「行くのか?」
後ろから掛かった声に、一瞬身を竦めて、侘助はふぅと息を吐き出す。
「もう、知らない振りってわけにもいかないだろ。」
そうしようと思ってここを出て行った時とは、状況が違ってしまったのだ。ここでまた知らないなどと言うわけにはいかない。
正直に言うなら、もう少し気持ちを整理してからとか、せめて栄の葬儀が済んでから、という気持ちがないわけではない。
けれど、それを一番望んでいないのが誰かなんて事もわかっているから、今しかないんだと思った。
「安心した。」
思ったよりまともだった。と続いた言葉に思わず振り返れば、同じ歳の甥が感情のない顔でこちらを見ている事に、侘助は再度息を飲んだ。
「……理一?」
怒っているのかと思ったのに、そんな様子はどこにもなく、けれど、安心しているのでもない。いつも彼が浮かべている、人をごまかすような笑みでもなくて、本当に、彼が何を思っているのか読めない表情だった。
「昨日の、本気だったのか?」
昨日の、という言葉の示すものが何か、すぐにはわからず黙る侘助に、理一は黙って視線だけを向ける。
この家に引き取られて、この家を出て行くまで20年、絶えず側にいたわけではないけれど、多分一番付き合いは長い理一が、こんな風に対応するのは初めての事だ、と侘助は思う。
理一はいつだって、侘助には寛容だった。喧嘩もしたが、侘助が謝れば、どんな理不尽なことが起きた後でも、理一は侘助の謝罪を受け入れた。
だから、侘助が知っている理一は、殆ど笑っている。こんな風に読めない表情で問いかけてくる事はなかったし、意図を読めない侘助に補足をくれないこともなかった。
「俺のせいじゃない。って」
これは、怒っているんだ。侘助はやっと理解した。
表情は静かだけれど、声には抑揚がない。必死に押し殺された感情が、そうさせているだけだと。
この家の人間の中で、理一の事はよくわかっていると思っていたけれど、それはあくまで侘助の理解の範疇の中で、という話だ。
あれだけ自分に愛情を注いでくれた栄の気持ちですら、きちんと理解できていたわけではない侘助が、理一が自分に寛容だったからといって、その性質を理解できていたなんて、そもそもが間違っていた可能性もある。
子供の頃すら、ここまで怒らせた事がなかったのに、この歳になって、ここまで怒らせるなんて、自分は本当に間違っていたんだと、今更ながらに侘助は思い知らされる。
「思ってた」
そんな馬鹿な話が通用するか、と思わないでもなかったかもしれない。だけれど、そんなことは捨て去った。
この家に帰ってくる為に、栄に認められる為に、彼女に全部返す為に。どんな馬鹿な事だって、許されるはずだと思った。
侘助にとって、それが人生の目的だったからだ。
あの日差し出された温かい手に、全部、全部、返してあげたかった。そうなれば、彼女は喜んでくれると思ったのだ。
「それを、ばあちゃんがわかってくれるって?」
お前は馬鹿だと、誰も言わなかった。あの後はそれどころじゃなくて、侘助の間違いを、もう一度振り返って責める人間はいなかった。
それを、ここで理一が今しようとしているのだ。
多分、そんなことができるのは、今では理一だけだ。他の家族では、まだ侘助にこうして向かい合おうとしてくれる人間はいないはずだからだ。
そして、他の家族との間にそれと同じ関係を求めるのならば尚更、自分はここを出て、この騒動を説明する必要がある。
「思ってた」
彼女はいつだって自分の味方だったから。
誰が自分を避けたって、彼女の元に行けば、いつだって笑って迎えてくれた。
だから、わかってくれると思っていた。
そうではなくて悔しくて、ここを出て行くしかなかった。本当なら、自分は歓迎されるはずだったのにと、実験にOZを使ったアメリカ国防省を恨みもした。
「わかってもらってたら、お前、帰ってくる場所なんてなかったって、わかってる?」
ばあちゃんは、お前が何を思ってあんなことしたかは、わかってただろうけど。と理一は言う。
「死ねなんて言われて、お前がここから逃げ出さないわけはないってことも、わかってただろうけど。」
理一は呆れたように侘助を見て、ため息をついた。
少しずつ、いつもの理一の顔に戻っているのを見て、侘助はなんとなく安心する自分に驚いた。
理一が、自分の知っている理一のままである事、自分の知っている理一がごく一部分に過ぎなかったというだけの事なのに、それには目を瞑れる自分に驚いた。
「全部、ばあちゃんの狙い通り、って感じがして嫌だなとは思うけどね。」
「俺が、帰ってくるところまで?」
考えれば、そう取れない事もないけれど、自分が死ぬ事なんて、彼女は予想はしていなかったろうと思う。
