妻に先立たれた男は、あっという間に死んでしまうものらしいわよ。
そう笑いながら言ったのは、嫁に行った娘だった。
随分大きくなった孫は、母親から譲り受けた刀を持って、どこかを旅しているはずだ。
船を降りて、小さな村で妻を迎え、産まれた二人の子供は、俺の作った小さな道場で剣を覚えた。
成長した後、修行の旅に出たいと言った二人に、自分の使わなくなった剣を渡す事に迷いはなかった。
娘には和道、息子には雪走。流石に鬼徹を渡せる程の腕前ではなく、手元に残した一本は、長い間、鍛練の道具にしかならなかった。
 
 
あの船に乗って、世界一を目指していた時、何の苦もなく振った三本の剣は、既に一本を持つので精一杯だ。これが、衰えるという事だと、最近特に実感する。
世界一の剣豪として剣を振い、それを目指す若い剣士に敗れた時、自分が大きな流れの中の一部に他ならないのだと気付いた。
船を降りようと思ったのは、それが最初だったろうと思う。
剣豪の名を継いでいくのと同じように、自分の何かを次代に繋ぎたいと思ったのだと思う。
その時既に、船の乗り組み員は様変わりしていて、俺が降りる事も、多少の引き止めだけで済んでしまった。
若い頃には、自分の命を継ぐ人間に、自分の技も伝えたいと自分が思うなど、考えた事もなかったが、それがその時の素直な気持ちだった。
 
 
元海賊の剣士に嫁ごうと思った奇特な女は、小さな村で剣の道を夢見た女だった。
裕福な生活ができたわけではなかったが、文句の一つも言わず、楽しそうに道場で子供達を教えた。
道場を息子に譲った後は、二人でのんびり時間を過ごした。
時折、近くの温泉場に旅行に出掛けたり、人生の前半の苛烈な生活とはまるで違う、穏やかな毎日だった。
良い女を見つけたと、今でも思う。
それでも、こうして一人になって、じっと考えていると思い出すのは、あの夢のような日々の事だ。
20にもならぬ頃、何も恐れる事などなく、自分の望みだけ追い掛けていられた時の事。
辛い事も苦しい事もあったが、今振り返ってみれば、何より幸せだった頃の頃。
そこにいた、たった一人の事。
ずっと先に船を降りて行った男。
今も、あの海で、彼の目標であった男のように、料理人を続けているのだろうか。
いつでも来られるようにと、そっと渡された箱は、妻に触れさせなかった唯一の物だった。
 
 
旅に出ると伝えると、息子は驚いて目を見開き、孫は慌てふためいて引き止めた。
もう一度、会っておきたい人間がいるのだと言えば、何を悟ったか、息子は静かに頷いた。
棚の奥に仕舞われた箱の中身と、鬼徹を持って、家を出た。
何十年も思い出さないようにしてきた人間に会いに行く。
それに必要なのは、その二つだけだった。
遠くない未来、自分が死ぬ時に、傍にいたらいいと思ったのは、あの鮮やかな金色だった。

 
 

日記連載していた老人ネタ。
老人企画はこの話の続き。



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