それは、思いもよらない事で、咄嗟に何を言えばいいのかすらわからなくなる言葉だった。
照れたように笑いながら差し出された物を受取って、果たしてこれはどんな意味を持たされたものかと、手の中のそれを眺める。
「この先に、俺がいるから。会いに来いよ。」
なんだ、それは。
どこかで手に入れて、それに自分の名前を彫り込んで。そうまでしながら、自分を突き放す言葉を照れた様子で言う。真意がどこにあるのかがまるでわからない。
何を言っていいのかもわからず、そのまま背を向けて船室へ戻った。
何か言葉を欲しがっているのはわかったけれど、どう答えるのが一番自分の気持ちを表すのかがわからなかった。
サンジが船を降りるかも知れないとゾロが思い始めたのは、二年程前の事だ。
オールブルーと呼んで、サンジが探し続けた海に辿り着いた時、サンジが船を降りるのではないかと誰もが思った。けれど、サンジはさして未練を見せることもなく、船に残った。不思議には思ったが、この船に乗っていることに愛着のようなものがあるのだろうと結論付けた。
それはゾロとても同じ事で、夢の海の傍で暮らすことよりも、自分の傍にいてくれるのだと、安堵のようなものを感じたものだ。
その頃には、二人は所謂恋人のような関係で、オールブルーに辿り着いた時、ゾロはサンジと共にここへ残るか、離れて旅を続けるのかを考えたこともあった。
その時のゾロから見て、サンジがそこに残らないという選択肢は有り得ない事だったからでもあるが、自分がミホークを倒して大剣豪と呼ばれるようになっていた事で、選択肢に余裕があったという部分もあった。その地位を捨てることを考えた事はなかったが、どこにいても戦いたい者は追って来るのだという事はわかっていたから、船に乗ってグランドラインを旅していなくてはならない理由もないと思うこともできたのもある。それよりも、サンジと離れるのかどうか、ということがゾロにとっては重要な選択条件であって、船員の増えつつあった海賊団の事や、自分を目指す見たこともない剣士のことは、二の次に回しても構わないと思う事でもあった。だからこそ、夢の海を選ばなかったサンジに、ゾロが感じた驚きは小さなものではなく、喜びは大きかった。振り返っても、何やらよくわからない程の感情の揺れがあったと思う。
その後、船がオールブルーを離れて最初の数年は、サンジの様子に何の変わりもなかった。海賊王目当てに敵も増えたが、仲間入りを望む者も増えた。そんな中、当然のように船上の料理人も増え始めた頃が、ゾロがサンジの変化に気付いた時だった。
誰にも譲らなかった献立の決定や買出しを、新入りの中でも腕の立つ者に任せてみたり、時には自分がキッチンに立たない日を作ってみたり、何れ自分がいなくなることを匂わせてみたりと、船の中でそれに気付かぬ者もいなくなった頃になってやっと、サンジはルフィに船を降りるつもりでいると言ったらしい。
結局、サンジがそれを告げたのはルフィ一人で、ゾロもナミもウソップも、降りるのだろうと気付いてはいたが、何も言われないままだった。だから、彼を送り出すための何をすることもしないままであったのは、何れ自分達にも言ってくれるだろうと期待したせいだ。けれどそれが叶ったのは、サンジが船を降りる日の朝、海賊団の結成から十一年目の事だった。ゾロが大剣豪と呼ばれるようになってから七年、オールブルーを見つけてから五年目の事だった。サンジにしても、随分迷ったのであろう事は、その時間の長さで想像がつくが、もう少し早く知らせてくれてもいいと誰もが思い、特に料理人組の驚きは相当なもので、動揺して騒ぎまわる姿を見ながら、あれで信頼されていたのだと思ったものだ。。
急な報告ではあったが、それでも皆が既に用意していた様々な贈り物を見て、サンジはばれてたのかと、恥ずかしげに笑っていた。
自分の望みを容易く口にすることもせず、人のために自分の望みも捨てようとする人間だとは、古いなじみの人間にはわかっていることで、そんなこともわかっていなかったのなら、お前が馬鹿なのだと言いながら、どうせこの男には何を言ったところで、言葉以上の意味など伝わらないのだろうとすら思った。
本当は、皆でサンジの門出を盛大に祝いたかったし、力になれることがあればいくらでもそれを手伝う気もあるのに、それを迷惑をかけるとしか思えない男なのだ。だからこそ、傍にいられれば、自分から何だってしてやれると思っていた。
自分だけは、着いて行けるものと、何の保証もなく信じていたのだ。
一人、船室のベッドに転がって、ゾロは手の中のエターナルポースを眺めた。
祝いの品の一つもやらなかったのは、自分は共に行く気でいたからだ。船の誰もが、そう思っていたろうと思う。けれど、望まれない事を押し付ける気にはなれなかった。
夜遅くに船を降りようとするサンジの元へ行ったのは、当然、共に船を降りるためだ。見送りをして言葉を交わすためじゃなかった。共に来いと言われるものと思っていたが、それは裏切られた。
