「私達は、会津にこそ、恩があるはずです。」
そう言って睨み付けるようにしてこちらを見るその顔は、これまでに土方が見たこの男のどの顔よりも、人らしい感情を乗せたものだった。
「徳川に、何の恩があると言うのです。」
けれど、その考え方自体が違っているのだ。そんなものでは土方の考えを変える事は出来ない。
「んなもの、ねぇよ。」
徳川に恩なぞない。男の言う通り、恩があるのは会津だ。会津がなければ、新選組なぞ出来なかった。単なる浮浪の人間の集まりでしかなく、どれほど残っていられたかもわからない。
まして、朝廷から褒美を授かるなど、考えられようもない。
「では何故」
新選組を武士として取り立てたのは幕府だ。それは、土方にとって夢に見た身分だった。
だが、それは別段、恩として感じるものではない。
徳川は武力が欲しかった。そしてそこに、武力を売りにする新選組がいた。それだけの事だ。
何の力もなく、浮浪の集団である彼等を徳川が武士に取り立てたというのなら、それは恩として感じる事かもしれないが、そんなものではなかった。徳川は藁に縋っただけの事だ。
「俺は、恩があるから徳川についてるわけじゃねぇんだ。」
徳川の為に働きたいから京に行ったのであり、徳川の為に働きたいから、会津の手を借りたのだ。
恩だ義理だで動く事など、考えた事などない。
「俺には、徳川以外はねぇんだ。」
武士が産まれた土地の主の為に働く事が当然だと思うように、土方も産まれた土地の主の為に働く事を願っただけの事だ。
徳川幕府ではない。徳川将軍家だ。幕軍の目指す道は、土方にとっては申し分ないものだった。
逃げた徳川慶喜の事は構わない。新政府軍と取り引きした幕府の考えもどうでもよい。
このまま徳川家が領地の全てを失い消え去る事は堪え難い。例え最果ての地であろうと、そこに徳川の地を作れるのであれば、その為に働く事は願ってもない事だと思えた。
それが、到底、実現されるとは思えないような構想であれども。
「これまで、散々会津を使っておいて、この時になって見捨てるのか!」
見捨てるも何もない。これまでにも、新選組が会津の為に戦った事などないではないか。
新選組は会津から搾り取るだけ搾り取った。立つ場を失い会津へ来たが、会津と共に倒れる為に来たわけではない。会津とて、そういう者たちだとわかっているはずだ。
「俺は、お前がそこまで会津に肩入れする気がわからねぇよ。」
この男は、意外にも恩や義理で行動する人間だったらしい。いきり立つその様子に、驚かされる。
自分は見る目がない。それを痛烈に突き付けられた気がして、自分に呆れる。
そんな男に、自分は随分と人らしからぬ仕事を押し付けられたものだ。そしてこの男も、よくも今までそれを悟らせもせずに、平気な顔をしてきたものだ。
「今は、会津には一人でも多くの兵が必要な時だ。それがわからないあんたではないだろう。」
「俺は、会津の為に隊士を殺す気はない。」
諦めない男だと思う。土方にここまで意見する人間は、この男以外にはもういないだろう。だからこそ、できるならば連れていきたいと思うが、ここまで会津に肩入れする人間を連れて行ったところで、何の役にも立たない事も想像がつく。
「会津が勝てば」
「勝てると本気で思っているのか。」
言葉を継ぐ事を許さず、そう切って捨てれば、言葉をなくして黙り込む。
「お前が、会津の為に戦いたいと言うなら、俺はそれを止めない。他にも同意する隊士がいるならば、それも許す。」
会津には恩がある。恩に報いる為に命を掛けるのが武士だと言うなら、そうして生きる者もそれで良いだろう。最後の働き場所は、自分で決める権利はあってもいい。
それを許さない程の力は、今の土方にはない。誰かの命を自分の意志で使うような気力は、使い果たしてしまった。それでも、自分の命は自分が使う。その力ならば土方にはある。
「だが、俺はここには残らない。」
新選組をここに残す気もない。どんなに恩や情に訴えたとしても、それが土方の気を動かす事はない。
「お前が何を言っても、俺を動かす事はできねぇ。」
論点が違い過ぎるのだ。どんなに訴えられても、その訴えは土方のどこにも響かない。向き合って話す時間すら無駄だ。この男は、それに気付いていないのだろうか。
