ゾロがサンジの家へ来てからやっと一年。近くの村の人々ともなんとか話が出来るようになって来た。来てすぐの頃は、以前の言葉遣いが抜けなかったから、あまり人と話すのが得意ではなかったからだ。
「今日は、野菜を買ってくるように言われたんだ」
市場の中でサンジが気に入っている店の一つでもある、恰幅の良い女性の営む店は、野菜や果物を豊富に扱っていて、そんなゾロの言葉を聞いただけで、きちんと品物を選んでくれる。
「この間買っていった人参はもう食べたかい?」
「食べた。昨日、シチューの中に入ってたぞ」
芋と玉葱と一緒だった。とゾロが答えると、店主は大きく頷いて、ゾロの持っている籠の中に人参と玉葱と芋を入れてから、ブロッコリーと豆を入れる。
「果物はいいのかい?」
「昨日、俺が森で採ってきたから、暫くはいいって言ってた」
「それじゃ、肉屋へ行って、牛肉を買って帰るといいよ」
「でも俺、昨日鹿を獲ったんだ」
森での狩や採取はゾロの仕事だ。弓の扱いも慣れたし、仕留めた鹿を運ぶのも簡単に出来るようになって来た。昨日は大きな鹿を仕留めたから、サンジが喜んでくれて、ゾロも嬉しかった。
「昨日獲ったのが食べられるのはもう少し後だよ。それにそれは保存用にしたほうが良いだろうからね」
そう言われて、そういえば去年もサンジはこの時期色々と作り置いていたとゾロは思い出す。
去年の今頃、まったく何もわかっていなかったゾロは、家の事の何もサンジの役に立てることはなくて、ただ毎日本を読んではサンジの作ってくれた食事を食べているだけだった。
あの頃の自分は本当にサンジのお荷物だったな、とゾロは思う。だから、今こうして村へ買い物に出たり、森で狩りが出来たりすることを、ゾロは嬉しいと思っている。
「冬になると、あまり家から出られなくなるから?」
「森の動物達も外へ出ないからね。肉屋にしたって品物は少なくなるよ」
肉屋の売っている肉の殆どは、自分の家で育てている家畜が多いようだが、狩りをして手に入れているような肉は店には並ばなくなる。兎や鹿などは動物が冬眠に入ればなくなってしまうのだ。
「じゃぁ、俺、明日も狩りに行こうかな」
「そうだね、あと1頭くらい獲っておくのもいいかもしれないね」
森の生き物は獲り過ぎてはいけないのだと、ゾロはサンジに教えられた。
木の実を採る時も、キノコを採る時も、全部採ってはいけない。来年また食べられるようにな、と初めてゾロを連れて森に出掛けた時、サンジは言ったのだ。
好きな物を好きなだけ食べる。そういう所で育ったゾロには、それは初めて聞く話だった。そして、自分が気に入っていた林檎がどんな風に木に生っているのか、兎はどういう形をした生き物なのか、そういう事を知る事ができた。
正直なところ、初めて生きている兎を見た時は、あれを食べていたのかと驚いたし、鹿や子牛だって生き物だったのだと実感した。
好きな物を好きなだけ、食べ残したものは勿論他の誰かが食べているのだけれど、なんだかとても罪深い事をとしているような気がして、サンジにそう告げれば、サンジは笑って首を横に振った。
『俺たちは、食べなくちゃ生きていけない。あいつらも同じ事だ。誰かの命を食べて生きてるって事だけちゃんとわかってれば、それでいいんだ』
水だけ飲んで生き延びるなんて、俺たちには無理なんだから、それは罪なんかじゃないんだ。そう言ってサンジが作ってくれた食事はとても美味しかった。
「どれだけあったら、二人分に充分なのか、俺にはまだわからない」
「じゃぁ、この冬は食料この中をよく見ておく事だね。春が来るまでに、急に物が減ったり、減らなくなったりしないで、春に倉庫の中身が綺麗になくなったら、丁度良かったって事さ」
ゾロはその言葉をしっかりかみ締めて、こくりと頷くと腰に下げた財布から野菜の代金を支払う。
「ゾロには今年が初めての冬みたいなものだね」
ある日突然、森の魔法使いに連れられてきたゾロを、村の人々は温かく迎えてくれた。
勿論それはサンジがこの村にとって特別な存在だからというのが理由だけれど、ゾロにはとても嬉しいことだった。彼等はずっとゾロを少年として扱っていて、最初の頃はゾロはそれがとても悲しかったのだけれど、うっかり自分は女なのだなんて口走らなくてよかったと、今では思う。
