手を伸ばす。
欲しい物を掴む為に。
助けを求める為に。
振り返ったら、何も見ていないような、何も考えていないような、人形のような顔があった。
驚いて、手を伸ばしたら、視線が動くと同時に、眉間に皺が寄って、俺の手は止まる。
今まで、色んな顔を見てきたと思っていたから、もう、見た事のない顔なんてないんじゃないかなんて思っていたのに、それは、初めて見る顔だった。
いつもいつも、前だけ見て、自分の向かう先に真直ぐに進む彼が、そんな顔をする事があるなんて、考えた事もなかった。
自分が背を向けてから振り向くまでの数秒の間に、一体何を考えたんだろうかと、それが気になった。
「……どうかした?」
そう問い掛ければ、彼は暫く俺をじっと見て、ぽつりと答えた。
「傷ならある。」
それが、何に対する言葉なのかを考えて、暫く前にキッチンで話していた事への返答なのだと気付いた。
綺麗な背中の話だ。本当に、傷一つなく綺麗な背中。
「あるの?」
「殆ど消えたけど、脇腹刺された。」
答える彼の表情は、普段とあまり変わらない、平静なもので、少し違和感を感じた。
「傷があったっていいんだ。俺が逃げたんじゃないなら。」
俺を見ているけれど、彼の顔は先程の人形の顔に近かった。
知らない生き物がそこにいて、心にもない事を話しているのではないかという気すらした。
「だから、お前が傷を付けたとしたって、別にそんなの構わないんだ。」
背中に庇った人間に、後ろから刺されたらどうするの?
そんな意地の悪い質問をしたのは、前しか見ていないその姿が憎らしくもあると思ったから。
「背中の傷は、剣士の恥なんだろ?」
「逃げなけりゃ、背中に傷ができないから恥なんだ。そうじゃないなら、別に恥にはならねぇ。」
己の未熟さを示すものであって、恥じなくていい事だと言うわけでもないけれど、でもそれはまた別の事だ。
背中に傷を負う事も、背中に傷を負わせる事も、どちらも恥ずべき愚行だと教えられた。
背中から斬り掛かるのは剣士の恥だ。卑怯以外の何ものでもない。
戦いに於いて、背を向けて逃げ出すのは剣士で有る無しに関わらず、何よりの恥だ。
剣士にとって、背中に傷を持つとは、剣の勝負に於いて、負けを怖れて背を向けて逃げた事の証。
故に、何よりの恥と思えという事であり、何事からも逃げるなという教えだ。
「俺は、お前が俺の何に腹を立てて、俺にそれを聞くのかはわからないが、例えばお前が怒り狂って俺の背中を切りつけたって、俺はお前と戦ったりはしない。」
人形のような顔でそう言いながら、でもその目は、しっかりと俺を見据えていて、何より強い意志を示しているから、俺は息を飲んで言葉を必死に探す。
「お前は俺の何に不安になるんだ。」
俺はお前にどんな不安を与えるんだ。
真直ぐ見据えられるから、不安になるのだと答えたら、きっと困った顔をするだろう。だけどそういう事じゃないかという気にもなる。
「………手を伸ばしたら、迷わず握ってくれそうだから。」
俺だって、わかっているんだ。お前がどんなに俺の事を考えていてくれるのかも。
俺がお前の事を考えているのと同じくらいに、俺の事を考えていてくれる事も。
でも、俺はそれがなくなるかもしれない事を恐れる。
伸ばした手を迷わず握ってくれるのがわかるから、その手が離れる時を恐れる。
「離れたら、手を伸ばして握ればいい。」
俺の手はその為にある。
後ろを振り返って、ため息をつく事があったとしても、前に向き直って歩き出す力のある彼は、何の迷いもなくそう言うのだ。
「背中引っ掻いて傷付けてもいい。お前なら、許してやる。」
人形は笑いもせずにそう言って、俺の手が伸びて彼の背中を抱き締めるまで、じっと俺の目を見つめていた。
剣士の恥のお話。ずっと書きたかった…実は。
色んな人が書いてると思うけど、ゾロを語るなら、語りたい部分です。
サンジが何時になく弱気になってしまいましたが、サンジってこういう性格かなぁ…と思ってたりします。
ゾロも、喪失を恐れる事はあると思うけれど、痛いのは恐れないと思う。(2004.10.19)