夕食の片付けも済んだ頃になって、結婚しないのか。と遠慮なく聞いてきたのは、この家に騒動ばかり起こす叔父だった。
最近やっとアメリカから帰って来て、とりあえずはと、この家に落ち着いているが、何を仕事にしているのかは理香にはわからない。
母の言うには、昼間は部屋にこもって何かしているという事だが、生活費を差し出して来たという事は、それが現在の彼の仕事時間だという事なのだろう。
「人の事言えた立場じゃないでしょ。」
彼は戸籍上叔父だが、実際には弟だ。
親類中で最弱の立場に存在するその男は、最近少し自分から話題を振って来るようになった。
どうやら、自分の立場が未だこの一族の中では微妙な揺らぎを見せている事には、きちんと気付いているらしい。それは何よりだ。と理香は思う。
何せこの男、歳ばかり取ったが、精神年齢はさっぱり成長しなかったという厄介な研究バカだ。それが、やっと人付き合いを考えるようになったとは、随分な成長だと思う。
それでもいきなりそこに突っ込んでくるとは、恐れを知らない子供と変わらないわ、と理香は小さくため息をついた。
「万理子おばさんが家長になったんなら、次は理香だろ?」
この家に来た時から、彼は戸籍上姉である彼女を、万理子おばさんと呼ぶ。他にどうしようもないのだが、一番最初、母が一瞬戸惑う顔を見せたのを、理香は覚えている。万理子姉さんと呼ばれたりしたら、彼女はきっとはっきりと動揺を表情に出したろうから、それは正しい選択だったと思うけれど。
ただ、理一と二人で話している時などは、たまに呼び捨てている事もあるようだから、近い内に本人に向って呼び捨てにする可能性はあるな、と理香は踏んでいるが、その時の母の対応はどうなるのかと、少し気がかりではある。
「うちには理一がいるわ」
「女が継いだ方が、上手くいくんじゃないのか?」
祖母の栄は女傑と呼ばれていい人物だった。彼女はこの家唯一の跡継ぎであり、よくできた人物だったから、他所から婿を取って彼女が家を継いだ。
母の万理子は祖母には及ばないにしても、彼女に育てられ、彼女の側で生きてきた人間だ。いざとなった時の肝の据わり方は、その弟たちとは比べ物にならない。
二人女が跡を継げば、次が女だからと言って、誰も文句を言うわけがないのは、理香だってわかっている事だ。
「理一には、問題なんてないわよ」
例えば理香と理一を比べて、どちらかが格段に劣っていたら、話は簡単だったと思う。誰だって、出来のいい方が跡を継いだ方が良いと思うに決まっているからだ。
けれど、理香と理一は歳だって一つしか違わない。理香は女だが、祖母の女傑ぶりから、陣内家の女を甘く見る人間はいない。けれど、跡継ぎは男という意識も根強く、理一はその点長男で十分周りが納得できる立場だ。
理香も理一も近隣での評判は上々だ。学生時代から大きな問題だって起こした事はなく、悪評の絶えなかった侘助が共にいたせいで、尚更に評判は良かった。
何かどうしても、と差をつけるのならば、理一が上田を離れ、理香が上田で暮らしている事くらいだろうが、それだってなんとか探し出した点といった程度だ。
「そうだけど」
侘助は不機嫌を隠さない理香の様子に、小さく溜息を漏らす。
日本に戻ってきて、盆に人が集まるまでに、せめて理香や万理子とは普通の家族のように会話ができるようになるまでは、関係を元に戻したいという、侘助なりの必死の努力での会話の開始だったのだが、流石に内容が突っ込みすぎていたかと、せめて明日の天気から入るべきだったかと、侘助は足先の畳の目を視線で辿りながらぐるぐると考える。
「私は待ってるの」
突然の宣言に侘助は驚いて、待っているって何を、と理香の表情を伺った。
「……白馬の王子様とか?」
まさか、そんな事は思ってはいないだろうということなど、侘助にだってわかっているのだけれど、結婚の話題で待っていると言われたら、運命の人か相手の告白かと相場は決まっているはずだと思う。
「はぁ!?」
あんた、馬鹿じゃないの。と語る視線で見られて、侘助は自分の馬鹿な発言を後悔した。
そうだ、理香は俺に遠慮なんてしない。昔のように話をしたいというのは、こうして遠慮なく馬鹿にする視線を受け止めるという事だと、侘助は嘗てを思い出して泣きたくなった。
