こいつらも本当は、俺の事を百姓あがりの偽物だと笑っているんじゃなかろうか。
そう思う事が時々ある。そうして、自分が疲れているんだと気付く。
いつもは、そんな事を考える暇などない。けれど、疲れて頭が働かなくなってくると、ふいに浮かんで来るのだ。
だからこれは、俺の心の奥底に消える事なく存在している事。
己が武士の生まれではない事。どんなに必死になろうと、武士の家に生まれた武士にはなれぬという事。
多分一生消えない引け目だ。
「副長?」
「ああ、戻っていい。」
下番の報告に来た斎藤は、反応がない事に戸惑った顔を見せていたが、そう返せば安堵したように部屋を出ていった。
あれが、一番武士に近い武士だろうと思う。元々あまり者を言わない人間だから、武士の顔をして隊士に切腹など言い渡している自分を、どう見ているものかと、時々疑問に思う。
芹沢や新見などは、明らかにこちらを百姓扱いしていた。士道などという言葉を出せば、笑い飛ばすような勢いだった。伊東もそうだ。どうせ武士の何たるかもわかるまいと思っているのがよく見えた。
けれど、それがわかりやすくていい。
相手がこちらを百姓上がりの偽物だと思っているなら、自分の形を取り繕う必要もない。侮られている事に腹は立つが、対処はしやすい。
斎藤のような、こちらに従う顔をして、取り立てて反論もしない人間はわかりにくい。だからこそ、ふとした時に気になるのは、そういう側の人間だった。
俺は、武士として育てられた武士のものの考え方など、一生理解はできないだろう。
それは、最近なんとか自分で認められるようになった。
武士には武士の、百姓には百姓の、商人には商人の育てられ方があるという事。
百姓の家に生まれながら、田を耕した事のない俺は、百姓の苦労の一部しかわかってはいまい。商人の損得勘定も少々は学んだが、大店を取り仕切る人間の強かさなどとは程遠いに違いない。
要するに、俺の限界などすぐその辺りに建っていて、必死に繕っていなければ、こんなところで偉そうに人の命を奪ってもいられぬ程度の人間だという事だ。
それでも、武士に憧れて生きてきた。己の為に生きる事は出来そうにないから、何かの為に生きるのに憧れたのだ。
御家人株を買って武士になるように、武士の身分が欲しかったわけではない。形だけ武士になったところで意味がないのもわかっていた。
多摩で育った人間の言う武士といえば、徳川直参。徳川家に仕える武士だ。そして、百姓が憧れる武士など、講談やら読本で見るような、命を掛けて主に仕える古武士に外ならない。
だから、浪士募集に乗ったのだ。徳川様の上洛のお役に立てる。武士の身分も夢ではない。
本当のところ、試衛館で交わされる国論など、よくはわかっていなかった。攘夷だと言うけれど、異人が自分に何かをしたわけでもなく、心底危機感を感じた事などなかった。
けれども、それについて徳川様が動かれるというのなら、その役立てるのならば。結局のところその程度の認識しかなく、難しい話は近藤や山南に任せておけばいいもと思っていた。
俺は、学んだ剣の腕を活かして、徳川様のお役に立って、俺の思うような武士になれたらばと思っていただけ。京の情勢など伝わってきてはいなかったから、それは酷く漠然とした思いではあったけれど。
京で新選組を作り、世の流れが勤王討幕に傾きかければ、新選組の中にも勤王を唱える者が増えた。
江戸より共に上った山南も、藤堂が連れてきた伊東も、京という土地、今の時代を考えれば、そんな考えを持ってもそれは当然の事かもしれない。幕府の弱腰も見えてきたところもあり、世の中は増々討幕へと進むのだろう。
けれど、新選組を単なる浪人集団から、朝廷からの礼まで受け取れるようにしてくれたのは、今や幕府の矢面に立たされている会津候だ。
立ち上げと存続に、元より金のない会津から諸々を吸い上げておいて、ここで掌を返して勤王討幕に走るなど、武士のする事かと思う。
勤王の心がけなど当たり前の事と思う。天朝様は貴い。けれど、何より幕府を敬う気持ちは捨てられぬ。
誠だ、義だと言うのなら、初志貫徹、俺は徳川様の為にしか動けはしない。
ここで会津を捨て、幕府を捨てれば、新選組は単なる変節の浪人集団に過ぎない。ただでさえ脱藩浪人だの町人だので構成され、百姓が取り仕切る集団なのだ。その程度の義も貫けずに何が為せると言い、誰が認めると言うのか。
何故、それがわからぬのかと思う。
討幕側に付こうと画策する伊東を見ていると、いつもそう思う。今更、新選組という名を下げて、局長副長だけを挿げ替える程度の事で、長州や薩摩が何を信じると思っているのかと、いっそ笑いたくもなる。
それが、武士のものの考え方なのだというのなら、なんと目出度い事かと思う。
