待ち人来たる



 久方ぶりに戻った家の小玄関を入り、ただいまと声をかけようと顔を上げた理一は、そこに仁王立ちする姉を見て、半ば口を開けたままその姿を凝視した。
 自宅にいる時の化粧っ気のない姿は見慣れたものではあるけれど、こちらを見下ろすその視線は、嘗てない威圧感だと理一は思う。
「お帰り」
「…ただいま」
 どこから見張っていたのだろうか。そう思う程、姉が理一を待ち受けていたのは間違いない様子で、このまま追い返されるのではないかとさえ、思わされる。
「ちょっと、来て」
 くい、と顎で自室を示して、理香はそちらへ歩いて行く。
 普段なら、まずは母に挨拶を。となるところを、順序を変えてきたという事は、かなり重要な話があるという事だと、理一は何の話だろうかと考えて、そんなものは一つしかないと理解する。
 姉の自室は、昔から玄関脇にある。理一と侘助の部屋が2階にあるのとは扱いが違うのだとは、子供の頃からなんとなく理解していた。
 だから、姉が空いた母の部屋へ移らなかった時、これはいけないな、と思ったのだ。
「座って」
 障子を閉めて向き直ると、理香は自分の前を示し、理一はそこへ姉に倣って正座で腰を下ろした。
 これはもう、ごまかすわけにはいかない状況だな。と理一は思う。
「そろそろ、観念するべきだと思うのよね」
 予想的中。今まで、二人の間でごまかしごまかし過ごしてきた話題だ。
 それでもこうなっては、過ぎるまま、というわけにはいかないのは、どちらもわかっていた。
「あんた、この家継ぐ気はあるの」
「ないので、姉ちゃん、よろしくお願いします」
 単刀直入に切り込んできた姉に、間を空けず頭を下げて切り返せば、息を飲んだのは姉の方だった。
「……なんで?」
 予想はしていただろうけれど、すぐさま返されると思っていなかったのだろう理香は、ぽつりとそう返した。
「ずっと、違和感があって」
 答えれば、姉は首を傾げた。
「皆といる事に?」
「それは全然ないよ。姉ちゃんも、母さんも、直ちゃんも、頼彦さんたちも、全然違和感ない。大事な家族だと思ってる」
 ただ、自分がこの家を継ぐという事だけは、どうしても違和感があった。
「なかなか言えなかったんだけどね」
 この家で、陣内という一族の中で生きている事には、何の不満もないどころか、とても恵まれていて幸せな事だと思っているのに、ただ、家を継ぎたくないと言うだけで、それら全部を否定しているように取られはしないかと思うと、はっきりと口に出す事は躊躇われた。
「姉ちゃんにだけは言うべきだとは思ってたんだけど」
 姉がそれを望んでいる事は知っていたから、はっきり言わなければ、姉だって先が決められないだろうとは思っていた。それでもなかなか言い出せなかった。
「言ったら、わかった、って言ってくれると思ってたし」
 姉は昔から弟使いが荒くて、反論は許さないという態度を取っていたけれど、本当の無茶を言われた事はないし、理一に行動の指針を教えてきたのも彼女だ。
 だから、きちんと頼めば、絶対に嫌だとは言わないとわかっていた。それでも、それが正しいのかどうか、理一は判断しかねていた。
「そうよ」
 理一が跡を継ぎたいと思っていない事は、理香だってわかっていた。ただ、そう言って来るのを待っていただけだ。
 姉ちゃんお願い。理一のその一言は、いつだって理香にとって特別だ。理一は本当に大事な時にしか、理香にお願いをしなかった。だから理香は、理一のお願いを断った事がない。
 姉っていうのは、そういうものなのよ。と誇らしく思っていたからだ。どんなに大人になったって、理一は理香にとっては守るべき手の掛かる弟だ。
 だから、理一が頭を下げるなら、理香は断る気なんてない。でも、頭を下げて来ないなら、気持ちを酌んで受け入れてやる気だってないのだ。
 理香はいつまででも、理一にとって暴君のような姉でいたいと思っている。俺の姉ちゃんは凄いと思わせておきたい。弟に負けるような姉になるのはまっぴらだと思っている。
 だから、絶対に、理一の先手を打ってやる事なんてしないと決めているのだ。
「それで、姉ちゃんが色々諦めたら嫌だとは思ってて」
 結局押し付けるんだけど。と理一は言って、深くため息をついた。
「あんたがそうやって頼んできたら、私は別に全然構わないのよ」
 あのおばあちゃんのようになれるとは思えないけれど、そんなの無理だってことは、周り中よくわかっているはずだから、そんな無茶は求めて来ないだろうと思う。
「誰かが継がなくちゃいけないんだから」