「去年はずっと部屋に篭っていたから」
「冬は結局、家に篭りきりになるものだけれどね」
笑う店主に頷いて、ゾロは言われた通りに肉屋へと足を向けた。
「サンジ、ただいま」
声を掛けると、台所から声が聞こえ、ゾロは籠を背負ったままそちらへ足を向ける。
家に入る前から、何か甘い良い匂いが辺りに漂っていて、それは台所に近付くとより強くなる。
「お帰りゾロ。今日は何を買ってきた?」
「人参と玉葱と芋と豆、ブロッコリーと牛と鳥。あと塩とハーブ」
「お、良い感じだな」
流石、わかってるぜ。と笑うサンジは、鍋を火から下ろしてテーブルの上へ運ぶ。
「昨日、鹿を獲ったって言ったら、肉屋のおかみさんが」
「言っておくの忘れたと思ってたんだ。明日でもいいかと思ったんだけどな」
言って、サンジは鍋の中身を匙ですくって、ゾロの口元へ差し出してくる。
「昨日、ゾロが採ってきたベリー。ジャムにしてみたんだ」
ぱくりと口を開けてそれを含めば、甘くてとろりとしたジャムにゾロの頬は自然に緩む。
「美味しい」
王宮で食べたどんなジャムよりも、とびきりに美味しいとゾロは思う。サンジは本当に料理が上手で、ゾロの気に入る味をよく知っていると思う。
「気に入った?」
「うん」
にっこりと笑うゾロを見て、サンジは至福を感じる。
ここへ連れてきて一年が経ったことで、ゾロは歳相応の少年らしく振舞うようになってきたけれど、こんな時はまだお姫様の雰囲気が顔を出し、サンジを喜ばせる。
本当の事を言えば、サンジはあまり甘いジャムは好まないし、手の込んだ料理を毎日作るのが面倒だと思うこともあるのだが、ゾロのこの笑顔が見られるのならば、何の不満もない。贅沢に砂糖を使って、たっぷり甘いジャムを作る。家の中の甘い匂いに耐えた甲斐もあるというものだ。
「有難う。サンジ」
大好き。恥ずかしそうに笑ってそう言って、ゾロはサンジの頬にお礼のキスをくれる。
「どういたしまして」
お返しにキスをして、ゾロの背中の籠を引き取ると、食糧庫へ運ぶサンジにゾロが着いて来る。
「明日、また狩りに行こうかと思うんだけど」
鹿がいい? 兎がいい? とゾロは問い掛ける。
「兎かな。でも一羽じゃ足りないから、無理しなくてもいいよ」
すっかり狩りはゾロの担当になってしまったが、ゾロは森での狩りが上手かった。鳥も楽々射てしまうから、それを教えたサンジはすっかり弟子に狩りの腕を抜かれたというところだ。
ゾロが言うには、狩りは王族の嗜みだからな、との事だが、それは確かにそうかもしれないと思ったものだ。
「じゃぁ、何か大きなのを一つにする」
ゾロは言って、サンジの手伝いをして野菜を棚へ納めていく。
ここに来た頃は、白くて細く綺麗だったゾロの手は、所々傷がついたり硬くなったりしているけれど、よく働く人の手になってきただろうと、ゾロは自慢げだ。
王宮にいたところで、ゾロは毎日辛い思いをしたに違いないけれど、綺麗な服を着て、何不自由なく暮らしていられたろうにと、サンジはまだ時々思うことがあるが、ゾロ本人はそんな事を考えもしないようで、王宮での暮らしはそんなに辛かったのだろうかともサンジは思う。
「サンジ?」
どうかしたのか? と不思議そうに見上げてくるゾロは、サンジにとってはどんなに育っても、きっとあの初めて会った時の可愛いお姫様のままなのだろうなと思う。
「ゾロは、王宮の生活は恋しくないの?」
村の人々よりも、サンジの生活は豊かだ。政治には関わらないようにしているけれど、領主や王族からの仕事の依頼はある。当然彼らの差し出す報酬は大きく、サンジはどんな時でも食べるに困ったことはない。
けれど、ゾロの育った場所はもっと恵まれていたところだ。本当に何不自由なく、求めたものは全て手に入るといっても過言ではなかったはずだ。流石にここでは、美しいレースやビロードのリボンなどは簡単には手に入らない。
「ちっとも恋しくないよ」
だって、ここにはサンジがいるけど、あそこにはいないもの。ゾロはにこりと笑ってそう言う。
「絹のドレスも、綺麗な宝石もあるのに?」
ゾロの服はサンジや村人が着ているのと同じ、羊の毛で出来た布や、綿の布で出来ている。ゾロが着ていた服とは手触りだってまるで違うはずだ。長くて綺麗だった髪もすっかり短くされてしまったのは、長くしていると痛んでいるのが目立つからだとサンジは思っている。
