驚愕の瞬間



 驚いた。
 
 多分、これまでで一番。
 
 
 ふらつく足取りで甲板に降りたゾロは、先程見た光景を思い出し、その場にしゃがみ込んだ。
「………ぅ……う……」
 先程、ゾロは夜の鍛練を終え、ここ最近の常で、キッチンへ足を運んだ。
 鍛練で汗をかいた分の水分補給をしようというのが、その理由だ。
 キッチンの窓からは、光が漏れていて、そこにサンジがいるのだとはわかっていたけれど、だからといって、何を気にする必要もないと、声すら掛けずにドアを開けたのだ。
 そしてゾロは、その場で固まった。
 
 
 キッチンに、サンジがいるのは当然だった。これまでも、それは変わらず、サンジは一人でキッチンの片づけをしているものと決まっていたからだ。
 だが、今日は、もう一人、人がいた。この船に乗る人間の中で、最年長の女だった。
 別に、そこに彼女がいるだけだったならば、ゾロはそこで固まったりしなかった。
 テーブルには多分、ワインであったろうと思われる瓶が乗っていたから、向いにでも座って、自分にも分けてもらえないかと持ちかけただろうと思う。
 だけれど、ワインの瓶とグラスはテーブルに乗っていたけれど、ロビンは椅子に腰掛けていなかった。
「ぅぅう……」
 ゾロはうめき声をもらし、頭を抱えた。
 驚きで、頭の回転は相当鈍く、動揺が激しく、まともな言葉すら出てこなかった。
 
 
 椅子に腰掛けていなかったロビンは、床の上にいた。
 否、床の上に転がったサンジの上にいたのだ。
 どういった事情でそうなったものか、混乱したゾロにはさっぱりわからなかったが、とにかく、ロビンはサンジの上にのしかかっていた。
 ドアを開けて、その光景を見た瞬間に、これはまずい場所に来てしまったと思ったのだ。思ったが、そこで固まってしまったのは、二人がキスをしていたからだった。だけれど、ゾロはそれを見て、『ああ、舌入ってるな…』と、何故かそれだけ冷静に考えた。
 ドアを開けた形のまま、ゾロはその場で硬直し、ドアが開いた事に気付いたのか、ロビンは体を起こし、ドアへ顔を向けた。
「……あら、剣士さん。」
 酒に酔っているのか、他のものに酔っているのか、ゾロにはさっぱりわからなかったが、それまでに見た事もない顔をしたロビンは、いつものようにゾロにそう呼び掛けた。
「あ……」
 次いでサンジも肩を押さえられている為に動けないまま、それでも首だけ捻ってゾロを確認し、目を見開いた。
「悪い。邪魔したな。」
 そこでやっと、ゾロの硬直は解け、何とかそう言い繕って、ゾロはドアを閉めてキッチンに背を向けると、ふらつく足取りで、甲板に続く階段を降りたのだ。
 
 
 