「何を、待ってるって?」
侘助がまるで分かっていない様子に、理香は小さくため息をついた。
この家と跡継ぎ問題は、切っても切れないものだ。何せ、陣内家はただの家ではない。
先祖代々、この土地を守ってきたのだという自負もあり、周囲もそんな目で見て、先祖代々の付き合いもある。
だから、この家を継ぐ人間は、どうしたっていなくてはいけない。そしてその人物は、必ずその血を引いていなくてはならない。
例えば侘助がこの家を継ぐ事を望んだとしても、陣内の血を引いていない侘助には無理だ。それと同じように、望もうが望むまいが、理香か理一がこの家を継がなくてはいけないのは、この家に生まれてきた二人の義務だ。
気が向かないなら分家から養子に入ってもらえばいいわ。というところがないわけではないが、単に結婚したくないから、という理由だけで逃れられる話ではない。
「あんたには、わかんないことよ」
こういう言い方は卑怯だと思うけれど、侘助は元から自分はこの家には関係のないものだと思っているふしがある。確かにその通りだと思う。望むだけ無駄な事だ。
けれど、こちらにはこちらの考えがあるのだと言ってやりたくはなる。
「……そうですか」
案の定、侘助は拗ねたようにそう返し、小さく舌打ちまでしてみせるから、理香はその横っ面をぶん殴ってやりたいという衝動に駆られる。
あんたには絶対にわからない葛藤が、私にも理一にもあるのよ。
そう叫んでやったら、この男はきっと、自分が部外者扱いされたと思うに違いない。
お前はうちの子だって口で言ったって、結局は俺は他所から来た人間に過ぎないんじゃないかと。
「あんたがわかろうとしないからよ」
自分には関係のない事だと思ってるから、一人だけ勝手に、山を売ってアメリカに逃げられるのだ。
別に、山を売った事なんてどうだっていい。本当のところ、祖母だけじゃなく、理香だって理一だって、多分母だって思っている。
だって、あの山は何の利益も生まないのだ。先祖代々の土地を守るっていうのは、先祖代々の所有地を握り込んでいるってことじゃない事がわからない程、馬鹿じゃないのだ。
だけど、この男はその辺の事だってわかってはいない。
金がないなら、持っているだけの土地なんて売ればいい。資産っていうのはそういうものだ。そんな事は、祖父だって知っていた。
彼は戦後にこの家の土地を細かくして売りまくった。そして得た金で、色んなものを買いまくった。その上、買ったものを近隣の人たちに惜しげもなく振るまった。
それはそれは、驚くような浪費家ぶりだと周囲の人々は話したけど、その話をする祖母は本当に嬉しそうだった。
祖母は、その頃持っていた着物を見せてくれた事がある。日々着るものではない着物であっても、彼女の為に仕立てられたそれらよりも、誰も住まない土地を売る事を祖父は選んだのだ。年を取ってから、他所の女性に侘助を産ませるなどした祖父ではあるけれど、祖父の祖母への愛情を疑った事なんて理香にはない。
そんな祖父が売りまくった土地は殆どが山で、未だにその山は山のままだ。どこぞの大きな企業が山を買って、レジャー施設に開発しました。なんて話だってない。
その息子は、山一つ丸ごと売り払って、その金を元手にして周囲を買い戻そうとしたと聞いて、本当に馬鹿だと理香は思った。
「理一も勝手に出て行って」
理一は理一の葛藤をもって、今の道を選んだのは理香だってわかっている。理一の葛藤の4分の1位は、理香の葛藤と同じものでできているはずだとも思う。
でも、なにもあんな極端に走らなくてもよかったじゃないか、とは今でも思う。
理一が防衛大を選んだ時は、本当に驚いた。 自衛隊が戦争をするわけじゃないのは知っている。だけど正直なところ、理一からは一番遠い場所だと思っていた。
侘助は、理一が防衛大に行くと言った時の理香の様子を思い出し、あれは驚いたな、と小さく呟く。
どんなタイミングだったのかは覚えていないが、家族は全員揃っていて親戚たちはいなかったから、普段の食事の後の時間だったのではないかと思う。 お前たちは、大学はどうするのか。と理香が聞いたのだ。
