三人の世界に、二人の世界



 たまには、言えばいいのに。
 そう思って、嬉しそうに新しく注がれた茶に口をつける侘助をちらりと見た理香は、同じように侘助を見ている理一に気付いた。
 侘助は昔から、あまり自分の希望を口に出さない子供だった。
 多分、色々と遠慮していたという事もあるのだろうが、それよりも性格的なものが大きかったに違いないとは、今でもその性質の抜けない態度で思う事だ。
 世界に大騒動を起こして、アメリカで後片付けをして、やっと日本へ戻って来た侘助は、色々あって、今は理一と二人で暮らしている。
 とは言っても、フットワークの軽い理一は、度々侘助を連れて上田へ帰って来る。今日も今日とて、少ない休みを使って里帰りだ。
「あんた、ちゃんとやってるの?」
 自衛隊員という役所務めである理一と違い、プログラマーの侘助は在宅勤務者だ。しかも、どこかの企業に勤めているというわけではないという事が、理香にはどうにも不安を感じるところだ。
 別に、会社に毎日通う事が大切だと言う気はない。何かを作っている間だけお金を貰えるとか、作った何かを売った時だけお金が貰えるとかいうのは、農家などの自営業の人々に通じるものはあるから、仕事の形態としては理解できるのだ。
 ただ、侘助は毎日部屋にこもってパソコンの前で何かをしていて、ある日突然驚くような金を手に入れたりする。そういう事が、理香には理解できない。
 あんな大金は、もっと必死に働いて、それで手に入れるべきなのではないのかと思ってしまうのだ。
「やってるっての」
 侘助は不服そうにそう答えて、なぁ、と理一を見る。
 理一もあれで高給取りだ。けれど、理一の場合は本当に命を張っている職場だと感じる部署にいた事もあるから、理香はその点で納得している。
 今では実際に身の危険のある場所に出る事はないらしく、目つきも随分元通りののんびりした雰囲気を取り戻して来た弟は、侘助の視線を受けて笑って頷く。
「昨日も、今日はこっちに来るって聞いて、まともに飯も食わずに頭かきむしってパソコンと向き合ってたよ」
「何言ってんだ、理一!」
 実情を晒された事に慌てふためいた侘助が声を上げ、理一は楽しそうに笑う。
 侘助は、そういう自分の苦労話を出すのは嫌いだった。別にそれを自慢しているわけではないのだから、気にしなくてもいいのにと理香は思うが、どうやらそういう事ではないらしい。
 要するに、自分は何の苦もなく、ラクに金を稼げる人間であるとアピールしたいらしい。
 どんなお子様よ。とそれに気付いた時に理香は思ったが、それを口に出す程大人げなくはなかった。侘助がお子様思考である事は言うまでもない事だったから、相変わらずなんだわと思うに止めておいた。
 それにしても、こんなのと一緒に暮らしていて、理一は大丈夫なのかしら。と、最終的には理香の心配は弟へ向くのだから、自分に取ってこの二人は、どんなに年を取ったって、変わらず子供に見えるのかもしれないわ、と理香は笑った。




 侘助は自分を主張することが少ない。そのことを、理一はあまり好んではいないけれど、それはもうどうしようもないことなのかもしれないと思うことにしている。
 侘助の望んでいることは、大体わかる。口には出さないけれど、顔に出るから、きちんと見ていれば、想像が付くからだ。
 でも、たまには自分の口から言ってもいいのに。そう思うこともある。
 別に、理一は侘助から感謝の言葉を聞きたいとか、愛の告白を聞きたいとか、そんなことを考えたことはない。ただ、何かが欲しいとか、何かをしたいとか、そういう希望を侘助が口に出してくれたら、思い切り最大にそれをかなえてやれるのに、と思うことはあるのだ。
 言われなくても、侘助がちょっと疲れたから息抜きがしたい、という顔をしていたら、理一は上田に帰らないかと提案するし、切羽詰まっている時は、食事もすぐに済むものを作る。
 でも、こっそり見て取ってかなえてやるのは少し物足りない。
 侘助が口に出して、息抜きに旅行でも行きたいとでも言えば、理一はのんびり過ごせる温泉宿を探すだろう。勿論、金は侘助に出させるから、びっくりするような値段のする宿に決まっている。侘助は文句を言うだろうが、そんなことは気にしない。内心喜んでいるに違いないからだ。
 けれど、そういうことは、勝手にはできないのだ。理一に恩を売られるのを侘助は嫌うから、理一が気を利かせて、温泉宿に連れていくことはできないし、そんなことをする気もない。
 要するに、俺だって、お前に色々してもらいたいんだよね。と理一は思う。
 侘助の気持ちを理一が理解しているからと言って、侘助が理一を理解しているとは限らない。というより、それは期待してはいけない部分だと理一は理解している。
 侘助は割と独りよがりだ。押しつけがましいところはないが、自分の意見で突っ走ってしまう。理一もそういうことがないわけではないのだが、侘助はそれが顕著だ。
 そんな侘助に、こちらの気持ちを理解してくれなんて、言えたものではない。
 でも、少しは期待しているんだけど。そう思ってちらりと見やった侘助の向こうで、同じように侘助を見ている姉を見つけて、理一は小さく苦笑を浮かべた。