「……ぅ……ぁぅ……」
 驚いたのだ。それは、それは驚いたのだ。
 ロビンがサンジを選んだ事とか、サンジがロビンを選んだ事とか、そういう事よりまず、ああいう場面に遭遇してしまった事に。
 ゾロは、幼い頃に両親と死別しており、祖父母に育てられた。そして、暮らしていた村の文化の現れか、祖父母と共に、寺で法話など聞いて育った為、ゾロの思い付く技にはそれに因んだ名前が付けられていたりするわけだが、とにかく、道ばたでキスをする人間なんて当然いなければ、手を繋いで歩くのは小さな子供だけだったし、他人の容姿を手放しで褒めちぎるような男など、存在するはずもない村だった。
 そんなわけで、ゾロは初めてサンジを見た時、考えられない生き物がいると、警戒をしたものだ。
 あれは、自分とは違う生き物だから、自分が考え付かないような事をするに違いないと。
 それはともかく、とにかく、ゾロはそういった色事とは遠い世界に存在していたという事だ。他人の寝間に押し入るような、そうそうあるわけもない経験など、当然、あるわけもなかった。
 そんなわけで、知人が目の前でキスをしている姿すら見た事がないのだから、先程のような光景など、見た事があるわけもない。
 故に、ゾロはああいった場面に遭遇した場合、どのように対処するのがスマートなやり方なのかが、さっぱりわからなかったのである。
 多分、相手が気付く前に、そっとその場からいなくなり、何ごともなかったように対応するのが一番だったのだろうと、その場を離れてからやっと思い至ったが、あの場ではそれが浮かばず、硬直がいかにすれば解けるのかを考えるばかりだった。
「ぁあ………」
 失敗した。これはもう、とんでもない失敗である。
 窓から中を覗くとか、少しだけドアを開けて中を伺うとか、そういう気遣いをするべきだったのかもしれないし、そうでなくても、ドアを開ける前にノックなどするべきだったかもしれない。
 だけれど、ゾロにはそういう習慣がなかった。というより、この船にはそういった習慣がない。流石に、風呂やトイレは声をかけるのだが、キッチンのドアをノックする習慣を持ち合わせたものはいない。それが、今回はまずかったというわけだ。
 だけれど、あれは、サンジだって悪いのじゃないだろうかと、ゾロは思った。
 キッチンのドアは外開きだけれど、でも例えば、ノブをどこかに括り着けておくとか、開かないようにできないわけじゃないはずだ。もしくは、立ち入り禁止の札でも掛けるとか。
「……参った……」
 とりあえず、あの場から逃げたからには、今からキッチンへ戻るわけにはいかないし、明日の朝、この事を持ち出して謝るのは、どうにも野暮だという気がする。
 邪魔はしたかもしれないけれど、どちらも姿を見せないから、あのまま、自分の乱入はなかった事になったかもしれない。それならばそれで、自分は何も知らない顔をしているのがいいだろうと思う。
 何せ、昼間の二人はそんな様子を見せた事もない。だから、ゾロだって油断していたわけで、二人がそれを隠したいのならば、ゾロは知らぬ振りを決め込むしかない。これ以上の邪魔をするわけにはいかない。
 頭を抱えていた腕を解いて立ち上がると、ゾロは一つ伸びをして、ちらりとキッチンへ目をやった。
「………」
 やっぱり、サンジが悪いと思う。
 ゾロは、ここ最近、毎日、キッチンを訪れている。
 最初は、水を貰いに行っただけだったのだが、サンジが温かいものの方がいいとか、丁度自分も飲もうとしていたからとか、色々と飲むものを用意してくれるようになったのがきっかけだ。
 出会った当初に警戒していただけ、それまでゾロはサンジとあまり穏やかに話をした事がなかった。サンジの方もゾロを警戒していたのか、お互い、口を開けば喧嘩腰である事の方が多かったのだ。
 それなのに、夜のキッチンにいるサンジは、昼間が嘘のように穏やかで、ゾロが紅茶の匂いを嗅いでみた姿を見て、楽しそうに笑ったりしていた。昼間だったらきっと、馬鹿にしたように笑うに違いないのにと、ゾロは不思議に思った程だ。
 それでも、回を重ねれば、ゾロもその時間が楽しくなって、毎日キッチンを訪れるようになった。サンジもそれを迷惑がっている様子はなく、最近では、ゾロが来ると、『やっと、来たか』などと言って、片づけの終わったキッチンで待っていたような様子だって見えたのだ。
 だから、ゾロは今日もそれと同じ気分でキッチンを訪れたのだし、サンジはゾロが来る事だって予測がついていたはずだ。だから、尚更、なんらかの手立てを考えていてくれなくてはと思う。
「……そうか…」
 明日からは、近付かないほうがいいのだろうか。ふいにそれに気付いた。
 毎日顔を合わせているけれど、二人きりで時間を過ごせる時なんて限られている。ゾロがサンジと二人きりになる時間だって、この時間帯だけだった。ゾロにとっては楽しい時間であったし、サンジも楽しんでいただろうと思う。けれど、二人の邪魔をするわけにはいかない。
 楽しくなっていただけに惜しい気もするけれど、ゾロが訪れる事でロビンが訪れ難くなっては申し訳ないし、それでサンジが残念そうな顔をしたら、ちょっとつまらない。
「……そうか…」
 小さくため息を漏らして、ゾロは男部屋への扉を開けた。
 
