夏の真っ青の空の下、初めて会った人の手を握りながら、ただ黙って歩いた。
悲しいのか、嬉しいのか、なんだかよくわからないまま、ただ必死にその手を握っていたら、彼女は色々と話をしてくれた。
「理一、ってお前と同じ歳の男の子がいるんだよ。理一はお兄ちゃんが欲しいってずっと思っててねぇ。仲良くしてやっておくれ」
お兄ちゃん、という言葉に少しドキリとした後に続いた、『仲良くしてやって』という言葉に、更に胸がドキリとした。
これまで、誰かに何かを頼まれるなんて、母以外にはなかった。
近所の大人たちは侘助をあまりよくは見なかったし、学校の同級生たちも、親の言葉を聞くのか、どことなく侘助にはよそよそしかった。
母はそんな侘助を心配し、皆と仲良くしてもらいなさい、とよく言った。侘助はその言葉に従おうとしたけれど、仲良くしてもらうのには、相手の意志が必要なんだって事を、思い知らされるだけだった。
随分後になってから、あんな事はきっと理一も言われていたんだろうなとは気付いた。
その頃にはもう、理一と仲良くしてあげる。なんて気持ちはどこにもなく、単に仲の良い兄弟になっていたけれど、あれは、祖母の言い方の癖のようなものだったのだ。
それでも、侘助にとっては、大きな転換だった。
兄で、仲良くしてあげる、人間。それは、今までの侘助とはまるで違う立場だったのだ。
この人が、そう言うなら、きっと仲良くしてあげよう、侘助はそう決めた。
「僕、理一。よろしく」
家族に紹介された後、理一はそう言ってにこりと笑った。
「うん」
これまでに、自分に向ってこんな風に笑いかける同性の友達がいなかった侘助は、驚いてしまって言葉を失い、それでもなんとか頷くと、理一は嬉しそうに頷いて、侘助の手を引いて、2階の部屋へと連れて行ってくれた。
「僕の隣の部屋が、侘助の部屋なんだ」
後で、家の中、教えるね。と理一は何がそんなに嬉しかったのか、と後々でも不思議に思う程、終始にこにことして、侘助の手を握って歩いた。
「侘助の家は、ベッドだった?」
「布団だけど」
「よかった」
うちはベッドないんだ。と言った理一が開けた障子の先には、本棚と勉強机が壁際に置かれ、部屋の中央には、蚊帳が吊られていた。
「一人だと大変だから、ずっと吊ってあるんだ」
蚊帳、知ってる? と理一は問いかけ、侘助は首を横に振った。
「夏はここで寝るんだよ。虫が入って来ないんだ」
侘助の布団も入れてあるけど、いいかな? と理一は心配そうに問いかけ、侘助は勿論、と頷いた。
誰かと一緒に布団を並べて寝るなんて、これまでになかったけれど、それはとても楽しそうな事だと思えた。
「こっちが、侘助の部屋」
入ってきた障子の左手側にある襖を開けると、その先は理一の部屋と同じ間取りで、同じ配置で机と本棚が据えられていた。
「開けといていい?」
「うん」
侘助は、理一の視線が真っ直ぐ自分を見る事に、少し落ち着かない気持ちになりながら、でも俺がお兄ちゃんなんだから、と理一の提案を受け入れる。
理一は、他の誰とも違う。おばあちゃんの手も温かかったけれど、理一の手もいいな、と思う。本当の一番は母だけれど。侘助はほっと息をついた。
理一とは仲良くなれそうだと出会ってすぐに思った侘助だったが、数日後には、姉の理香ともなんとかやっていけそうだと思った。
二人の母とは少しぎこちないが、彼女は侘助にも母として対応してくれているのはわかった。祖母は出会った時と同じく暖かくて優しく、侘助が傍へ行けば、いつでも迎えてくれたから、傍で時間を過ごす事も多かった。
「理一、お友達が来てるわよ」
理一と二人、庭の畑で茄子を収穫していたところへ、理香がそう告げにきた時、理一の表情が少しぎこちなくなったのに侘助は気付いたが、理香は気付かないようで、そのまま家の中へ戻っていってしまった。
「理一?」
どうしたんだろう。もしかして、理一をいじめる奴がいるんだろうか。侘助はそう思い至って、自分が何とかしてあげなくちゃ、と決意する。だって、自分はおばあちゃんに理一をお願いされたのだから。
「俺も一緒に行ってやろうか?」
