに乗って連れられてきたその家は、王宮から馬で3日も走った先にある、何もない山の中にあった。
小さな木組みの小屋ではあったけれど、部屋が四つと、暖炉のある調理場と続きの居間が一つ。王宮とは比べるべくもないが、説明をされながら見回したその家は、落ち着きを感じる、温かなものに感じられた。
「お前の名前は?俺は、サンジ。」
家に着いてからやっと、青年は名乗り、ゾロの名前を問いかけた。王宮からこの家までの道のりは、名前を聞く必要がないほど、二人は殆ど言葉を交わさなかったのだ。
「ゾロ。」
その名前は、第五王女の幾つもある名前の一つで、侍女たちしか使わないものだ。自分にはよく似合った名前だとゾロは思っていたから、それを名乗る事にためらいはなかった。
「ゾロか。暫くは好きに過ごしてればいいよ。」
仕事が嫌で出てきたなら、暫く働きたくなんかないだろう。とサンジは言って、ゾロに食事を用意し、眠る部屋を与えてくれた。
「なんか、お前とは上手くやっていけそうな気がするんだ。」
サンジは笑い、ゾロは礼を言って頷いた。
ここまで殆ど言葉を交わさなかったけれど、馬を下りて食べ物をくれる時や、馬に乗るのに手を貸してくれる様子を見ても、サンジに好意を抱くのは当然の事のようにゾロは感じた。
王宮で、ゾロに与えられたものとはまるで違い、明らかな好意がそこにあるようにも感じたのは、間違いではなかったのだと、ゾロは思った。
サンジはそんなゾロを見て、楽しそうに笑った。
「何かしたい事ができたら、それをしたらいいよ。」
「したい事?」
どういう事だろうかと、問いかけると、サンジは頷いた。
「なんでもいいよ。掃除でも洗濯でも、本を読むのでもいいし、森を散歩するのでもいいし。」
「料理は?」
と言っても、ゾロにできるのは、ほんの簡単な料理だけだけれど、一般的には家庭での料理は女性の担当だと聞いている。
「それは、俺の仕事だからダメ。」
「サンジの?」
確かに、さっき出された料理はとても美味しくて、ゾロは驚いてしまったから、それに勝るものなんて作れそうにはないけれど、てっきり、誰かが作りに来ているものと思っていた。
「そう。あと、俺の部屋には入っちゃダメだよ。」
先程、サンジの部屋だと言われた二部屋を思い出し、ゾロは頷いた。
「でも、何もしなくてもいいからな。」
優しく笑いかけられて、サンジはもしかして、自分の事に気付いているのだろうかとゾロは思ったが、それを問いかける事はできなかった。そうでなかったら、ゾロは自分が何者かを言わなくてはいけなくなる。そうしたら、きっとサンジはこんな風に優しく笑ってなんてくれないような気がした。
「……ありがと…」
「おやすみ。」
サンジは笑い、部屋を出ていった。それを見送って、ゾロは小さなベッドに腰掛けた。
王宮を飛び出して、いくらなんでももう、ゾロがいなくなっているのは知れているはずだ。だけれど、ここまで来る三日間の内に、そんなうわさ話が聞こえる事もなく、ゾロを女だと疑う人もいなかった。
それは自分が望んだ事ではあったけれど、本当に王女としての自分には存在している価値もなかったのかと思うと、悲しい事のように感じた。
「……仕方ないよ…」
だって、自分は、生まれ方を間違ったのだから。
「王女さんがいなくなっても、何の反応もなし、か…」
部屋に戻り、鏡を覗いたサンジは小さく呟いた。
第五王女の噂は、この辺境までも聞こえてきていた。
国王が最も大切にした第三王妃のたった一人の娘。母親譲りの若草色の髪と金色の目の彼女は、国民からも愛されるかわいらしい姫君だった。王宮での催しの後に発行される新聞の中に、彼女の姿がないものかと、村の皆で顔を寄せ合って見た記憶がサンジにはある。
その彼女は、十歳を幾つか越えた頃から、女性らしいとは言いがたい姿に成長をし始めた。誰もが首を傾げ、一つの噂が国民の間に広がり始めた。
第五王女は、実は第一王子ではないのかと。
その噂が広がるにつれ、次第に彼女は姿を隠すようになり、二年程前からすっかり名前を聞かなくなった。