 
 
 
 
「………ぁぁぁ……」
 サンジは、くたりと倒れ込んできたロビンの体を抱き上げて椅子に座らせると、ため息を漏らした。
 今日は、珍しく、夜遅くにロビンがキッチンを訪れた。
 キッチンのドアが開いた時、サンジはてっきりゾロが来たものと思い、今日くらいはいいだろうと思っていたワインのボトルを手に、機嫌よくドアを振り返った。
 正直、残念だと思ったのはもうどうしようもない事だと思う。サンジにとって、ゾロと過ごす時間は特別なもので、ここで見るゾロは、昼間のゾロとは違って素直だったから、尚更、特別に思っていたのだ。
 初めて出された紅茶の匂いを、興味津々で鼻を近付けて確かめていたり、ココアの甘さにちょっと躊躇いながら、ラムをたらしてやったら、嬉しそうに笑ったり。
 そんな姿は、他では見られないものだったから、キッチンの片づけをしながら、今晩は何を飲ませてやろうかと考えるのも、サンジにとっては幸せな時間だった。
 それでも、ロビンが姿を見せれば、女性に奉仕して当然と思っているサンジに、無下に追い払う事もできるわけがなく、ゾロが喜ぶだろうと思っていたワインをロビンに勧め、何か摘むものでもと用意してしまうのも当然の行動だった。
 そんな中、勧めたワインをロビンが飲む姿を見て、サンジはそれがとても珍しい光景だという事に気付いた。
 この船には二人の酒豪がいるが、彼等よりも年上で、いかにも酒の似合いそうなロビンは、あまりそれを口にしなかった。もしかして、酒が苦手だったりするのだろうか、とサンジが心配に思った時、その変化は起きていた。
 ほんのり赤くなった目元と頬の色に、サンジは警告音を聞いた気がした。
 バラディエで働いている時にも、飲み慣れないワインに酔ってしまった女性を見た事は数知れない。そして、その中には、忘れてあげた方が彼女の為だろうと思う程の、醜態を見せてしまう人々もいたわけで、ロビンのその変化は、それに近いものがあった。
 普段から笑みを忘れないロビンではあるが、酒に酔っている笑みというのはどこか違うもので、サンジはさり気なく、温かい紅茶など用意しはじめたところだった。
 ロビンが椅子を立ち上がるのが気配でわかり、そして、よろめく足元に慌てて駆け寄ったサンジは、ロビンを抱きとめる間もなく床に倒れ込んだ。
 ゾロなら、しっかり抱きとめられただろうと、かなり情けない気分になったサンジは、それでも、自分が下敷きになった事はまだましだと思った。
 ましだと思ったサンジは、抱きとめられなかったロビンが、自分に艶やかな笑みを浮かべるのを見て、息を飲んでその表情に見入った。
 別に、ロビンに特別な感情など持ってはいないが、彼女が美人であるのは間違いのない事だ。それが艶を帯びた笑みを浮かべて、見愡れない男など、男ではないとサンジは思う。
 そして、サンジはそれに見愡れて動きを止め、最悪の事態を招き入れてしまったのだ。
「……せっかく、慣れてきたところだったのに……」
 目が合って、ぎこちなくドアを閉めた姿が思い出される。あれはきっと、誤解をしている。間違いないと思う。それなのに、追い掛ける事もできず、こうして寝入ってしまったロビンに上着を掛けてやったりしている自分は、馬鹿じゃないかとも思うけれど、あの場面では、サンジも固まってしまっていたのだから仕方がない。タイミングを逃してしまったし、例えば追い掛けて、何を言えというのか。
「……恨むよ、ロビンちゃん……」
 きっと、明日の朝になったら、今夜あった事など覚えていないだろうロビンに向かって、サンジは小さく呟いた。

 
 

なんとなく、ロビンって、お酒弱そうかな…って。
ゾロが好きなサンジと、サンジが好きだと気付いてないゾロ。
ココアに入れて美味しいのはラムで良かったはず。入れて飲んだ事はないけど、ちょっとこだわってるらしいコーヒーのお店で、ココアには着いてくるって書いてあった気がする。

(2003.11.27)



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