「ゾロは、方向音痴でさ、すぐ迷子になっちゃうんだ。」
にこりと笑うその表情に、俺はそうと短く返すことしかできなかった。
彼が嬉しそうに話すその言葉は、これまでに何度聞いたか知れない話だ。それでも彼は、ことあるごとに何度でもそう繰り返した。
「だから、早く見つけてやらないと。」
どこに行っちゃったんだろうな。と困ったように手元の地図を眺めて、今度はこっちへ行ってみようかと、指を滑らせる。
俺が彼と共に彼の行きたい場所を巡るようになってから、かれこれ10年程になる。その間、彼は俺が誰かを認識しようとした事はない。
それでも俺が彼と共に旅をしている人間だという認識はあるようで、時折、行き先に同意を求めて来る事もあれば、宿を決める事は俺に任せていたりする。
だから、俺が彼にとって必要ないという事はないのだろう。存在が認識されているのは間違いない。ただ、それが誰であるのかを、彼が認識していないだけだ。
そして俺は、それを指摘できないままだった。
10年前、彼の様子がおかしいと連絡を受けたのは、俺は一月程船を降りていた時だった。
俺が船を降りる前も、特別変わった様子は見受けられず、その知らせの意味がよく分からなかったが、文面からにじみ出る焦りに、慌てて船に戻る事になった。
船に帰り着くと、彼は今と変わらない様子だった。
表情はどこかぼんやりとして、ゾロが行方不明だから探しに行かなくてはいけないと呟いた。
丁度、別の海賊と小競り合いがあったらしいけれど、彼がそれに動じる事は考え難く、戦いの中で何か妙な技でも掛けられたんじゃないかと、最初は船医が様子を見ていたらしい。けれど、一向に状態は改善せず、船を降りていた俺に連絡を入れようという事になったらしい。
彼は、俺を見ても表情を変えなかった。ただ同じ事を繰り返すばかりの姿を見て、一時的に船から降ろそうという事になった。勿論、一人で下ろすわけにはいかないと、俺が付き添う事になったのだが、正直、どうしたら彼が元に戻るのかは、船に乗る誰にもわかってはいなかった。
船を降りて、二人になって、彼は地図を見ながらあちこちへ足を向けた。
ゾロを探さなくてはと言いながら、その目は誰も認識してはいなかった。ただ、ひたすらに旅を続けるだけ。持ち金がなくなれば、暫く待ちに留まって働いて金を得る。そういう時は、彼ははっきりとした表情を浮かべてものを話した。店の売り子の手伝いなどもそつなくこなしている様子に、驚いた事もあった。
彼の中で、時間や世界がどう認識されているのかを不思議に思う事は多かったが、それでもやはり、それを問いつめる事は出来なかった。
「ゾロの事は、俺が一番よくわかってるから。」
彼は笑いながらそう言うが、今のお前が一番わかっていないのだと言ってやりたくなる事がある。
10年前はそうだったのかもしれない。だけれどこの10年、彼は世界の変化を全く認識していないと言ってもいい。だから、彼が今のゾロを一番理解している事なんてない。
けれど、仮令そうだとしても、それをそうと彼に言うわけにもいかない。言ったところで彼がそれを認める事はないだろう。それどころか、状況が悪化する可能性だってないわけじゃない。
今は俺がついて来る事を認めていてくれるけれど、そんな事を言ったら、俺を拒否するかもしれない。それだけは、絶対にできなかった。
「早く探してやらないと。」
10年前のあの日まで、彼には精神的に弱い部分なんて見えなかった。彼は常に強くあろうとしていたし、周囲に気を配る事の出来る人間だった。
だから、あの日何があったのか、何が彼をこうしてしまったのか、それが全くわからない。わからないから、彼を元に戻す事が出来ない。
俺が彼の元から離れていた事がその理由なのかと、当然それは考えた。けれど、正直それは信じ難い事だった。
俺たちは皆、彼が自分の足だけで立っていられる人間だと思っていた。誰がいようといまいと、それによって彼が変わる事があるなんて、思いもしなかったのだ。
だが、状況はそれが俺たちの思い込みだと示していて、何がいけなかったのだろうかと後悔を呼んだ。
そして、俺たちがまだ甘かったのは、彼がすぐに戻るだろうと思っていた事だ。
彼は10年経っても変わらない。あの頃のままだ。それが、俺の行動のせいだと言えない事もないとは思う。
けれど、俺に何が出来ると言うんだろう。
俺は、彼と二人きりでこうして旅をしている事に、どこかで幸せを感じている。
彼は俺を俺だと認識していないが、俺を同行者として認めてくれている。
宿を決め、彼を食堂へ連れて行き、彼の為に料理を選び、ベッドに連れて行き、お休みと言って眠る。
時々は彼が自分の食べたい物や飲みたい物を主張する事もあったし、同じベッドで眠る事もあったけれど、概ねいつも同じ事の繰り返しだ。
彼は世界をはっきりと認識してはいないから、ある意味で、彼が認めているのは俺だけだった。
俺は、それが嬉しかった。
ずっと、それを願っていたのだ。いつか、彼と二人で船を降りて、どこかで静かに暮らす事を。
今はその殆どが叶っている。だから、本当は船には戻りたくない気持ちもある。
彼の夢も自分の夢も全部放り投げて、それでもいいじゃないかと思ってしまった。
これは確かに、俺が願った通りの未来じゃない。何より彼は俺を認識していないから、肝心の部分で俺は満たされない。
けれど、彼が俺を認識してしまえば、この時間は終わりだ。彼は絶対に船に戻ると言う。
だから、問いつめたくない。彼に俺の名前を呼ばせたい。けれど、このままでいたい。
俺は結局、10年間ずっとそれを繰り返し考え続けている。
同じ事しか口にしない彼と同じように、俺も同じ事を繰り返している。
「お前は、どっちがいいのかな。」
ぎゅうと眉間に寄ったしわを指でこすってやれば、彼は少し表情を和らげて深い寝息を立てるようになる。
毎朝、彼が目を覚ます時は息が詰まる。
目を開けた彼が、俺をきちんと認識して、その名前を呼ぶのではないかと期待し、恐れているから。
「俺の事だって、お前の事だって、全部お前が握ってるんだ。」
あと何時間か後、この閉じたまぶたが開いて、そこにある飴色の目が、俺を見てどんな表情を浮かべるのか、俺はまた息を詰めて見守るのだろう。
7万HITリクの1つ目。らむねさまより、『ゾロが超迷子になって サンジが何年も何十年も 探し続けてるお話』
基本的に、リクエストはストレートな内容にしない。という自分ルールを作っているので、なんとかならんものか…と、こんな感じになりました。
サンジ、探してないじゃん…という突っ込みはなしの方向でお願いします!
リクエストありがとうございました。
(2009.7.19)