ここへ来てから間がない侘助には、近隣の友達もまだいない。理一と二人で出掛ける時に、理一の友達に会って挨拶するくらいだ。多分、そいつとはまだ会っていないんだろうと侘助は思う。だって、道で会う理一の友達は皆、意地の悪い事を言う奴はいなかった。理一もいつも楽しそうに喋っていたのだ。
「うん」
理一は侘助の提案にほっとしたように笑ってみせて、侘助は自分の想像は外れていなかったようだ。と自信を持った。
理一の手を引いて、庭から玄関の方へ回った時、侘助は首を傾げた。
玄関の前で待っていたのは、毎日のように会う少年だった。理一と二人でお使いに出たり、遊びに出掛けたりすると、必ず声を掛けて来る少年で、理一は楽しそうに話をしていたはずだ。
「あいつだけかな?」
「うん」
それでも理一はあまり気乗りしない風で、侘助はどういう事だろうと思いながら、理一の手を引いて少年の前へ立った。
「侘助も一緒?」
「うん」
少年の前に立ったのは、いつもの楽しそうに笑う理一で、侘助はその変化にびっくりしてしまったが、少年がそれに気付いている様子はなかった。
「宿題、どうしてるかな、と思って」
「今日の分は、もう終わったよ」
朝のうちに、侘助とやったから。と理一が答えると、少年は少し残念そうに頷いた。
「明日、夏祭り、行くよね?」
こいつは、理一と一緒にいたいんだな、と侘助はその様子を見て思う。けれど、どうも理一はあまり気乗りしていないようだと、侘助には見える。
この家に来る前から、周囲の表情を観察してきたせいで、侘助は僅かな表情の違いも、注意していれば見逃す事はあまりなかった。それが、初めて会った人間の方に注意していたせいで、理一の変化に気付かなかったんだと気付き、本当は、理一こそちゃんと見ていてあげなくちゃいけなかったのに。と侘助は自分の失敗にがっかりする。
「ばあちゃんが、浴衣縫ってくれたからな」
昨日の夜、理一と侘助と理香と、揃って誂えてもらったところだ。理香は従姉妹の直美と一緒に行くのだと言っていたけれど、理一は特に誰と、とは言っていなかった。
「皆で、待ち合わせして行こう、って言ってるんだ。明日の6時に、うちの前。来れる?」
「うん」
「侘助も一緒においでよね」
お前に言われることじゃない。と腹の中で思いつつ侘助が頷くと、つないでいた理一の手に少し力がこもったのがわかった。
やっぱり、理一はこいつの事好きじゃないんだ。と侘助は理解する。
これまで毎日会ったけれど、理一がこの少年の話をするのを聞いた事はない。勿論、道で会ったくらいの事を報告することもないけれど、それにしたって、ないだろうと思う。
「じゃぁね」
少年は伝言だけ置いて走り去っていき、理一は侘助を見てにこりと笑った。
「夏祭りは、神社でやるんだ。屋台とか出てね、楽しいよ」
おばあちゃんが、お小遣いくれるんだよ。と理一は言って、来た道を戻る。
あいつの事嫌い? なんて聞ける程、まだ理一の事がわかっているわけじゃないけど、あいつは要注意。侘助はそう心に留めて、理一はお兄ちゃんの俺が守ってあげなくちゃ。と決意する。
「皆って?」
聞くと、理一は幾人かの名前を挙げる。それは、侘助も既に挨拶程度は済ませている少年たちで、理一は友達沢山いるんだな、と寂しい気持ちで侘助は思う。
「侘助、一緒でも平気?」
「理一がいるんだろ?」
だったら、俺はそれで十分。そう思いつつ言えば、理一は嬉しそうに大きく頷いてみせた。
「侘助って、手をつなぐの好きだったよね」
ひょい、と伸びた手が自分の手を握るのを見ながら、侘助はそういえばそうだったかもしれないと思い至る。
鮮明に覚えているのは、真っ青の空と温かい手。離すまいと握り直すと、ちゃんと握り返してくれた。
繋がっている間は大丈夫。あの時、自分の中にそんな事が焼き付いたのかもしれないと侘助は思う。
「お前だって、俺の手握ったじゃねぇか」
初めて会った時、理一は侘助の手を引いた。自分と変わらない大きさの、ちょっと温かい手だった。
「迷子になったら大変だろ?」
理一はそう言いながら、嬉しそうに笑っていて、人の事言えた義理じゃねぇだろ。と侘助は思う。
その後だって、理一はよく侘助の手を引いたし、侘助が理一の手を引くのも嫌がった事なんてなかった。
