土方は『国を憂えて』などという言い分を信じてはいない。
勿論、将軍や幕閣、天皇ともなれば、そう言って当然ではあるし、憂えてくれなくては困るとは思う。
だが、勤王だ攘夷だと唱えて、そこここで暴れている浪人達の言葉には、何の意味もないと思っている。
いっそ、『現状が気に入らない』と言われた方が、土方には余程説得力を感じられるだろう。
異人の姿を見るのが気に入らぬ。自藩が虐げられているのが気に入らぬ。己の生活がままならぬのが気に入らぬ。もとより徳川が気に入らぬ。そう言われた方が、どんなにわかりやすい事だろう。
「国を憂えてねぇ…」
溜め息混じりに呟けば、火鉢に当たりながら茶を飲んでいた沖田が振り返る。
「なんです? 突然。」
これも、国を憂えている人間ではないな。とその呑気な顔を見て思う。
京に来てから、世情が変わりつつあるのがわかってきた。どうやら徳川は終わりに向かっていて、それもそれほど遠くはないらしいという事も。
それでも、土方は『国を憂える』という感覚がわからない。
土方は徳川の時世に何の不満を感じる事もなく育った。黒船が来たと聞いた時には、流石に驚きはしたが、だからといって、国を憂えるなんて気持ちは浮かばなかった。浮かんだのは、剣の腕が活かせる世になるかもしれないという期待だった。そしてそうなれば、自分の夢が叶うかもしれないという期待。
土方にとってそれは、憂いを示す事ではなかった。だから、それを憂えた人間の言い分がわからない。
大勢を見られぬ小人だと言われるような事かもしれないが、土方はいつだって自分と周りの人間の事で精一杯だ。国だなどという大きなものに目をやれる程の余裕などなかった。
世の中が動いているのだと本当に思ったのは、京に来てからだ。日々暗殺などの騒ぎが起きていると聞き驚いた。
それでもやはり、国が危なくなるという言い分はよくはわからなかった。
大体、国が危なくなるとはどういう事だろう。幕府が駄目になるというのなら、土方も最近わかるようになった。だが、国が危なくなるという意味がわからない。
とりあえず、人斬りの横行する京でも、町人達が食うに困る様子は見えない。江戸はもっと呑気だ。何をもって悪いと言い、どうしたいのかがよくわからない。
このままではこの国がいけなくなる。幕府には任せておけない。異人は殺してしまえ。この国を守れ。
江戸にいた頃からそうだが、土方にはその考え方がさっぱりわからなかった。
「この国は、そんなに危ないかねぇ。」
徳川の世が傾いている。それを事実として認めるとして、国ごと傾くような気配はあるのだろうか。徳川幕府が世の中を治めているという事にはなっているが、実質は各藩の藩主や藩士達がそれぞれの国を治めているのだから、徳川が傾いた、国が傾く。という図式が成り立つものか。それがわからぬのが不勉強というのだろうかと、土方は首を傾げる日々だ。
「大きな声の人たちは、危ないと言ってますけどね。」
俺もこれも、世の中の事などには疎いからな…と土方は思う。
徳川が倒れるとしたら、その代わりに誰かが立つだろう。それを狙っているのが長州らしい。国が駄目になる前に徳川から力を取り上げてしまえということだろう。
だがそれは、国を憂えるという事の現れだろうか。
「自分の明日が心配だってならわかるがよ、国の明日が心配だってなぁ、なんだろうなぁ。」
徳川家の未来が心配だ。というのなら土方も少しはわかる。幕府が倒れたら、将軍様はどうなってしまわれるのかと思う事もある。
だが、『国』というのはあまりに大きすぎる。そんなものを、浪人が心配するものだろうか。
「そうですねぇ。」
互いに剣で身を立てると思って京に来たのではあるが、国の明日のために、なんぞと考えた事は一度もない。大きく言って、将軍様の為、そこまでだ。
「こちとら、明日の我が身すら危ういってのに。」
金はない、身分は定まらない。それで国の明日まで心配している余裕はない。
けれども、近藤も山南も、どうやら国を憂えてはいるようだ。ならば、浪人が国を憂えてもおかしくはないのかもしれないが、それにしても、と思う。
学のある武士はやはり自分達とは考える事も違うのか、とも思うが、国を憂えた人間がやるのが、主義主張の違う人間を斬り殺したり、商人から金を巻き上げるというのも考え難い。と言うより、そうであってほしくない。
土方にしてみれば、武士になれるかもしれぬという期待もあってやってきた京だ。武士とは主君の為に命を賭けるようなものであってほしいと思っているのだ。町人に迷惑を掛けるだけの浪人達など、見たくはないし、認めたくはない。あれはただの破落戸だと思いたいのだ。
「国って言葉が、藩を示さないのも、私にはよくわからないな。」
武士は藩主に仕えるものだろう。産まれた土地の藩に必ず出仕するわけではないが、やはりそれぞれ藩の為に働いているのだろうと思うのだ。それが突然、自藩を越えて国を語る。それが沖田には腑に落ちない。
「この国が、変わろうとしているって事だけは、わかる気がしますけどね。」
武士の血筋ではあっても藩に仕えた事もない沖田にも、藩に仕える武士の気持ちはわからない。脱藩する者の本当に狙っている事など、考えようもない。当然、町で無体を働く浪人の気持ちなど、理解しようもない。
ただわかるのは、ここでは剣の腕次第で、何か自分の現状を変えられるかもしれないという事。