 陣内には先祖代々の付き合いやしがらみが山とある。それはもしかしたら、薄れていくものなのかもしれないけれど、今はまだ健在だ。祖母の葬儀にだって、そんな人々が沢山来た。年末年始の挨拶だって欠かした事はない。
「跡継ぎが嫌々なったんじゃ、ご先祖様だって浮かばれないし」
 理一だって、叔父たちの語るご先祖の話を喜んで聞いていたのを、理香は知っている。だから、何が理一の違和感なのかは、理香にはわからないが、それを突き詰めようとは思わない。理一は跡継ぎに選ばれたくないけれど、家族は大事に思ってくれている。それで十分だと思う。
「一応、この家があれば、まだ見合いも間に合うみたいだから、何とかなるでしょ」
 20代の頃は感じなかった事だが、30の半ばも越えると、先に結婚した方が跡継ぎ。と親戚たちは見ているような雰囲気になっていた。
 跡継ぎになりたくないなら、結婚した者負けである。理一も理香もおいそれと恋人の存在を知らせる事もできない上、結婚したいと思うような相手を側に置いておく、という事を避けるようになった。
 そうなると、そんな話は自分を避けて行くものである。理一も理香も、身の回りはさっぱりしたものだった。
「結婚したい人はいないの?」
「前はいたんだけど。この家はなかなかね」
 大きくて立派な家だね。であっさり受け入れてくれる人ばかりではないというのを、理香は身を以て知った。でも、そんな事で怯む人間は願い下げだ。と思ったのも事実だ。
 結局そんなで、婚期は逃したのかもしれないけれど、その事について、理香は別に後悔はしていない。
「そうなんだ」
「あんたはないの?」
 問いかければ、理一は困ったように、ないんだよね、と笑った。
 こういう時、理一の表情は少し悲しそうに見えるのは何故だろう。と理香はいつも思う。何か諦めたような、ちょっと不思議な表情だ。
「侘助がいるから?」
「は?」
 思わず口をついた言葉に、理一はぽかんと理香を見返してくる。
「………違うの?」
 昨日のあの男の勢いは、了承があるからじゃなかったのだろうか、と理香の方が驚いてしまい、二人は呆然とお互いの顔を伺った。
「何が?」
 理一は本当に心当たりがない様子で、理香は自分の失言を呪いたくなる。
 だって侘助は、理一が自分のものだと言ったのだ。あんな発言、子供の頃にだって聞いた事がない。
 結局昨夜は、侘助がこの家に来てから昨日までの、自分たちの中でどうにも納得いかなかった事を並べ立てるような状況にまで発展し、昔奪われたおやつの話まで持ち出されるような事態になったのだが、よく考えてみると、理一の事を必死に自分側だと互いに主張していたようなもので、理香は自分はそんなに理一にこだわってはいないはずだ、と首を傾げる事しきりだった。けれど、侘助だって、理一にこだわっている様子なんて、一度だって見せた事なんてなかったはずなのだ。
 だから、侘助が帰ってきてから、二人に何かあったのだろうかと、ぐるぐると考えてしまった程だったのに、理一はこの態度である。
 これは本当に、ごまかしなどではないとは理香にだってわかる。理一は隠し事をする時、隠し事をしていますと明らかな顔と返答を示して、質問を回避する人間だ。これは、違う。
「ほら……早く帰るとか…って」
 去年の年末の事だ。帰って来ない侘助の事を話していた時、理一がそう言ったのだ。その時も、理一はなんだか不思議な程、寂しそうな声だった。
「あれは、俺がそこにいただけの事だよ」
 行っておいでと言って送り出したら、侘助がそう言ったのだ。
 この男は、やっとその言葉の意味を理解したのかと、理一は感動すら覚えた。
『早く帰っておいで』
 あれはそういう言葉だ。理一はずっと前からそれを知っているけれど、侘助は、あの時やっと知ったのだ。それがおかしくて仕方がなかった。
「そうなの?」
 だったらどうして、あの時あんな声で言ったんだろうと、理香は首を傾げる。
「そうだよ」
 理一はおかしそうに笑って、そこには先程の不思議な感情は見当たらなかった。
「そっか」
 でも、きっとそれだけじゃないはずなのに。理香はそう思わずにはいられなかった。




待っていたのはこれでした。
侘理なお話にするには、理香さんには跡を継いでもらわないといけないわけで…
結婚しない、って言いながら、家を出て行こうとしなかった彼女は、家を継ぎたくないわけじゃないと思うのですよね。
結婚してなくて、家を出て行っちゃってる理一は、家を離れる気はないけれど、あの家に生きる気はないような気がします。

(2010.1.20)




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