あの年頃にしてみれば、兄弟だとしても手を握って歩くなんて珍しい事だと思うのだけれど、当時の二人はそれに何の違和感も感じていなかった。
それから半年も過ぎた頃には、そんな事もなくなっていたけれど、時々、ふとあの手を握ってみたいなと思う事はあったように思う。
一人でアメリカに渡った時も、祖母の手や理一の手の感触や、理香の自分を叱る声をふと思い返す事もあった。
侘助にとって、初めての賑やかな夏休みは、その後のどんな楽しい時間より、特別で鮮明に記憶に残る時間だった。
「そういえば、理一が嫌ってた奴いただろ? あれ、なんだったんだ?」
あれから、理一を観察するようになって、はっきり理一が嫌っている様子を見せたのは、彼くらいのものだった。と言っても、理一は自分を嫌っている人間の事は全く相手にしなかったから、それらも嫌っていると言えば、嫌っていたのかもしれないけれど。
「そんなのいたかな?」
誰の事だろう。と呟いて思案する姿に、こいつ、意外に好き嫌い激しいのかも。と侘助は驚かされる。
いつも穏やかな顔をして人と対しているから、人の好き嫌いなんてあまりしないんだと思っていたが、とんだ勘違いだったのかもしれない。
「うちから少し下った辺りに住んでた奴」
侘助にしても、彼の名前をもう覚えてはいないから、その程度の付き合いだったと言ってもいいのだけれど、理一は暫く考えてから、ポンと手を打った。
「幼稚園の頃は普通に楽しく遊んでたんだけど、あの頃からやたらと順位を付けたがって。段々面倒になってきたんだよ」
理一は小学生の頃から、勉強のできる子供だった。侘助も、周囲の予想を裏切って、勉強のできる子供だったから、あまり周りとの差を気にかけた事はなかったが、小学生も高学年になってくると、周囲との違いを気にする子供も出てくる頃だったかもしれない。
「ああ、そういえば」
お祭りの金魚すくいや射的だって、やけに結果を気にしていたような記憶がある。
あの頃は侘助も劣等感の固まりのような子供だったから、他と比べる習性はあったけれど、それで自分が劣っていない事にほっとするのが常だった。その点、あの少年は優位性を誇るタイプだったように思う。
「俺の方が上、って言われたら、やっぱりイラッとするからね」
気にはしていないけど、言われれば腹も立つ。その辺は、そもそも対抗意識の高い少年たちの習性のようなものだ。
「でもあいつ、理一の事好きだったろ?」
「俺の事は自分の仲間みたいに思ってたんじゃないのかな。それも不愉快だったな」
選民思想みたいな、特別な自分と同じレベルの特別な人、という認識かと理解して、それは不快だな、と侘助も思う。
選ばれた人間とまでいかなくても、周りより上だと思って得意気になる人間は、不快なものだ。人間誰しも、自分が特別だと思いたいものではあるし、底辺にいない事に安心するかもしれないけれど、やはりそれは心の中で止めておくべき事で、人に誇る事でもない。
そういう行動はみっともない事です。と、侘助も理一も、祖母や母に教えられてきた。だから、そういう人間と同じだと思われるのだって不愉快だ。
「侘助が来て、本当に良かった」
ぎゅう、と握られた手に驚いてその顔を見返せば、子供の頃に見たような笑みを浮かべた理一がいて、侘助は気恥ずかしくなって頷くので精一杯だった。
思えば、あの頃から自分は理一の事ばかり気にしていたのかもしれないとおかしくなる。いつから兄でなくなって、いつから兄弟でもなくなったのかはよくわからないのだが、初めて会った時から、理一も特別だったのは間違いない事のように思う。
「……ふぅん」
どうやら、今ひとつこちらの気持ちは伝わっていないようなのだけれど。とその手を握り返してやりながらため息をつく侘助は、自分が理一に好きだという言葉さえ言ってない事に気付いてはいなかった。
初対面のお二人さん
なんとなく、理一は嫌いな人と初対面の人程、親しげに振る舞う人ではないかというイメージがある。何の根拠もないんだけど。
映画の中で、一度も侘助に近寄ってないので、そういう事にしたいというのもあるかもしれないけれど。
でも絶対、太助さんの事は好きだと思う。オタク仲間。うちの理一が一番懐いているお兄ちゃん。その辺の話はまた後日。
(2010.2.17)