 理一は俺の思うことをわかってくれる。何も言わなくても、俺の望むことをかなえてくれるし、俺の側にいてくれる。
 きっと理一には俺の気持ちが通じているんだと、侘助は子供の頃から思っていた。
 自分が理一の思うことを理解できているかと言えば、かなり不安があるけれど、理一にはきっと伝わっているのだ。
 俺がどんなに理一が好きで、毎日側にいられることを嬉しいと思っているか、幸せだと感じているか。
 だから、侘助は理一にあまり自分の気持ちを伝えたことがない。伝える必要性を感じないからだ。通じているんだからいいのだと。
 でも、理一と理香が話をしているのを見ると、侘助は少し不安になる。
 理一と理香は仲の良い兄弟だ。普段は侘助もその中に入っているが、時々、その輪からはみ出す事がある。
 三人で話していた間にも、ほんの一瞬、理一と理香が目で会話をすることがあったりする。それは、理一と侘助の間にはないことだ。
「理一」
 のけ者にされているわけじゃない。でも、二人の間に入り込めない時がある。それが、血の繋がりの有る無しなのかと、侘助に思わせる一瞬だ。
 理一と俺は通じているからいいんだ。そう思って見なかったことにしているけれど、それで正しいのか、本当は少しだけ迷う。
「何、変な顔」
 理一は笑ってそう言い、理香もつられるように吹き出す。こんな時、理一には侘助の気持ちは伝わっていないようだ。それが少し気に入らない。
「風呂、空いたぜ」
 離れて暮らしているから仲が良いのか、離れて暮らしていても仲が良いのか、この二人はどっちなんだろうと、侘助は立ち上がる理一を見て思った。
「あんた、あんまり理一に甘えてると、痛い目見るわよ」
 縁側に腰掛けたままの理香が言った言葉に、侘助は頭を殴られたような衝撃を受ける。
「甘えてなんかないだろ」
 金だって稼いでいるし、家事だって仕事が忙しくなければきちんとする。家にいる分、掃除洗濯は侘助の担当している事の方が多い。理一がそれで侘助に礼を言う日だって結構あるのだ。
「そうとも思えないけど」
 少し呆れたような、諦めたような顔をする理香を見て、侘助は居心地が悪くなって、理一の行った先へ目を向ける。
 理一が言わないようにしていることも、理香は遠慮なく口にする。そこが理一と理香の違いだ。
 理香は姉として、侘助や理一の間違いを指摘することが役目だと思っている節がある。あの理一ですら、理香には相当やり込められているのだから、侘助なんて幾らでも非難されるところはあるに違いない。
「あんたって、わかってほしいって態度はみせるけど、言わないじゃない。あれって、あんまり面白くないわよ」
 してやって礼を言われるだけまだましだけど。と続いた言葉に、侘助は言葉に詰まる。
 例えば食事の時に飯がもう少し食べたいとか、食後にお茶が飲みたいな、とか、思った直後に誰かが動いてくれるから、侘助はあまりそれを伝えたことがない。それは、昔からそうだったと思う。
 子供の頃は、そういうことを言っていいのか迷うところがあったから、口に出せずにいたのを、周りが察してくれていたのだと思う。今はそれが当たり前になってしまったから、口に出していないだけだ。
「そういうものか?」
「してほしいことがあれば、言えばいいじゃないの。って思うのよ」
 理香は言って、脇に立っている侘助を見上げる。
「あんたは分かりやすいけど、でも、こっちが読み違えてることがあるかもしれないでしょ。そうだとしたって、あんたは黙ってそれで良いと思うんだろうし」
 本当はビールが飲みたかったんだけど、とお茶を差し出されて思うことも確かにある。でも、それで文句を言ったことはないし、そんなことは大したことではないと侘助は思う。
「それじゃ、こっちが嫌なのよ」
 わかってると思ってる自分が、全然わかってないって、思い知らされるじゃない。と理香は言って、ため息を付く。
「あんたが思ってもいないところで、がっかりしてる人間だっているのよ」
 理一もそうなのだろうか。そう思うと、侘助は落ち着かなくなる。
 理一が侘助の希望を読み違えることは殆どない。でも、全くないわけではない。その上、侘助はそういう時にそれを口に出してしまうことが多い。理一だから、という理由だ。
「それが、甘えか?」
「そうだと思うけど」
 それならば、自分はこの家でずっと甘えて生きてきたということだ。察してくれることを、特別だと誰も言わなかったから、侘助はそうしてずっと暮らしてきた。
 アメリカにいた頃は違う。自分で主張することが重要だったから、侘助は誰かが察してくれることなんて、一度も期待しなかった。黙々と作業し、指示を出し、自分で動いて人に掛け合った。
 そう考えれば、確かにこれは甘えだ。何も言わなくても、この家では沢山のものが侘助の前に並べられる。会話の糸口だって、誰かが振ってくれるのだ。この家にいることは、侘助にとっては何よりの息抜きだ。
「そうか」
 今まで、そんな風に考えたことはなかった。ここに来て、家族に甘えているなんて。
 そして、それならば、自分は理一にもずっと甘えていることになる。何も言わず、理一の与えてくれるものを受け入れて、それで満足していた。
 でも、理一がどうかを考えたことはなかった。




