伴侶の条件



 理香、侘助と話を終えてやっと母の元へ辿り着いた理一は、手招かれた後に取り出された物を見て、口を開いた。
「お前の物でも、侘助の物でもないから、安心しなさいな」
 息子の静止の先手を打った母の言葉に、理一は驚いて母を見返した。
「お前たちが結婚なんて考えてもいないのは、わかってます」
 ふぅ、とため息をついて母は言い、理一はやっぱり母さんは母さんだな、と思う。
 大学を決めた時も、それよりずっと前に将来の夢を語った時も、母は一度だって反対はしなかった。ただ、よく考えて決めるのよ。と一言だけ言って、笑ってくれた。
 本家だ分家だと言って憤る彼女とはまるで別の人のように、母は子供たちの意志に反対をする事などこれまでにはなかった。その事は、理一にとっては何よりの救いだったように思う。
「じゃぁ…」
「理香のお相手よ。一応、お前だって家族になる人を選ぶ権利はあるでしょう?」
 勿論私にだってあるのよ。と母は言って、理一は向かい合って座る机の上に並べられたお見合い写真を開く。
「理香の気持ちが一番だけれど、お前だって、気の合わない人が家族になったんじゃ、増々帰って来ないだろうし」
 東京と長野を往復する事を考えれば、理一はよく帰って来ると言っていい程度には、実家に顔を見せているのだが、母親にしてみれば、それでも足りないものらしい。
「俺は、上手くやれると思うけど」
 どんな相手でも、きちんと対応していると思っているし、これまでにその対応を否定された事もない。
「お前は、自分で思ってる程、上手くやれないと思うわよ」
 母の強さでばっさり切り捨てられ、それ以上何を言う事もできず、理一は苦笑を浮かべて母の手元を見やる。
「それが、一押し?」
 母の力というものなのか、自分を一番理解しているのは母だと理一は認識している。父親が早くにいなくなったせいか、理一は周囲の友人たちと比べると、母との距離が近かった。
 それでも流石に高校生にもなれば、母に何でも報告を…とはならなかったものの、理一が悩んでいる時や、困っている時を、母が見逃す事はなかった。
 それは、この年になっても変わらないのだな、と思わされて、理一は何となく気恥ずかしいような気持ちにもなる。
「ちょっと歳が上なのが悩みどころなのだけど」
 如何にも穏やかそうな人だと思って、理一は身上書に目をやる。
「どんな人がいいのかしらねぇ」
 特別目覚ましい出世をした感じはないが、順調に職場の順位を上げてきた。という様子の見えるそれに、理一はふと祖父を思い出す。
「物凄く仕事のできる人か、物凄くのんびりした人かのどちらか」
「え?」
 驚いたように顔を上げた母に、理一は苦笑を浮かべる。
「おじいちゃんが、言ってた」
 理一がずっと小さかった頃だ。まだ、侘助はこの家にいなかったような気がする。祖父の膝の上で、庭に出る祖母の姿を見ていた。
『出来の良すぎる嫁っていうのも、なかなか大変なもんだ』
 酷く疲れたようなその声に驚いて、見上げた祖父の表情は、苦しそうな、悲しそうな、笑った祖父しか知らない理一にとって、初めて見る祖父の姿だった。
 その時は、理一には何を言われたのかまるでわからなかったが、侘助が家に来て、自分も成長して、何となくわかるような気がした。
「姉ちゃんは何でもできる人だと思われてるから」
 婿に入った家で、嫁より評価が低かったら、それは気の重い事だろうと思う。
 その上、理一と侘助という小舅もいて、それと比べられるような事になったら、それこそどんなに居心地の悪い事か。
 侘助の母は、きっと優しくて何もできないような人だったのではないか、と理一は考えた事がある。
 実際は、侘助を10歳まで一人で育てたわけだから、何もできない人などではないだろうけれど、祖父にとっては、自分なしには何もできないだろうと思わせる人だったのではないかと思っている。
 祖父が祖母の事をどれだけ大切に思っていたかは、よくわかっている。それでも、そこから逃げ出したい時があったという事は、理一にとっては悲しい事だ。
 父はずっと早くに死んでしまったから、そんな葛藤を感じる間があったのかどうかはわからないが、今も生きていたらどうだったろうとは思う。
「……そうね」
 父はどんな時でも、夫にまず意見を尋ねる人だったと、万理子は40年も前の事を思い出す。
 母と違い、万理子はそれ程よくできた人間だと評価されてはいなかったから、夫に意見が求められる事を、疑問に思った事もなかったけれど、それは父なりの入り婿である夫への気遣いだったのかもしれない。その頃には、侘助の母親の元を訪れていたであろう事を考えると、それは間違った想像ではないように思う。