彼女はやはり男で、その存在を疎んだ人間達に殺されてしまったのではないかという噂もあった程だ。彼女の母親の生国は、他の王女達よりも力が弱い小国であったから、そういった事も関係しているのではないかという話もあった。
「王子だってのに…」
ほんの幼い頃、師と共に訪れた王宮で、彼女を見た時の驚きを今でも覚えている。本当に、かわいらしい少女で、他の王族達と違い、彼女とその母親だけは、魔法使いとその弟子にも、親しく声を掛けてくれたのだ。師と王妃が話をしている間、自分の話を聞いて笑ってくれた少女の様子は、サンジにとって何よりの驚きだった。王女と傍で親しく話ができるなど、辺境で暮らしていたサンジにしてみれば、考えたこともないような事だったのだ。
その帰り道、師が彼女は彼であろうと言った。そして、彼女はそれを知らないだろうと。
それを聞いても、サンジにとって、彼女は女性であったし、自分が彼女の騎士になれないものかと願った。実際には、サンジは魔法使いの弟子で、騎士になれるわけもなかったけれど、いつか彼女が困った時には、きっと力になろうと思った。彼女が手助けを必要とする時には、力を貸しに行こうと決めて、サンジはこれまで魔法の修行に励んできた。
ここ最近、遠見の水晶玉に移る彼女は何か思い悩んでいる様子だった。声までは聞こえないのが水晶玉の難点で、サンジは三日前に王都までやってきた。王宮の中を姿を消して歩き回り、彼女の声なども聞いた。そして、計画決行の手助けをするべく、あの場所で待っていたのだ。
再会しても、彼女はサンジに気付かなかったが、それを悲しいとは思わなかった。そんな事に気付く程、彼女に精神的な余裕がないのはわかりきっていたからだ。自分の印象が彼女の中で薄いとは思っていなかったから、サンジはいずれは彼女が自分を思い出してくれるだろうという自信があったのだ。
ここへ連れて来る間に、ゾロはあまり話をしなかったけれど、少しずつサンジに慣れて、笑みを浮かべるようになったのは嬉しかった。
ゾロはずっとここにいればいい。サンジはゾロの為に何でもするつもりだ。彼女が事実を知って、驚くだろうけれど、それを受け止めてあげようと思っている。その為には、もっと信頼を得なくてはいけない事も、よくわかっていた。
朝食を終えて、片付けを請け負ったゾロは、サンジが部屋へ入っていくのを見送って、食器を洗うための水を汲みに、家の外へ出た。
ここへ来てから2週間程になるが、その間、来客はなかった。サンジは働きに出る事はなかったが、村へ出て買い物をしている事を考えると、やはり盗賊の類なのだろうかとゾロは思った。
ここへ来た最初の日、ゾロは持ってきた金をサンジに差し出したが、サンジはいつかのために取っておけばいいと、それを受取らなかった。それは、いつかはここを出ていけという事なのだと、ゾロは受取った。
王宮を出ると決めたものの、ゾロは今まで、自分で自分の事の何もかもをした事がなかった。食事の用意は厨房係がしてくれていたし、部屋の掃除にもその係がいた。着替えを用意するのも、髪を整えるも、侍女たちがやってくれていたのだ。自分は本当に、何もできないのだと気付いて、この2週間、ゾロはサンジのすることを見て、色々と覚えようと必死だった。
いつか、ここを出て暮らすと言い出さなくてはいけないのならば、出て行けと言われる前に、自分で出て行く日を決めようと思った。この2週間で、ゾロはサンジがとても優しい事を嬉しく思ったし、そういう部分に心惹かれないわけはなかったから、邪魔だと言われるのは嫌だと思ったのだ。
家の脇の井戸から水を汲み上げ、水桶を運ぼうとそれを持ち上げたゾロは、木立の中から姿を見せた人影に驚いた。
「こんにちは。サンジはいるかい?」
にこりと笑って、愛想良く問い掛けてきたのは、恰幅のいい女性で、手には籠を一つ下げていた。
「はい。」
どういう客だろうか、と思いつつ、水桶をそこへ下ろして、ゾロは家の中へ入ると、サンジの部屋の扉を叩いた。
「サンジ、お客様だけど。」
「中に入ってもらって。すぐ行くから。」
すぐに答えが返った頃には、来客の女性は既に家の扉を潜っていて、ゾロは慌ててテーブルの上から食器を移動させた。
「あんたは、魔法使いになるのかい?」