彼女は、計算では生きていない。ただ、選び取るものに間違いがないだけだ。少なくとも、侘助はそう理解していた。
「ここまで急展開するとは、思ってなかっただろうけどね。何れあの手紙が見つかって、ばあちゃんが死んだって聞けば、お前は絶対に帰って来るだろう。死んで詫びろって拒絶された人間を、許してやってくれなんて言われたらさ、気持ちも和らぐじゃないか。」
実際、事はその通りに運んで、侘助も騒動の終息に力を貸して、皆でピンチを乗り切って、過去の事は水に流しましょう、なんて雰囲気で夜を迎えてしまった。
「明日の朝になっても、お前がここにいたら、俺はキレたと思うよ。」
皆は、俺が何を怒ってるか、わからないだろうな。と理一は笑う。そして、自分は理一に怒られている事すらわからなかったに違いないと、侘助は思う。
「もうわかったから、今度は逃げない。」
自分の半分も生きてはいない子供が、自分のした事でもないのに、自分の責任を果たすと言った。そんな彼を、彼女は認めた。
侘助が栄に認められたのは、侘助が栄の夫の子供だったからだ。それ以外の理由なんてどこにもない。でも、ただそれだけで、認められる事。それが家族だ。
多分、それだけでは嫌だったのだと今では侘助にもわかっている。
彼女の為に何かをして、それで彼女に認められたかった。それで選んだのがあの手段だ。
馬鹿な事をしたと思う。けれど、あれ以外に思いつく事なんて何もなかった。
侘助には、人を喜ばせる手段を考える事ができなかった。思いつくのはどれも小さな事ばかりで、そんなでは全く足りないと思ったのだ。
「ごめんなさい、と、ありがとう、が正しく言えれば、大体は何とかなる。」
でも俺だって、あんな子供に負けているわけにはいかないだろう。そう思って拳を握っていた侘助は、理一の言葉にその顔を見返した。
「じいちゃん唯一の人生訓。」
俺はこれが一番正しい事だと思ってるけどね。と理一は笑う。
「じいちゃん?」
理一の父親は早くに死んでいて、侘助がここへ来た時には既にいなかった。だからなのか、理一の父方の親類との付き合いは、殆どない。
だから、理一がじいちゃんと言えば、それは侘助の父親の事だ。
一緒に暮らしていても、侘助にはどうにも馴染めなかった彼に、理一は懐いていた。
祖母には侘助、祖父には理一。侘助は殆ど違和感を感じていなかったが、もしかしたらこれは、おかしい事なのかもしれない。
「お前にも、是非教えておかなくちゃと思ってね。」
今から、ごめんなさいと言いに行くんだろう? と理一は笑い、侘助はぼんやりと頷いた。
ずっと、侘助は自分を父親の代わりだと思っていた。父が栄から奪ったものを、自分が返そうと思っていたのだ。それが、自分の役目だと。
彼が死ぬと、この家では自然、父の話はされなくなった。流石に、侘助の前では憚るものがあるのだろうと思っていたが、それだけではなかったのかもしれない。
「ごめんな」
自分だけ恵まれていなくて、自分だけ不幸だと思っていた。
「そこは、ありがとう。」
理一は笑ってそう答えたけれど、多分、それが間違いだ。
理一がもし、祖母より祖父が好きな子供だったとしたら、彼の葬儀の様子を思い返せば、その可能性は高いのだけれど、理一にそうだと言わせなかったのは侘助だ。
そうでなくては、どうして今更こんな話が出て来るのか。こんなのは、子供に語る言葉に違いないのにだ。
「うん」
理一は侘助がごめんなさいと言えば、いつだって、いいよと言った。そして、自分もごめんなさいときちんと謝る子供だった。
それが、自分が疎ましく思っていた人間から出た事だなんて知らなかった。そんな風に、大事に思われている人間だなんて思いもしなかった。
自分は本当に、何もわかっていなかったんだと、侘助は思う。
「行ってくる」
「行っておいで」
理一は、侘助のよく知る笑顔でそう言う。
それは10年前にこの家を出て行くと決めた侘助に栄が言った言葉と同じであり、毎日、この家を出る時に、万理子や理香からかけられた言葉と同じだった。
自分は何の意識もせずにこの言葉を口にして、その言葉をもらっていたけれど、今やっと、その言葉に含まれている本当の意味が分かったような気がした。
背中を向けて玄関の扉を開けて、必死の勇気を振り絞る。
「できるだけ早く、戻るから。」
きっと、理一は笑ってくれているはずだ。だから、振り返る事なんてできるわけもなくて、侘助はそのまま後ろ手に扉を閉めた。
初のサマーウォーズ作品です。戦い終わってその夜に、こんな事があったらいいじゃないかと。
色んなサイトさんで見るので、今更かよと思われるかもしれませんが、当方はこんな感じで。
理一さん、小説では微妙におばあちゃんには遠い感じなんですけど、映画でもそうなのかな。(2010.1.5)