 この家では、どんな事でも意見を求められ、それを決定するのは母だった。父の意見と母の意見が食い違う事は滅多になかったが、婿に入った家で、自分の存在感が薄いという事は、男にとっては女が思う以上に辛い事なのかもしれないと万理子は思い至り、それを息子が聞いていた事と今まで黙っていた事に驚かずにはいられなかった。
 この器用なのか不器用なのか判断の難しい息子が、突然外からやって来た侘助に好意的だったのは、待望の男兄弟がやって来ただけではなかったのだと、どこかぼんやりした息子の表情を見て思う。
「年下だったらどうかしらね」
 スッと引き寄せられた写真に目をやって、それもいいかもしれないと思う。
「母さん、この顔どうなの?」
 姉より6つ年下になるその人物は、なんとなくぼんやりした印象だ。これは周りを気にしないだろうけれど、こちらはこいつが気になるだろうと理一は思う。この写真が一番脇にあった事が、母の意志を示しているのだろうとも思う。
「そうなのよねぇ」
「出来がいいけど、上昇志向過ぎないって人はいないの?」
「そんな人が、残ってるわけないじゃないの」
 残っているとしたって、そんな人が今更結婚を望むなんて事は滅多にないだろう。それは、本人にまるでその気がなくて残っているに違いなく、そんな人がやすやすと見つかるわけもない。
「そうだよね…」
 理一の周りを見回しても、やはり出来のいい人間は早々にまとまって結婚していくものだ。何故あの人が結婚していないのだろうか、と思う上司は、やはり最後まで結婚などしない事が多い。
 これまでその気がありませんでしたが、あなたに出会って…なんて展開は、簡単に転がっているものでもないのだろうと思うところだ。
「母さんとしては、この顔が一番好みなんだけれど」
 最初に見たその写真を示して母が言い、理一は別の一枚を指差す。
「ちょっと離れてるけど、ここまで年下だったらどうだろう」
 年齢差は8。仕事ができそうな顔をしているが、このキャリアの差は評価の差を仕方がないで諦められるような気がする。
「年上の優しさっていうのもありかもしれないわね」
 そう言って母は写真を一つ手元に引き寄せる。
「それじゃ、侘助にも聞いてから、理香に決めさせるわね」
 母は満足そうに頷いて残りをまとめて脇へ置いた。
「あのさ、俺、侘助と暮らす事になったんだけど、最近何かあった?」
 一つ話が片付いて、理一は気になっていた事を母に問う。
「あら、そうなの?」
 やはり母は反対の一つも口にせず、理一の質問に答えを返すべく、ここ最近を思い返している。
「でも、あの子はあまり家から出ないから…」
 40を越えた人間の事を、流石にもう妾の子だなんだと噂するような事もないだろう。山を売った事にしても10年も前では、近在の人たちが侘助に何かを言うとは考えられないと万理子は思う。
「おかしな電話があったとかは?」
「ないわね。侘助の携帯に掛かってきたら、私にはわからないし」
 侘助の自室は2階にある。普段はそこに籠りっきりだから、食事の時間に掛かってきたのでない限り、万理子が気付く事はない。
「急に言い出したから、何かあったのかと思ったんだけど」
 奥さんとか同棲とかいう言葉は、侘助のごまかしに過ぎないと思っていた理一は、母のその言葉に首を傾げる。
「田舎暮らしから離れたいだけかな?」
「お前と暮らしたいだけじゃないのかしら」
 母の言葉に驚いて目を見開く理一に、万理子は笑ってしまう。
「お前が思っている以上に、侘助はお前がお気に入りよ」
 昨夜の理香との言い争いなど良い例だと万理子は思う。どうやら、争いの元はそんな事は思いつきもしないようだけれど、それは昔からわかっている事だ。
「………そうかな?」
「ええ。ちゃんと面倒を見てあげるのよ」
 笑う母に、理一はぼんやりと頷く事しかできなかった。




最後は母
おじいちゃんに懐いていたという設定になっている当方の理一さん。何故なら、おばあちゃんが侘助のものだから。
入り婿で、妻の方が立場強いと、俺は種馬か…って気持ちになっておかしくないんじゃないかな。と。
おばあちゃんの交友関係とか見たら、おじいちゃんの立場が強いわけないからね。
おばあちゃんは多分、そんなおじいちゃんを包み込めはしなかったろうと思う。
侘助の態度を考えても、強く正しい彼女は、卑屈になった人を癒せない。そんな気がする。

(2010.2.3)




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