「痛っ!」
思わず声をあげて痛みを感じた額に手をやれば、ほんの僅かに血の赤が指先についた。
「……お前ねぇ……」
ぎっと睨み付けた先には、人形サイズの生き物が一つ。
「寝たら困るって言ったのは、お前だろう。」
せっかく起こしてやったのに、そういう奴か。と、その小さな生き物は呟き、トタトタと机の端まで移動すると、こちらに背を向けてしゃがんでしまう。
「……あ……いや……有り難う。」
机の端に腰掛けて、足をプラプラさせているその生き物の背中には、とんぼのような2対の透明の羽根が生えている。その体を支えるには無茶だと思う大きさなのだが、それはその羽根でパタパタ飛ぶ。
緑色の短い髪と、金色のちょっと大きな目。パッと見は可愛いのだが、よく見ると目つきが悪いそれは、黒いワンピースのような服に緑色の腹巻きと言う、さっぱり意図の掴めない服装で、更に、その腹巻きには刀らしきものが三本下がっている。足に履いているのはごつい黒の編み上げのブーツだが、今はそれを脱いで裸足でいる。
それが、背中のとんぼの羽根とは全くそぐわない姿である事に、当人が気付いているものかどうかは定かではなく、更に言うと、俺のその意見について、他人に言葉を求める事ができない。
何故って、この謎の生き物は、俺にしか見えないらしいからだ。
「ゾロ、ほら、機嫌直しな。お前の好きなのやるから。」
机の引き出しを開けて、この小さな生き物の名前を呼んでやると、疑わしそうな顔がちらりと振り返る。
「ほら。」
取り出した丸い菓子をそちらへ転がしてやると、それはぱっと立ち上がって、銀色の紙に包まれたそれをはしっと捕まえた。
「次からは、もうちょっと優しく起こしてよ。」
「……お前が起きないからだ。」
あっさり機嫌を直したそれは、自分の名前を『ゾロ』と名乗った。
ゾロの言い分に依れば、ゾロの姿は通常、人には認識できないものらしい。それが、どうして俺に見えたのかと言うと、ゾロがうっかりしていたからだということになる。
ゾロは、甘いお菓子と酒が好物だ。今も、俺の転がしてやったブランデーの入ったチョコレートボンボンを抱えて、嬉しそうにかじり付いている程で、どちらかで釣れば大概ごまかされてくれる。
そんなゾロは、俺の働くバラティエという店のワインセラーに住み着いていたらしい。主食がわりの酒を、ちょいちょいと失敬していたらしいのだが、ある日、機嫌よく酒を飲んでいた時、俺に見付かったのだ。
俺だって、初めてゾロを見た時は驚いた。疲れがたまっていた自覚はあったし、幻覚でも見ているのかと思った。だって、普通、そんな場面を考えるわけもない事だったから。
その日、俺は疲れた体を少しでも早く休める為に、店の閉店作業の一貫として、ワインセラーの片付けに取りかかった。通常、店のソムリエが小うるさく管理しているワインセラーだが、閉店作業のざっとした床掃除くらいは、俺にもできる事だからだ。
ドアを開けてそこへ足を踏み入れた俺は、一番奥に置かれたワイン樽の方へ足を向け、そこに不思議なものを見つけて、足を止めた。
背中に羽根の生えた人形が、樽の上でチーズの欠片を膝に置いて、御機嫌な様子でガラスの器を抱えてワインを飲んでいたのだ。
昔、俺が、それはそれは可愛らしいお子様だった頃は、ワインセラーに住んでいる妖精の話とか、紅茶を上手に煎れるコツは、天使の一杯が重要だとか、そんな話に胸をときめかせたものだが、分別のつく年頃になれば、そんなものが現実に存在しないのはわかる。
それなのに、その人形サイズの物は、見間違いではなく、そこで動いていた。
「……?」
嬉しそうにワインを飲んでいたそれは、ふと、自分を見つめるものに気付いたらしく、顔を上げて俺を見返し、俺が間違いなく自分を見つめているのに気付いて、パッと姿を消した。
「へ?」