けれど別に、それは裏切りでも何でもない事だ。
自分達は先の事を話し合うことなどなかったし、サンジがオールブルーで船を降りなかったからといって、その先ずっと自分の傍にいると言ったわけでもない。
元々、何の約束もなく、ただ、日々好意を示されて、それを受け入れて、なんとなしに幸せな時間を過ごしていたから、そういう事だと思い込んでいただけのことで、自分達は伴侶でもなく、先を誓ったわけでもなく、その好意がどの程度のことであるかさえも、はっきりとは示されたわけでもないのだ。ゾロにとっては、多分初めてはっきりと相手に好意を自覚した相手ではあるけれど、サンジにとっては自分がどれ程の存在かなど、わかるはずもなく、最悪、手近なところでの間に合わせである可能性だってないわけではないのだと、後ろ向きな事すら考えてしまうような状況だ。
あの日、サンジが船に残ったことを喜んだ自分は、何だったのだろうと思う。一人で浮かれていただけのことで、サンジは結局、自分の夢が最も重要であって、船の事が心配で、後を任せられる人間を見つけられるまでは、仕方なくここにいただけのことだったという事なのだ。確かにあの時サンジが船を降りていたら、食事事情は大きく変わっていただろうし、大丈夫だと言って送り出せたとしても、何より日々の違いを感じずにはいられない事である。事ある毎に不在を感じて、誰もが暫くは別れた仲間のことを思い出さずにはいられないであろうし、後を任される料理人は大変な思いをした事だろう。だからこそ、その気遣いは海賊団にとって有難い事だったはずだ。それを、この先もずっと共にいられるものと勘違いをして、安心していたのだから、自分も大概馬鹿だと思う。
あの男も自分の夢が最も大切であることに変わりなく、それは自分が望んだ姿であったけれど、こういう形でそれを示されるのは、やはり自分には衝撃が大きい。
会いに来いよ。
その言葉には、その先が感じられない。
何年か後になって、サンジに会いに行ったとして、挨拶をして、茶でも飲んで話をして、それではまた、と言って別れる程度の、二人の間に何の未来も見えない言葉だ。
会いに行ったとして、サンジの傍に自分がいられる可能性など欠片も感じられない。望みなど見出せない。そういう、当たり障りのない、上辺だけのそっけない言葉のように感じる。それは結局、今しがた自分がサンジの中から切り捨てられたということではないかという気にもなる、なんとも軽い言葉としか感じられなかった。
オールブルーで店を開くのだと言ったけれど、元海賊の賞金首となれば、それは容易いことではないだろう。金はナミが充分なほど渡しているのを見た。その程度の物は用意されて然るべき、という働きをサンジはしてきたし、金がなければまずそれを用意するところから始めなくてはならず、店を開くのが何時になるかの予測すら立たない。そう考えてのナミの行動であったろう。けれど本当の苦労はそれからの事だ。自分ひとりで切り盛りできる程度の店にしても、彼の故郷であるレストランバラティエ並みの物にするにしても、結局は客が来ることが最大の重要事だ。その為には元海賊という立場は難しい部分もあるだろう。何より海軍から目を付けられ、いらぬ因縁をつけられる可能性がないわけでもない。その苦労の一端でも共に負ってやりたいと思った気持ちは、サンジには必要のない事で、自分は何の役にも立ってやれないのだという事だ。
サンジはオールブルーで海賊であった自分を捨てて、知らない誰かと新しい生活を始めると決めたという事だ。ならば、そこへ海賊の自分が会いに行ったところで、何を言えるというのだろう。いらぬ噂話を持ち込んで、迷惑を掛けないとも限らない。
それに、例えば苦労話など聞かされて、新しい仲間と暮らす様子を感じて、それで幸せそうに笑っていたとしたら、切り捨てられた自分がそこにいるのは酷く惨めな気分になる事ではないだろうか。自分などいなくてもサンジは新しいことを成功させる事が出来て、元々自分がサンジの何かに役立っていると思うことは少ないけれど、それでも、本当に何の手伝いもなくても上手くやりおおせることのできた姿を見たとしたら、自分は再度会いに行こうと思うだろうか。
大体、エターナルポース一つで自分が正しくそこへ辿り着ける保障などどこにもなく、人を散々迷子呼ばわりし続けた人間のする事とは思えない。航海術も持たず、海の上を歩いていけるわけもなく、矢印一つで目的地へ着けるわけもない。この船に乗っていれば、優秀な航海士がいる。行って欲しいと頼めばルフィは頷いてくれるだろう。だけれど、自分は皆で会いに行く中の一人になりたいわけでもないのだ。それでは落ち着いて話をする事だってできるとは思えない。本当に、会いに行くだけの事だ。
ならばこれは結局、自分には来て欲しくないということなのだろうかと考えて、小さく溜息が漏れた。
エターナルポースに自分の名前を彫り込みながら、本心は会いたくないなんてわけがないのは、わかっている。