侘助は東京の大学に行きたい。と言った。親戚連中が反対しないのは、東大くらいだろうと侘助は踏んでいたから、わざわざ言わなかったが、そこが目標ではあった。
そして、理一は『防衛大に行く』と嬉しそうに言ったのだ。侘助は驚いた。口が開いたような気がする。祖父も僅かに目を見開いた気がする。祖母ははっきりと驚きの表情を見せた。
理香は、理一のその嬉しそうな発言に一瞬怯んで、それから、本気なのかと詰め寄った。母親の万理子が一瞬の後、納得したように頷いたのとは反対だった事も、侘助の驚きを煽ったが、未だにあの様子を思い出すと、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
説得が効を成さなかった事で、理香は理一が家を出て行く為に防衛大を選んだと受け取ったらしいが、あれはそうではないと、侘助は思っている。
理一が防大を選んだのは、この家に金がなかったからだ。侘助が東京に出たいと願っている事も、理一は知っていた。
確かに、理一もここを離れたいとは思っていたのは間違いない。でも、金のある家なら、そこを選んだかどうかは微妙なところだっただろう。
理一は上田を離れて大学に行きたい。侘助は東大に入りたい。二人共に外に出ると金が掛かる。防大は入れた時点で公務員扱いだ。自由は格段にないが、金を貰って勉強ができる上に、自分に耐える能力があれば、就職先も自動決定する。 その上、陸自の中には理一の大好きな通信関連の部署がある。これはもう、ここを目指すしかない。
理一の謎めいた思考回路は、自分の好きなことで飯が食える未来をはじき出したらしい。
幸い理一は数学も物理も得意で、防大受験に不安のある成績でもなかった。十分に可能性の高さを見ての決定だったとも言えるが、それらは全て理一の中だけで決定した事だ。もしかしたら、祖父には相談をしたかもしれないが、他の誰も理一から相談はされなかった。
「もしかしたら、すぐに戻ってくるかも、って期待もしてたけど」
理香の期待を裏切って、理一は大変楽しそうに自衛官生活を送っており、自分の狙った部署に配属されてからは、尚更楽しそうでもある。
防大に通っている間も、理一はこれっぽっちも不都合を感じていないようだった。外泊許可を取って侘助のところに遊びに来た事もあったが、自由気侭な侘助の生活を、羨ましそうにした事もなかった。 だから、侘助は防大が厳しいなんて嘘だろうと思った程だ。
その辺は、目標に向っていれば、何事も苦にならない理一の性格に依るところが大きいとは思うのだが、きっと、周囲からは浮いていたに違いないと、侘助は今でも信じている。
「その内に、段々こっちも意地みたいになって来たのもあるけど、私が結婚したら、理一が安心するのは間違いないと思うのよね。」
理香が結婚できてよかった。という安心は勿論だが、これでこの家も続くから大丈夫。という安心だ。
「理一も、理香が結婚するまでは、って思ってんだろ?」
俺が結婚したら、俺が跡継ぐ気があるって思いそうじゃないか? とまでは理一は言わなかったが、言わないだけだと侘助は見ている。
理一がどうして結婚しないのかはわからないが、とにかく、姉より先に結婚する気がないのは明らかだと思う。
大体、あんなのが未だに結婚していないという事がおかしい。だから、この姉弟は互いの動向を見ながら、自分の身の振り方を探っていると言ってもいいのだろう。
「あんたにはあげないからね」
「は?」
どこからその言い分が出た。と侘助が理香を伺えば、理香はふん、と笑った。
「理一はうちの子なんだから」
俺もうちの子だってこの間言ったじゃねぇかよ。と内心で突っ込みながら、侘助は理香の様子を伺う。
「あんたなんて後から来たくせに。」
さっきから、なんでそんなに俺を余所者扱いするんだと戸惑う程に、理香は突然侘助に絡み始め、自分の発言は何かおかしかったかと振り返っても、振り返る程発言はしていない。
「何よ。理一の事は俺が一番わかってます、みたいな顔して」
いや、俺はあいつが増々わからなくなって来ていますが。と侘助は思うが、それは、侘助が理一を理解したいと思い始めたからの状況であるのは確かだ。