ごく自然に問いかけられて、ゾロは首を傾げた。
「サンジがここに弟子入りしたのは、もっとずっと小さい頃だったけれど、あんただってまだ、二十にはなっちゃいないだろう?」
では、サンジは魔法使いなのかと、ゾロは驚いた。王宮で会った時は、自分が盗賊なのだというような事を言っていたサンジだ。まさか、それが魔法使いだなんて思わなかった。
「十四になります。」
「おや、思ったより若いじゃないか。随分背が高いね。」
王女としてはコンプレックスだった背の高さではあったけれど、彼女の言葉はそれを褒めているように聞こえて、ゾロは少し嬉しかった。
「ちょっと細いのが心配だけど、ちゃんと食べてるかい?」
彼女はゾロの背中をぱしんと叩いて、子供は沢山食べて大きくおなりと、笑いながら言った。
そんなやり取りをしている間に、サンジが部屋から出てきて、彼女を中へと手招いた。
「もし他に客が来たら、今日はお終いですって言ってくれる?」
「わかった。」
答えて、ゾロは置いてきた水桶を取りに、外へ出た。
先程の女性の反応でも思ったのだが、やはり、誰も自分を男装している女性だとは扱わないと、ゾロは少し不思議に思う。
そう見てもらわなければ困るのだけれど、そんなに自分は男として違和感がないのかと、どこか納得できない気持ちにもなる。
確かに、自分には彼女のような大きな胸もないし、母のような細くくびれた腰でもないし、全体的な体のバランスは、どう見たって、彼女よりはサンジに近い。でも、自分は王女として育てられたのだから、女であるはずなのに、と思う。もし、自分が本当は女ではなく男なのだとしたら、そうして育てた人々の意思は、どういったものだったのか、それがわからない。
この国の王位は男が継ぐもので、男が生まれなければ、王女の夫が王になる。もしゾロが男だったら、王位継承者として育てられていなくてはおかしい。第一王女とゾロの年齢差は十五。今でも彼女の夫が王になるだろうと言われているが、それも関わりのある事なのだろうか。
だけれど、こうして王宮を逃げ出してきた以上、もしその推測が当たっていたとしても、城に戻って王位を得ようとは思わない。今更そんな事を騒ぎ立てても、誰も取り合おうとしないのは間違いのない事で、ゾロにとっても、ここでの生活の方が楽しいのだ。
だけれどもし、自分が本当に男なのだとしたら、サンジを好ましいと思う自分のこの気持ちは、サンジには通じることなどないのだと思うと、それは悲しい事のような気がした。
小さな頃、王の誕生日の祝いのパーティーで、魔法使いと初めて会った。その弟子の少年は、とても綺麗な金髪と真っ青な瞳の持ち主で、聞かせてくれる話もとても楽しかった。ゾロがいつかはと夢見た王子の空想は、いつだって彼の姿があった程だ。
サンジはそれとそっくりの色を持っていて、ゾロはその空想を重ねていたところもあった。まさか、サンジも魔法使いだなんて思わなかったから、驚いたけれど。
「同じ人って事はないか…」
金髪と青い目なんて、この国には沢山いる。あの日の事は鮮やかな記憶として残っているけれど、それをサンジに押し付けるわけにはいかない。
あの時、いつかまた会いに来てくれると言った約束も、自分の夢物語のような空想を支えているけれど、もうずっと前の話だから、忘れてしまわなくてはいけないことなのかもしれない。
産まれ方を間違えたにしろ、育ち方を間違えたにしろ、今ここにこうしているのは変えられない事だから、自分が本当はどういう存在なのか、少し落ち着いて考えてみようと、ゾロは思う。
水桶を持ち上げて歩きながら、自分がこんなに重い物を運べるなんて、想像した事もなかったと、ゾロはぼんやりと思った。
火の点いていない暖炉の前で、真剣に本を読んでいるゾロを見ながら、サンジは夕食の準備に取り掛かった。
ゾロがここへ来てから、もうすぐ一月になる。ここ数日は、ゾロはああして本を読んでいることが多く、サンジがこっそりと本の題名を見たところによると、ゾロはどうやら自分の性別について、色々と考えているようだった。これを機にと、サンジはゾロの目につくように、蔵書の入れ替えなどをしているが、ゾロはその意図に気付くことはなく、サンジの狙いのままに、本を読み進めていた。