「少なくとも、町で騒いでいる人たちは、私達と大して変わらないと思いますよ。きっと、もっと頭の良い人たちが、難しい事を考えて、何か違うものを見てるんですよ。」
そう言って笑い、沖田は火鉢に寄ってきた土方の為に急須から茶を注ぐ。
「見えてる人間が言うならいいけどよ、その受け売りで適当な事をしてる奴らが増えるんじゃ、危なくって仕方ないだろう。」
差し出された茶を飲みながら、土方は小さく息をつく。
「だからこそ、私達の働き場所があるかもしれないって事なんでしょう?」
半ば勢いで京に残ったところもあるが、その期待がなければ残るわけもなく、沖田の言い分は正しいのだが、如何せん、今はその働き場所をどう得るかが問題なのだ。
「とりあえずは、何とかして幕府に取入らねぇとなぁ…」
「明日の心配だけじゃ、京まで来た甲斐がありませんからね。」
動きだしたばかりの彼等にとっての憂いは、当面のところ、それ一つしかないのだった。
『あちらは、新しい国なんだって?』
自分にだけしか聞こえない声がそう問い掛けて、土方は視線の先の霞んだ陸地を見つめる。
「ここも、だ。」
ここは、新しい別の国にはなれなかった。勿論、土方はそんなものを信じてここへ来たわけではないが、本気で信じていた者もあるだろう。
「新しい国にとって、ここにいる人間達は、それは厄介だろうな。」
『国を憂えているってわけだ。』
楽しそうに笑う声には、なんと返していいかわからなくなるが、確かに、憂いであるには違いない。
『この国は、駄目にならずに済んだのかな。』
「済んだって言うんだろ。」
どうかなど、誰にわかるものでもない。新しい国とやらが、上手く出来たかどうかがわかるのも、何十年も経った後の事だろう。
『攘夷、攘夷と叫んで密貿易。そんな奴らの作る国が、まともに続くとは、私は思わないけど。』
「続けてもらわなくちゃ仕方ねぇだろう。」
既に徳川幕府は政権を返上してしまい、この国は彼等が動かしていかなければ、何一つ動かなくなったのだ。今はまだ、戦を続けていればいいにしても、それが終わった後は、荒れた生活を立て直してもらわねばならない。
『そうだけれど…』
「もう、決まっちまったんだよ。」
思惑は様々あったにせよ、政権を返上した徳川幕府には何の力もなく、ここに集っている者たちも、再度日本の政権を得ようなどという夢のような事は言わない。もしここに上手く国が出来ていたとしても、海のあちら側は彼等によって治められる土地になったのだ。彼等が上手くやってくれなくては、生まれ故郷の人々の暮らしも安心はできないではないか。
「どんな国になるかは知らねぇが、まともに続いてもらわなくちゃならねぇだろうよ。」
俺はあいつらは嫌いだが、嫌いだから失敗しろとは流石には言えない。
戦は、長く続けば続くだけ、人々の生活が苦しくなるのだ。田畑から作物が採れる内に、戦は終わった方が良い。勤めを果たしていればどこかから米がやってくる武士には想像できない事かもしれないが、明日食べる物は今日作りはじめて出来上がるものではないのだ。今の戦の影響は、来年になって表れる。国が大きく変わる、食べる物もない、ではあんまりだ。
『国を憂えるって、なんだろうね。』
数年前に自分の言った言葉を返されて、土方は苦笑を浮かべる。
結局、土方には当時の浪士達の言い分がどれ程的を射ていたのかすらわからないままだ。
「なんだろうなぁ。」
あの頃とは違い、土方はもう、明日の自分の事など憂える事もない。
『結局、私も歳さんも、国なんて見えないままだったね。』
可笑しそうに笑う声につられて笑い、土方は海に背を向けて歩き始める。
「見る気がねぇもの、仕方ねぇや。」
国だなんて大きな事を言わず、人々の暮らしが落ち着いていればいいと言う事ならできる。
武士になりたいと願い、徳川の為に戦うのだと言ってここまで来たが、今気掛かりなのは、故郷の人々が無事で居ようかとか、田畑は荒らされてはいまいかとか、そんな事だ。
この国が変わっていくと言うのなら、その中で、自分の知る者たちが辛い思いをしなければいいと思う。それが精一杯のところ。そんな人間が、国がどうこうと言うなど、笑い話にしかならないと土方は知っている。
けれど、ここに国を作ろうとした人間を支えてやってもいいと思ったのは事実だ。何もしないままで剣を引くわけにいかないと考える者達に、一度なりとも戦う場所を与えるのも、それは必要な事なのかもしれないとも思った。現状を受け入れるのに必要な事は、それぞれに違っているのだ。それに戦いが必要だと言うのなら、自分はそこに着いていってやろうと思っただけだ。
『いつかまた、国を憂えた人が現れるのかな。』
「それで良くなっていくなら、それでいいさ。」
『そうだね。』
私達は、それを見る事はないけれど。と笑う声に、土方は小さく頷く。
できる事ならば、それが遠い日の事であるように、そう願わずにはいられないけれど…
土方は、近藤さんみたいに、攘夷!とか言わない。大きな世の中を見るのに興味がないから。自分と身内で精一杯。お母さんなんだと思います。
お父さんの稼ぎと物価の関係は気になるけれど、世界経済は別に…みたいな。
沖田も多分そうだったと思う。近藤さんの役に立つ事が一番。みたいな近目。
そんな人でも、周りを見て色々と思う事はあったろうなぁ、と思ってこんな作品が出来ました。(2008.1.20)