「お前も、俺が何を言おうと動かねぇだろう。だったら、お前が今する事はなんだ。」
突き付ければ、はっと気付いたように息を飲む。
いつだってそうだった。新選組には完全な団結などない。必ず派閥があり、それが争い、別れてきた。今もそれと同じ事だ。
主義主張の違うものが、寄り添って立っていなければいけないなどと言った事はない。主張が違うものは別れればいい。そこで、相手を叩き潰すか、双方合意で別れるか、それはその時々だ。
土方は、好きに選ぶ権利を認めた。あとは、男が決める事だ。
ここで土方を討って新選組を握るか、自分に着いて来る者だけをを連れて別れるか。
「あんたをここで討って、着いて来る者などいない。」
だから、残ってくれと頼んだのだ。土方を討って他が従うのならば、土方を討った。そうしてもいいと思ったのだ。会津を捨てる事は出来ないと思えばこそ。
「近く移動する。」
誰の為に、何の為に命を掛けるかは、誰にも強制など出来ないという事を、土方はやっと気付きつつあった。散々、人の命を奪っておいてやっとだ。
一生気付かずに終ったかもしれない事を思えば、気付いただけましだったろうかと思う。
「あとは好きにしろとは言ってやる。」
それでも、自分の命を自分のものにしてやって尚、大半は自分に着いて来る。その確信はある。
だが、残りたいと思う者を無理に連れて行こうとは思わなかった。
「会津様には、これまでの御助力、御礼申し上げると、伝えてくれ。」
それだけは、土方にとっても心残りだ。
恩に報いる為に戦う道を選ぶ事は出来ないが、恩を感じないわけではない。
誰も彼もから、好き勝手にいいように使われて、一時は誰よりも天皇に近しい人としてあったにも関わらず、今はそれを密かに討った者たちによって朝敵とされてしまった人。
本当に役に立ったかもわからぬ新選組へも一方ならぬ心配りをし、近藤の墓を建ててくれたその人は、土方にさえも褒美を下された。
乱世を生き抜くには、お優しすぎるのだと思っていた。
京都守護職の役を離れた折、そのまま離れてしまえばこのような事にはならなかったろうに、それを元へ戻してしまった原因の一つには新選組もいる。それでも、恨み言の一つも洩らされはしない。
自分も、恩に報いる為に命を賭けられる人間であったなら、彼の人を思えば、そう考えない事はない。
「……それで、何故、あんたは!」
恩など知らぬ顔をしていれば、まだ諦めもつくというのに、その顔は本当に恩を知るものであるから、斎藤には余計に腹立たしい。
この男には、一事以外に何も持てぬ頑なさがある。故に従うに足ると思ってきたが、意見が別れた時には、僅か程の歩み寄りもないのだと思い知らされる。
よくも、奇跡的にこれまで意見が別れずに来たものだと思う。そして、よりにもよって、ここで別れるのかと思う。
「俺は、徳川武士になりたかったんだよ。」
恩も感じないで命を賭ける馬鹿だ。結局誰の言い分も聞き入れぬ男だ。
それでも、恨みきれぬ男なのだ。
「あんたには、呆れる。」
最後まで従って行くものかと思っていたが、自分が土方に心酔して着いて来たわけではなかったのだと、ここに来て気付く。
ただ、自分の行く先が、土方のものと重なっていただけの事だったのだ。違う道に別れた以上、離れて行く事に未練はなかった。
「これまでだ。」
何の感慨がないわけではない。この男がこの先どうなるのかも、自分がどうなるかも、まるで想像がつかないが、戦っていく事しかできない人生だろうと思う。
互いに死ぬ時、この世に何の未練もないといい。
離れていく背中を見ながら、それだけは願った。
斎藤さんは、お子さんに土方との別れを、「喧嘩のような勢いだった」ってな風に説明したとかなんとか。
多分、相手を説得しようと必死だったのは、斎藤さんの方だったんじゃないかと思ったのです。彼が、このあとずっと、会津の人々の中で生きていくから。
会津の為に働きたくなったんだと思う。
そう思う程、新選組は会津に恩がある。だけど、土方はその恩を置いて、徳川の為に戦いに行ってしまう。彼の一途さには、本当に驚きます。(2007.9.20)