「理一」
 この家に帰って来たら、当然自分たちの部屋に寝る。家を出ていったとは言え、結婚したわけでもない理一と侘助の部屋は、変わらず残ったままだ。
「何?」
 布団を敷いていた理一が顔を上げるのを見て、侘助は一瞬怯む。
 何も言わないのが甘えだと言っても、今何を言うのが正しいのか、侘助にはわからない。
 今までごめんと謝るのもおかしい気がするし、これからもよろしくというのはもっとおかしいだろう。
 理一は侘助の様子がおかしいのに気付いたのか、布団を足下に置いて侘助の表情を伺ってくる。
 これが、甘えだ。と侘助は気付く。
 理一も理香も、万里子も祖母も、よくこうして侘助の表情を見つめていた。そして、納得したように笑って、口を開くのだ。
「来週は、海でも見に行こう」
 理一の表情が変わるより先にそう言えば、理一は目を見開き、侘助は自分の顔に血が上るのを感じる。
「お前が休みだったら、だけど」
 そう付け加えれば、理一は嬉しそうに笑って頷いた。
「勿論、お前のおごりだよね?」
「え?」
「楽しみだなぁ。伊豆かな、やっぱり」
 海の幸もいいよね。と楽しそうに続く理一の言葉に、侘助はぽかんと口を開く。
「侘助がそんなこと言い出すとは思わなかった」
 そう言う理一は本当に嬉しそうで、なんとなく要求されたことは納得行かないが、こんな理一を見るのは久しぶりだから、まぁいいかと侘助は思う。
 理一には通じているから大丈夫なんて思っていたら、こんな理一は見られなかったのかと思うと、今まで損をしていたような気になるから不思議だ。
 これからは、少しは努力しよう。侘助は笑う理一を見ながら、そんなことを思った。




10周年キリリク シスイさまより、三人の世界に、二人の世界
全て言葉にしなくとも伝わると思い込んでいる侘助と、言葉にしてほしいなぁと思いつつ何も言わない理一
理香さんもいるといいなぁ、という事だったので、三人の中の二人。という感じで。
侘助は、絶対、勝手に思い込んでると思いますね。でも、理一さんも結構、やる時はやっちゃう人だと思います。
侘助が言わないのをいい事に、「だってお前、言わないからさ」って感じで。侘助のとっておきのビールとか飲んじゃうよ。きっと。

(2010.6.1)




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