そこで消えたりしなけりゃ、俺はそれが幻覚だったと思ったかもしれない。それなのに、それは自分の意志で姿を消したのだ。だったらもう、それは現実だ。俺は、思わずそこに手を伸ばし、見えなくなったけれどそこにいるものを掴み取った。
「ぅわっ!」
ぽん、と手の中に姿が現れて、それは取り落としたらしいワインの入った器を名残惜し気に眺め、俺を睨み付けてきた。
「………喋るんだ。」
「………」
ぐっと詰まったように口を噤み、それは人形の振りでもするように、くたりと力を抜いた。
「………ふぅん……」
人間に見られるとヤバいわけか?と、その行動で想像し、握り込んだそれを引き寄せて、手を開くとちょい、と服の裾を捲ってみた。
「てめぇ、何すんだ!」
じっとしているのをいい事に、腹巻きに下げられた刀らしきものと一緒に腹巻きを取り上げてみたら、それは慌てたように暴れだし、俺は思わず吹き出した。
「いいの? 動いたら、人形じゃないってばれちゃうよ。」
「……」
ぴたり、と動きを止めたその姿がおかしくて、俺はそれが取り落としたガラスの器を拾い上げ、それが店で使っている、シロップを入れるピッチャーだと気付いた。
そして、時々、ソムリエがワインの減りがおかしいと呟いていた事もあった事を、ふと思い出した。
ボトルで持ち出される、コルクの抜かれていないワインの中身が減る事はないが、グラスで出される為に開けられたワインが、時々目減りしていると。
店の商品に手を出す不心得者がいるとは考えたくなかったが、サンジとて、それに心当たりがないわけでもなく、結局、犯人探しは行なわれずに来ているが、もしかしたら、この小さな生き物のせいなのかと、ピッチャーから香るのが間違いなくワインの匂いである事を確認する。
しかも、膝の上にあったチーズは、昨日、ぎこちなく切り取られていた記憶のある物と同種であったはず。
「……お前、何?」
問いかけると、それは不機嫌そうな顔でこちらを見返し、小さく舌打ちをした。
「………所謂、ワインセラーの妖精?」
「…勝手にお前らがそう呼んでるだけだ。」
どうやら、ワインセラーにだけ住んでいるものではないらしい。それはそう答えた。
「……お前は、ここのコックだろう?」
そして、自分の事だけ知られるのは気分が良くないのか、それはそう問い掛けてきた。
「そうだよ。」
「チビナス。」
「んだと!」
失礼な呼び名を口に出されて俺が叫ぶと、それは笑い、それと同時にワインセラーのドアが開いた。
「サンジ、お前、何一人で騒いでんだ?」
店のソムリエの言葉に、俺はハッとしてそちらを振り返り、それが、俺の手の中にいるものに気付いていない事を確認すべく、手を上げた。
「…何だ?」
突き出した手をしげしげと眺めてソムリエは首を傾げ、軽く首を振った。
「お前、疲れてんだよ。最近、休んでねぇだろ?」
「……まぁ…」
腕を下ろすと、ソムリエは俺の傍まで来て、肩を叩いた。
「今日は、片付け任せて帰りな。明日またしっかり働いてもらわなくちゃならねぇんだからよ。」
「……ああ…」
頷けば、安心したように頷いてドアを出ていく背中を見送って、俺は手の中の生き物に目をやった。
「……俺にしか、見えねぇの?」
「そうだ。こうなったからには、よろしく頼むぜ。」
からり、とそれは言い放ち、驚く俺に小さな手を差し出した。
「ゾロだ。」
指を差し出して、不格好な握手をすると、ゾロは笑ってパタパタと羽根を羽ばたかせて俺の肩へ移動してきた。
「何?」
「帰るんだろ? 一緒に行く。」
当然の事のようにゾロは言い、俺はそれを拒否もできずに、肩に感じる僅かな重みを意識して、ワインセラーを後にした。
キワ系妄想。よくあるパターンその1、って感じですが…
妖精ゾロ。お酒とお菓子が大好きだ。
いきなりスカートを捲るサンジはやっぱり変態だ。ってのは、言わないお約束で…
変サンジ、好きだから(笑)(2004.2.24)