あれは馬鹿だから、努力して手に入れた大剣豪の地位を捨てさせるようなことはしたくないとか、そんな事を考えて、気を回した気でいるだけのことなのだ。それくらいのことはわかる。
けれど、どこにいても戦うことは出来るし、いつまでもこの地位にいられるとも限らないだろうとも、ゾロは思っていた。だから、サンジと共に行ったとしても、自分のこれまでを捨てることにはならないと思っていた。
それでもサンジは、そうは思わなかったのだろう。そういう人間だというのはわかっている。けれど、それでも自分をそばに置いておきたいと、言って欲しかったのだ。少しでもそんなそぶりを見せたら、殴ってでも着いて行く気でいたのに、あんな様子を見せられては、どうしていいのかわからなくなる。
それに、落ち着いて考えれば、只でさえ苦労の続くであろう時に、大剣豪がいるなんて話で騒ぎが増えては、苦労も倍化するだろう。自分が余計な迷惑を掛ける事は、ゾロとしても避けたいことではある。
サンジのことを思うなら、その考えに沿ってやる事も必要なのかもしれない。けれど、離れていれば気持ちも変わることだろう。サンジはあれで人が傍にいなくては耐えられない人間だ。いつか会いに行ったとして、そこに他の誰かが沿っていないとも限らない。
やはり、自分はもう必要ないのかと、ゾロは溜息をついて目を閉じた。
次の朝、起きてきたゾロを見て、ナミは驚いて口を開けたまま言葉を失い、ゾロはそんなナミに苦笑を浮かべてみせた。
「行かなかったの?」
「いつか会いに来いってさ。」
サンジの事だから、レストランが軌道に乗るまでは来てほしくないと思っていることだろう。何もかもが上手く運んで、自慢できるまでの状況になってやっと、笑って迎えることが出来るに違いない。それまでは、会わずにいてやるのが心遣いというものだ。
「何よそれ。」
ナミは少し怒ったように言い、ゾロが問うように見れば、昔と変わらぬ様子で頬を膨らまして文句を言う。
「ゾロが一緒に行くと思って、二人分用意したのに。これじゃぁ渡しすぎじゃない。」
海賊王の船だといっても、金がどこからか入ってくるわけでもない。何時だって船は食費の捻出に必死なのだ。結成当初から船の財政を担うナミは、何年経っても金には細かい。
「あんただって、絶対着いて行くと思ったのに。」
ナミはそれにも驚いているようで、不思議そうにゾロの顔を覗き込む。
「意外に、落ち込んでないの?」
「よくわかんねぇってとこだな。」
自分が要らぬと言われた事は、確かに驚いたし辛いような気もするが、サンジが何事かを一人でやり遂げようと思っているのならば、それは応援してやりたいとも思う。自分の意見を押し付けてまで、サンジの考えを曲げたいとは思わないし、曲げられてしまうようなサンジは自分の望む姿ではない。
そうだというのならば、やはり自分がこうして船に残るのは間違いではないと思う。けれど、キッチンに行ってもあの金髪が見当たらないというのは、きっと暫くは尾を引いて自分を苦しめるのではないか、という気もしている。
「着いて行って、何をしてやれるわけでもねぇしな。」
剣を振るしか能がないから、本当のところ、役に立てる事なんてないのはわかっている。正直、サンジが望むことを全てわかって読み取ってやれる自信もなく、精神的な支えにはなれるだろうなんて自惚れもできないところもある。そういう部分が、昨夜何も言えずに背を向けてしまった理由でもあるのだ。
「客の来ないレストランでも、あんたに食べさせてあげるだけでもサンジ君は楽しいんじゃない?」
あれは、人に食べさせることが何より好きだから、自分の料理を食べてくれる人間くらい、連れて行けばよかったのに。とナミは笑い、ゾロはそれに苦笑を浮かべる。
「そうか…」
でもなんでだか、そんな事は思い浮かばなくて、そして背中を向けてしまった以上、今更追いかける気にはならない。
「精々苦労して、あんたの手を握っていかなかったのを、後悔したらいいのよ。」
あんたも、慣れるまでの暫くは毎日、着いて行かなかったことを後悔するんだからね。とナミは笑い、ゾロの背中をドンと叩いて、キッチンへ足を向ける。
「でも、何より心配なのは、我らが船長様よ。新人さんだけで、あの胃袋を満足させられればいいけどね。」
笑うナミの後を着いて歩きながら、ゾロはつられるように笑った。
「とりあえず、つまみ食いの見張りだけは、これまで以上に気を付けねぇとな。」
「そうよ。サンジ君は大丈夫だと思ったかもしれないけど、まだまだ頼りない子達なんだから。」
置いていかれたのは誰もが同じことなのだ。だけれど、誰もが彼を喜んで見送ったのであって、その中で、たった一人にだけ、会いに来いと告げた特別を、ゾロは気付いているのかと、ナミは背後の様子をちらりと見やって、苦笑を浮かべた。
2006年発行のオフライン再録です。老人企画のお話に続く内容になります。
(2006.8.27発行)(2014.1.23再録)