「絹のドレスなんてもう要らないし、宝石は俺にはあまり似合わなかった」
ドレスじゃ森も走り回れないし、絹って洗えないから汚さないか心配になるんだよ。とゾロは言う。
「サンジは、俺が帰りたいって言ったら、俺を帰すのか?」
ゾロが問い掛けるのを、サンジは見つめた。
帰っては駄目だと小さなゾロが言った時も、こんな悲しそうな顔をしていた。せっかく見つけたものが奪われてしまうような、そんな悲しい顔だった。
「ゾロ」
「お嫁さんだって言ったくせに」
バカ。酷い。とゾロは言って、サンジは慌てて駆け出そうとするゾロの腕を取って腕の中に抱き込む。
「ごめん。帰さない」
帰したくないのはサンジの方だ。
ここにはあれもない、これもない、そう言ってゾロがここを出て行きたがったりしないかと考えながら、それでもどこへもやる気などない。だから甘いジャムも作るし、美味しい料理だって作る。ゾロを喜ばせようと必死になるのだ。
「ゾロは俺の奥さんだから、誰が来ても渡さない」
王宮からの人探しの命令は出ていない。自国の王女がいなくなって、居なくなったことすら発表されないなんてと憤ったのはサンジだけだ。ゾロはそれを聞いて、少し寂しそうに笑っただけだった。
そんなところへゾロが帰りたがるわけがない。そんなことはサンジにはわかっていたことで、結局自分はゾロの口からそれを聞きたかっただけだ。けれどそれは、ゾロからしてみれば、サンジもまた自分を必要とはしていないのかという不安を感じさせるものだったのだろう。
「ごめん」
大人びたところを見せることがあるから、ずっと大人のように思っていたけれど、ゾロはまだ十五歳だ。王宮の奥深くで出来るだけ誰とも会わずに暮らしてきたゾロが、サンジの卑怯な考えなどわかるはずもなかっただろう。
「ずっと、俺のところにいてくれる?」
そう問い掛ければ、腕の中のゾロはぎゅっとサンジにしがみついて、こくりと頷く。
「当たり前だ」
サンジは俺の貞操を奪ったのだから、俺を養う責任があるんだからな。とゾロは言い、サンジはその背中を力いっぱい抱きしめた。
井戸で水を汲みながら、サンジは朝早くに出かけていったゾロの帰りを待っていた。
ゾロをここへ連れてきてから五年経って、ゾロはすっかりサンジの護衛のような立場に落ち着いた。王族や領主の呼び出しにも着いて来るのだから、まさに護衛なのだが、仮にも元王女だ。誰か一人くらい、似ているなんて事を言い出してもいいだろうにと、サンジは思うのだが、今まで一度だってそんな場面に出会ったことはない。
「わかるわけもないか…」
今のゾロを見て、絹のドレスを着て髪を綺麗に結い上げている姿を想像できる人間がいたら、そいつの頭は相当心配だとサンジは思う。それ程、ゾロは逞しく成長してくれた。
今ではゾロはワインの樽を片腕で一つずつ、一度に二つ運べるような腕力を身に付け、猪と鹿を同時に運んで森を歩いてこられるようになってしまった。初めて熊を背負って帰ってきたゾロを見た日、サンジは腰が抜けるかと思うほど驚いたものだ。
最近では弓と剣を合わせて使い、弓で弱らせた猪に駆け寄って止めを刺す姿を見た時は、あれが嘗て泣きそうな顔をして自分に縋った子供かと、感慨深く思ったものだ。
そんなゾロは、村の用心棒のようなことをしているらしい。なんでも、最近増えてきた旅人が、酒場で暴れることが増えているらしい。それをゾロが大人しくさせているという。
確かにあれが立ち塞がったら、酒で気が大きくなっているだけの人間は大人しくなるだろうなと思うのだが、本当は自分の側にいて欲しいと思っているのも事実。ここでの生活に馴染んでくれるのは嬉しいが、サンジにはなかなか複雑なことだった。
「サンジ!」
汲んだ水を台所へ運ぼうとしたところへ、待ちわびた声がサンジを呼んだ。
「おかえり」
「ただいま。今日は、パンを貰ってきた」
大事そうに手に抱えた包みを示しながら、ゾロはにこりと笑う。この笑い方だけは、昔を思い出させるものがあるとサンジは思い、差し出された包みを受取る。
「今日は早かったんだな」
「最近、旅の人間が減ったらしい。城で戴冠式があったらしいな」