ゾロが本当は男であることは、今のゾロならば、普通に見てすぐにわかる。ドレスを着て体型をカバーしていると、勘違いであろうかと思うこともないわけではないのだが、サンジの服を着ていれば、はっきりと見て取れる体型から、男だとはすぐに知れる。けれど、ゾロは多分、男女の違いをはっきりと教えられた事がないはずだ。そうでなければ、自分が女だと信じていられるわけがない。だから、自分がどちらであるのか、ああして本で調べて確証をもてない限り、口に出せないのだろう。
調理の間、視界の端に入れていたゾロの背中が、驚いたように揺れたのを見て、サンジはやっと目当ての頁に行き着いたかと、声を掛けた。
「ゾロ、どうかした?」
問いかけに、びくりとしてから、ゾロがそろそろと振り返るのを見て、サンジは苦笑を浮かべ、手を止めてそちらへ近付いた。
「何を読んでるんだ?」
問いかければ、ゾロは慌てたようにその本を背中に隠そうとし、サンジはその様子に思わず吹き出す。
「それは俺の本だから、俺だって読んだ事あるよ?」
それを読んでいることを隠されるような内容なら、それを持っている俺はどうなの。と問う様に言えば、ゾロはその本を見せる。
「あ〜、それは、俺もちょっとびっくりしたな。」
わかり易く図解された、男女の体の違い。サンジが初めてそれを見たのは七歳辺りだったと思うが、何と言うか、いけないものを見たような気持ちになったのは確かだ。
「女性の裸なんて、まじまじ見たことないもんな。」
そうサンジが言えば、ゾロはカクカクと頷き、ぼんやりとそれを眺めている。
「女の人に興味でもある?」
「ないよ。」
だって、今の今まで、自分が男である確証はなかったし、つい一月前までは自分は女だと思っていたのだ。それで女性に興味があるなんておかしいではないかとゾロは思う。けれど、そうとは、自分が男であると気付いたからには、言い出しにくかった。
「そっか。」
「…サンジは?」
ここには客がたまに来るけれど、ゾロが見たのは大体が、年かさの女性ばかりだった。サンジが夜に家を空けることもない事を考えると、サンジは夜這いなどには行っていないという事だろう。しかしそれは、サンジほどの年齢になると、珍しいことではないだろうかとゾロは思った。王宮でも、そういう噂話は飛び交っていたから、男がそうすることに関して、ゾロは否定的ではなかった。
「魔法使いは、女性に近寄っちゃ駄目なんだ。」
「どうして?」
「色々、雑念が入るからって。」
元々、俺は女の子って、やかましくてちょっと苦手なんだよね。と、サンジは笑った。
ゾロが、自分が男であると理解したのは間違いがないと、サンジはその様子を見て確信する。
だけれど、本当のところ、サンジはゾロが男であろうと女であろうと、どちらでも構わない。確かに、サンジが心引かれたのは幼い少女であったけれど、それは別に彼女が少女であったからというわけでもなく、少年だったからというわけでもないからだ。
けれど、サンジはゾロを傍に置いておきたいと思っている。それを切り出すのに一番良い機会を計っていたのだ。それを伝えるのは今しかないと、サンジは思った。
「やかましいものなのか?」
王女や侍女たちはあまりやかましくは喋ったりはしない。そういう事は、慎みのない事だと、注意されて育つのだ。だから、ゾロにはサンジの意見がよくわからなかったが、サンジの表情は、嘘を言っているものではないとゾロは思う。
「村の子たちなんて、賑やかだよ。びっくりするくらい。王女様たちは、違うんだろうけど。」
その言葉に、ゾロは首を傾げる。王宮でゾロに会ったものの、サンジは今まで王家に関わる話題は、口にしたことがなかったのだ。
「ゾロは、小さい頃から、静かだったけど。」
「…サンジ?」
何のことだろうと、ゾロは向かいでこちらをじっと見ているサンジを見返す。突然、そんな話をし始めたサンジの意図もわからず、サンジが何を言おうとしているのか、ゾロにはまるでわからなかった。
「忘れちゃった?いつか、会いに行くよって、約束したよね。」
呆然としているゾロに、サンジはにこりと笑いかけ、あの日約束したように小指を見せる。