日本に帰って来て、頻繁に東京の理一の元を訪ねているのも、その為だ。まだこの家が少し落ち着かなくて、理一の側が落ち着くからなのだが、その自分の心理状態を理解したいと思ったのも、理一を理解しようとするきっかけではあった。
「あんたなんかより、私の方がずっと長く理一といるんだから」
それはそうだろう。侘助が理一と理香に会ったのは10歳の頃だが、理香は理一を生まれた時から知っている。この姉弟は本当に仲が良いから、理香程理一を理解している人間はいないだろうとは侘助だって思う。
「長くいればいいってもんじゃねぇだろ」
それでも、姉故の遠慮だってあるに違いない。実際、理一は自分のこの先の事など理香には話さないだろうし、家を継ぐ気がないなんて事だって、言っていないに違いない。
「理一だって、理香には言い難い事だってあるだろうからな」
「あんたになら言える事があるって言うわけ?」
有り得ないわ。と理香は切って捨て、侘助はその自信満々な言い分に、思い切って反論できない自分に苛立つ。
「あるに決まってんだろ」
そうかどうかは知らないけれど、ここで怯むわけにはいかないのだと言い返せば、一瞬理香は息を飲んで、それでも口を開く。
「私より、あんたを頼りにするなんて有り得ないわ!」
「姉には言えなくたって、男兄弟なら言える事はあるだろ」
実際、理一は姉の事を大事にはしているけれど、子供の頃一緒にいた時間が長いのは侘助の方だ。とりあえず、おおっぴらに言うべきじゃない秘密事なら、侘助だって理一の事はあれこれ知っている。当然、その逆も然りではあるけれど。
ここで、今現在の理一の事を持ち出せないのが侘助の弱いところだが、子供の頃の話だと言わなかった事で、理香は今の話と思ったらしく、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「覚悟があって言ってんでしょうね!」
「あるさ!」
理香の言葉の意図する事などわからないままに叫んだ侘助を、理香はぽかんと見返して、叫んだ侘助は侘助で、自分にどんな覚悟があるっていうのだろうと、ぽかんと理香を見返した。
「……なんの?」
言った理香だって、どんな覚悟を求めていたのかはわかっていない。問い返されて、侘助は考える。
「………理一は任せろ」
なんだろうか、これ。そう思ったけれど、なんとなく、それは正しい答えのような気がした。
「あげないって言ってるじゃないのよ!」
「いいから、お前は婿を取れよ! 理一は俺のだから!」
売り言葉に買い言葉的な言い合いではあったが、叫んだ言葉は侘助の中には違和感もなく、理香は過日電話で聞いた理一の声を思い出す。
「こんなに待たせて、偉そうなのよ!」
理一はあれで誰も待った事なんてないのだ。待たせた事だってない。周りにたくさん人がいたって、理一はそういう子供だった。
「これでも急いで帰って来たんだよ!」
ぎゃーぎゃーと叫んで罵りあう二人を、やって来た万理子が困った様子で眺めている事に彼らが気付く事はなく、万理子はため息を一つ吐いて来た廊下を戻り、廊下の端の電話を取る。
「なんだか、二人で楽しそうにしていて、ちょっと割り込めないわね。」
「そう。じゃ、いいよ。」
「気をつけて、帰ってくるのよ。」
「ありがとう。おやすみ。」
遠くに暮らす息子は、いつもの穏やかな声でそう言って通話を終わらせる。
「仲が良いのはいいけれど、いつまでもあれじゃ困るわね」
既に罵りあいはそれぞれの過去にまで及んでいるようで、万理子は笑みを浮かべつつ、自室へと足を向ける。
「理一は大きな無線機が欲しいだけなのにねぇ」
キラキラと輝く子供の目に浮かぶ喜びが、間違いなくそれだった事を知るのは、母ばかりのようである。
結婚について語る理香と侘助。
理香の『自分の意志で結婚しない』ってのをどう受け取るべき事なのか、ということで、こんなお話に。
本家姉弟は、特別問題があるようには見えないけど、実は物凄く問題のある人たちなのか、結婚に対してマイナスイメージしかないのか、 その辺ちょっと気になるところです。
一応、二人の父親は理一が5歳の頃に亡くなってる設定にしてます。あまりにその存在に言及がされないものだから、相当前だったんだろうと。
(2010.1.13)