パンを受取ったサンジの変わりにゾロは水桶を持ち、家の中へ足を向ける。
「戴冠式?」
そんな大事があって、ここまで話が来ていないとはどういうことか。とサンジは驚き、ゾロも不思議そうに首を傾げる。
「話がよくわからないんだが、どうも隣国の王の戴冠式が城であるんだとか」
姉上が嫁がれた先だと思んだが。とゾロは言い、サンジは心当たりを考える。
「継承で争いがあるようなことは聞いたかな」
「姉上は王子の下へ嫁がれたはずだろう?」
あの国は王子は一人しかいないはずだ。とゾロは言い、サンジは頷く。
「確か、第一王女の方が年上なんだよ。その夫がなかなか出来のいい男だとか聞いたことがある」
サンジの答えに、ゾロは溜息を漏らす。
「それでこちらで戴冠式ということは、あまり分がよくないということか?」
普通ならば自国で盛大に行われるものなのだ。それを王妃の生まれた国とはいえ、他国で行うなど普通はない事だ。
「そういうことだろうな」
「姉上はとてもお美しくて、聡明な方だと言われていたんだ。何不自由なく暮らしていらっしゃるのだと思っていたのに」
王子に嫁げたからといって、必ず幸せになれるものでもないんだな。とゾロは言って、台所の水樽に水を移し変え、木の椅子に腰を下ろす。
ゾロはこんな時に脚を開いて椅子に座ったりしないし、どかりと音を立てて腰を下ろすこともない。これもお姫様育ちの名残だなと思いながら、サンジはテーブルの籠へパンを移す。
「自分の努力でどうにもならない話で面倒ごとが起こると、案外王族の方が大変かもな」
「俺は、サンジのところに来れて、幸せだな」
あの頃は、姉上が羨ましかったけれど。とゾロは笑い、サンジはそんな風にあっさりと今を喜んでくれるゾロに嬉しくなる。
「本当は、王子様がよかった?」
「まぁな」
俺だってお姫様だったんだからな。とゾロは笑う。
お姫様が街の人々の元へ嫁ぐことはない。何か大きな功績を挙げた騎士に嫁ぐことはないでもないが、精々が貴族までだ。それでも可能性は随分低い。
「いつか俺のところにも、王子様が来てくれるかもしれないとは思ってたぜ」
それは嘗て会った魔法使いの少年とよく似た人物として想像されていたのだから、ゾロは自分の望み通り、理想の王子様の元へ嫁いだ事になるのだけれど、それはサンジには秘密だとゾロは思う。
ここへ来て随分経って、もうすっかり王宮での暮らしも忘れてしまったけれど、時々は姉達や仕えてくれた女官達の事を思い出すことはある。懐かしいような寂しいような、なんとも言いがたい気持ちにはなるけれど、やはりそこへ帰りたいとは思わなかった。
ちゃんと自分の王子様が迎えに来てくれて、幸せな家庭があって、流石に子供を作ることは無理だけれど、毎日満ち足りて幸せな生活がここにあるのだ。今のゾロには、不満なんてない。
どうしても一つというのならば、自分がサンジの妻であるとは言えないことくらいだろう。村の少女達や時折訪れる客達が、サンジに見惚れているのを見ると、ゾロは大変面白くない気持ちになる。そんな時、自分がサンジの妻なのだと皆が知っていれば、きっとあんな目をサンジに向けられることはないのに。と思う。
「お姫様だからなぁ、ゾロは」
ホント、ゾロに言い寄る王子がいなくてよかった。とサンジは思う。あんなに可愛らしいお姫様だったのだから、本当は幾つかは縁談だってあったに違いないと思う。事情が事情だから、それが叶う事はなかっただろうけれど、直接ゾロに会いに来るような相手があったら、ゾロはあの日サンジに着いて来るのではなく、その相手の元へ走ったかもしれないのだ。
「俺のところに来てくれてよかったよ」
サンジがそう言って笑えば、ゾロはぱっと顔を赤くして、サンジから顔を背ける。
「俺達は、幸せになろうね」
苦労させたり、悲しい気持ちにさせたりするかもしれないけど、誰より大事にするから。そう言って笑うサンジを横目で見やって、ゾロは小さく頷いて返す。
「責任は取るように」
以前に言ったようにそう返してやれば、サンジは大きく口を開けて笑い、ゾロはここより幸せな場所なんてあるわけはないのにと思うのだった。
オフライン発行「きみの三日月のまつげ2」より再録
(2010.5.3発行)
(2014.1.23再録)