ここで、懇々と過去を説明する気はないし、この状況や、自分の意図していることを説明する気はない。そんな事をしていたら、ゾロが身構えてしまって、サンジが本当に望んでいる機会が訪れるのは随分先になってしまうに違いないからだ。
だから、このまま、勢いに乗って畳み込んでしまうのが一番良いに違いないと思う。
「随分、遅くなったけど。」
「ホントに?」
そうだったらいいと思った自分に、サンジが合わせていてくれるだけではないのかと、ゾロは問いかける。正直なところ、サンジの言っていることは頭に入ってはいるけれど、なんだかぼんやりとしていて、はっきりとしたことを考えることができない。
「うん。会いに行くだけじゃなくて、攫ってきちゃったけど。」
俺は、駆け落ちみたいな気分だったんだけど。とサンジは笑い、ゾロの手をそっと取り、じっとその金色の目を見つめる。
「ゾロは男だけどさ、俺には、お姫様だよ。」
ドレスなんか着てなくても、髪が短くても、凄く可愛いと思うよ。と、サンジは言葉を重ねる。
「ずっと、大好き。」
王女様は、魔法使いのお嫁さんにはできないかもしれないけど、ゾロはもう王女様じゃないから、いいよね。と、サンジが言うのを、ゾロは夢うつつで聞く。
「俺の、奥さんになってくれる?」
嫌って言っても、どこにもやらないけど。とサンジは言い、ゾロは手を伸ばしてサンジの服の袖を握り締める。
「俺も、ずっと、好き。」
答えると、サンジは大きく頷いて、ゾロを救い上げるようにして抱き上げて、立ち上がる。
「サンジ?」
「心配しなくていいよ。大丈夫だから。」
何がどう心配で大丈夫なのかわからないまま、ゾロはサンジの部屋へ運ばれる意味すらわからず、不安定さを解消しようと、サンジにしがみつく。
「夕食は、後からね。」
何をするのだろう、と内心で首を傾げながら、ゾロは黙って頷いた。
なんだかよくわからないけれど、どうやら、この先もずっとサンジの傍にいられるようで、それで充分なんだと、ゾロは思った。
「ゾロ、大丈夫?」
ベッドの上で、呆然、といった様子のゾロに、サンジはそっと声を掛けた。
ゾロは、その声に反応して、顔だけを声の方へ向け、そこに立つサンジをギッと睨みつけた。
「何が大丈夫だって言うんだ!」
叫んだ声は擦れていて、起き上がろうとしてうめき声を上げてゾロはベッドに突っ伏す。
「ゾロ!」
無理しちゃ駄目だよ。とサンジは言い、ゾロの背中を宥めるように撫でる。
その感触に、ゾロはどうしようもなく悔しくなり、腕を伸ばしてサンジの胸を突き飛ばすように押しやる。
大丈夫だとか、心配いらないとかサンジは言ったけれど、何が起きているかわからないままに、酷く恥ずかしい目に合わされた。まるで大丈夫じゃないとゾロは思う。
「なんで、あんな事したんだ!」
怒って言えば、サンジはその意味がわからなかったのか、首を傾げてゾロを見返してくる。
「なんでって、ゾロ、俺の奥さんになってくれたんだろう?」
何の事か、とゾロは首を傾げ、お互いの言いたいことがわからないまま、二人は見詰め合う。そして、サンジがはたと気付いたように手を打った。
「初床の儀式だよ。これが済まないと、本当の夫婦にはなれないんだ。」
それも教えてもらってないのかな。とサンジが言うのを聞いて、ゾロは数年前に教えられた事を思い出した。
「…あれが?」
なんだか随分印象が違ったけれど、自分を女と偽ってきた人々の教えた事だと思うと、サンジの言い分を信じるべきだろうとは思う。
「それじゃ、また…」
あんな事を、この後も続けなくてはいけないなんて、とゾロは思う。
「毎日は大変だと思うけど、頑張ろうね。」
にこりと笑うサンジを見返して、ゾロは目の前が真っ暗になっていくのを感じる。
自分は、気絶する技能があまり上手くはなかったのにと、ゾロはぼんやりと思った。
オフライン発行「きみの三日月のまつげ」より再録
同題の「2」を発行したのに、「1」を知らない方がいるという事と、小ネタに続編もあるという事で、再録です。
5年も前の作品ですよ。っていう驚きがありますね。(2005.8.13作)
(2010.9.19up)