隊士は着いては行かぬなどとは思わない。誰が頭に据えられようと、少々の目減りはあるかもしれぬが、大半は言われるままに上に着いていくだろう。そういう組織であるように作ったのは俺だ。
けれども、結局のところ、浪人集団の新選組など、使い走りにされるのが精々だろう。新選組の名が討幕側に恨みを買っているのに、浪人集団である事も要因の多くを占めているに違いないのだ。
世情もわからぬ百姓、町人風情が、武士の高尚なる行動を妨げるとは。それが恨み言の大半に違いない。いくら武士の身分を手に入れようと、厳然たる武士から見れば、新選組などその程度だ。
それとも、そう考える事すら、百姓の生まれである事にこだわらずにいられない己の僻だろうか。
思わず笑いが込み上げて、なんと心の狭い人間かとおかしくなった。
もし、新選組の実権を握ったのが芹沢であったなら、新選組も武士のみで構成されているかもしれぬ。そして何より、勤王を掲げているのではないだろうか。
案外、そんな集団であった方が、京では受け入れられるかもしれない。芹沢もあの強引ささえ治まれば、悪い人間ではなかろうし、あの堂々たる態度は、俺が身に付けられるものではない。
あれが武士かと、否定と肯定であの男を見てきた。あの男が酒に溺れ、力に溺れる人間でなかったら、案外俺はああいう人間に憧れて慕ったかもしれない。
もし、俺ではなく山南が隊を仕切ったとしたら、隊規などできず、切腹など言い渡される隊士もおらず、殺伐とした空気も持たぬ新選組は、町人衆に受け入れられただろうか。少なくとも、西本願寺に屯所を移す事などはなかったろうし、壬生寺から調練で苦情を述べられる事もなかったろう。
俺などおらぬ方が、良かったのかもしれない。
こんな時の思考はいつもそこへ決着する。だからと言って、自刃する気もなければ、隊を脱する気もないが、弱気になった人間などそんなものだ。
「土方さん。」
聞き慣れた声が障子の外から掛かり、返事を待たずにそれを開けて沖田が姿を見せる。
「やっぱり。」
こちらの顔を見て、くすりと笑って傍へやって来る沖田は、手に茶の用意を持っていた。
「斎藤が、様子がおかしかったと言うから。」
また、弱気な事でも考えていたのでしょう?と笑って、盆を下ろす。
「美味しいお茶菓子が手に入ったんですよ。」
そう言って手招く沖田に従い、文机の前を離れて沖田の向かいへ移動する。
「歳さんは、元々、そういう仕事に向いている人じゃないんですから。」
文机の上には様々な書面が散っていて、まるで手に着いていなかったのが明らかだった。
「向いていなくったって」
「たまには、外に喧嘩でもしに行きましょうよ。」
反論を途中で遮って、沖田はそんな事を言った。
沖田は、俺を武士だとは思っていないが、百姓だと馬鹿にしてもいない。初めて会った時から、俺は武士に憧れ喧嘩に耽る穀潰しだったから、今でもそれと変わりないように見ている。
間違いなく、この目が一番心地よい。それを知っているから、沖田はこうしてやってくるのだ。
「刀も置いてさ、江戸にいた頃みたいに。」
「それも、いいな…」
軽くそんな事を言いはするが、総司は刀を使わない喧嘩などした事はないし、病を考えればそんな事で無茶はできない。
歳三にしても既に顔は知れているし、丸腰で表を歩けば、刀でもって斬り掛かられても仕方のない立場だ。到底、そんな事はできるはずもない。
けれど、そうして自分を見ている目があるのに気付けば、それで沈んだ気分は浮き上がる。
「あんまり、根を詰めちゃ駄目ですよ。」
何を話すでもなく、ゆっくりと茶を飲んで菓子を食べると、沖田はそれだけ言い置いて腰を上げる。
「ああ見えてね、斎藤もあなたの事、気にしてるから。」
お前が言うなら、そうかもしれない。そう思って頷けば、にこりと笑って沖田は部屋を出ていった。
もう少しだけ、ゆっくりしようと庭を眺めながら、落ち着いた心で歳三は思う。
誰にどんな目で見られて、どう言われようとも、ここと決めたからには逃げ出すわけにもいかない。
生っ粋の武士の考える事など一生わからぬとしても、それを嘆いても意味のない事。
俺は、百姓に生まれて、浪人の群れの中から武士になった人間として、己の目指す武士の姿を求めるしかないのだ。
たった一つ。徳川家を守る為、命のある限り戦う事。
それだけ揺らがずあればいい。
私の思う土方は、相当身分制度に対するこだわりがあります。
それでも、武士の身分に憧れただけの人ではないと思っています。
武士として生きる事を望んだ人。何かを守る為に戦う事を選んだ人。
私の思う土方は、そんな人です。
だって、あの人の魂は、ずーっと、徳川様を守っているのですから。(2007.7.7)