理香と今後を話し合った理一は、リビングの前の廊下で立ち塞がる侘助を見て、次はこれか。と小さくため息をついた。
「ただいま」
先手を打ってそう言えば、侘助は一瞬びくりとしてから、聞こえるか聞こえないかの声で『おかえり』と言った。
侘助がいるから? 姉の先程の言葉を思い出して、理一は首を傾げる。侘助がいるから、なんだったんだろう。
理一は侘助に遠慮をした事なんてない。侘助が結婚をしないと、自分がしてはいけないなんて考えた事もない。別に、理一が結婚しないからって、侘助が結婚してはいけないと言われる事もないだろう。ならば、理一が侘助に気を遣う事なんて何もない。
でも、そんなのは姉はよくわかっているはずで、きっとそういう事ではないのだろうな、と思う。
「ちょっと、こっち来い」
理香と同じように顎で示した侘助に、これ、俺もやるなぁ、と理一は思う。けれど、母も祖母もこんな事はしないから、これはどこから来た癖だろうかと考えながら、理一はリビングのソファに腰を下ろした。
「それで、俺はお前の所に住む事は可能なのか?」
「……あの部屋には無理じゃないか?」
それでもなにも、前置きもないのにこの切り出し方は何だろうか。と理一は思う。
現在理一は単身用の官舎暮らしだ。流石に、男二人が暮らすには狭いと言う他はない上に、あの騒動を起こした侘助である。部屋が広かったとしても、同居人として許されるものかは微妙なところだと思う。
「突然どうしたんだ?」
侘助が日本へ帰って来てから、時々理一の官舎に顔を出す事はあり、泊まっていく事もあったが、そこに住みたいという意思表示はなかったように思う。侘助が泊まりに来るのは、母や姉の厳しい目を離れ、怠惰な時間を過ごす為だろうと思っていた程だ。
「お前、この家を継ぐ気はないよな?」
「ないよ」
それは先程姉と話もしたから、もう隠す事もない事だと、理一は素直に頷いた。
「理一に、俺の奥さんになってほしいんだけど」
なんだろう、これ。更なる話題変更に理一は一瞬空白を抱え、ふと先程の姉の発言を思い出した。
『侘助がいるから?』
侘助と自分の間に何があると、あの姉は思ったというのか。
侘助と暮らす為に、あの家の跡を継ぎたくないと言っていると思われたという事か、という考えに至り、理一は姉の部屋に駆け戻りたい衝動にかられる。
そんな話、あるわけがない。けれど、姉があの問いを先に発したという事は、姉と侘助の間で、自分に関して何らかの話し合いがあったという事だと推測して、理一は目の前の侘助を観察する。
向かいのソファに座る侘助は、どうにも口調は軽く、言っている事は常識から外れているが、本気らしいという事は、その目の泳ぎ方と軽く震えているように見える拳でわかった。
「なんで、俺?」
侘助の主張のどこにどう突っ込んでいいかわからない理一は、とりあえずそこに突っ込んでみた。
「俺が、理一以外の誰を選ぶ可能性があるって?」
それは確かにないかもしれない。理一がそう思う程には、侘助の交友関係は狭い。
アメリカでどうだったかは知らないが、日本にいる間は、研究で関わりのある人間は、研究以外では関わりがなく、研究以外で関わりのある人間と言えば、ほぼ身内だけ、というのが侘助だった。
それでも侘助は中学、高校と意外に女子生徒には人気だった。本当は単なるおばあちゃんっ子なのだが、ちょっと捻れた空気がいいとか、むしろ理一よりも人気があったと言える。
理一はそんな侘助を、ちょっと羨ましく、ちょっと誇らしく思っていたのだ。
そんな侘助が、40も越えたところで、理一を奥さんにしたいと来たものだ。どう返すのが最適なのか、流石の理一にもわからない。
「それとも、お前、恋人がいるとか?」
「いないけど」
それは結婚したら負けだから、避けていたところではあるが、まるきり浮いた話がないわけでもないとは主張したい。
「俺くらいだろ。理一の事、丸ごと全部、問題なく受け入れられるのは。」
選ぶのは俺じゃないのかな。と理一は自分を丸め込もうと頑張る侘助を見て思うけれど、その言い分には頷かずにはいられない事実も含まれている。
理一に言わせれば、侘助を全部容認できるのはもう自分位なものだ、と思うところだが、侘助の言う通り、あれこれと周囲に隠し事をする理一を、それでも容認できるのは、自分にも隠し事のある侘助くらいだろうとも思う。
だからと言って、じゃぁ、侘助の嫁になりますと言う程、理一は侘助を特別視してはいない。
当然、一緒に育ったのだから、理一の中では侘助が一番自分に近いが、侘助がそう認識しているかどうかなんて、怪しいものだと思っていた。
侘助の特別はいつだってたった一人のおばあちゃんだ。侘助の中で彼女は、母でもなく祖母でもなく、女神様のようなものだ。どうしたら、あんな風に誰かを見つめられるのだろうと理一は不思議に思っていたし、いつか自分にもそんな相手が見つかるのだろうかとも思っていた。
そしてそんな侘助の纏う空気は、祖父が祖母に向け、庭の朝顔たちに向けるものとよく似ていたから、なんとなく、寂しいような、残念なような、何とも表し難い気持ちで祖母と侘助を眺めていた事もあった。
「だから、とりあえず、同棲という事で、お互いの理解を深めようじゃないか。理一君。」
なに、それ誰かのマネなの。と内心で突っ込みながら、理一は侘助の様子を伺う。
「とりあえず、住む場所を探す事から始める必要があるけど?」
家族用の官舎があるにはあるが、親ならばまだしも、叔父というのは実際微妙な立場だと思う。それに、なんと言っても侘助だ。そうそう簡単に、人の頭の中からあの夏の騒動が消えるわけもない。
侘助の存在が周囲に影響を与えるという事はないだろうが、再度侘助の作ったプログラムが問題を起こしたりした時、それを開発したのが官舎の中では、流石に外聞が悪いというものだ。たとえ空いていたって、空いていませんと言われるだろうとは予測がつく。
「適当に探してくれればいいぜ。買うわけじゃねぇんだろ?」
まだ転属があるかもしれない身では、住まいを買う気にはなれない。それに、侘助と暮らす家を買いました。というのは、何と言うか、相当寒い話だと思う。
それにしても、急にこんな話をするなんて、なにかあったのだろうかと疑問に思う。
日本に帰って来て、まずここに帰ったという侘助に、理一は正直驚いた。てっきり東京に居を構えて、時々上田に帰る程度だと思っていたのだ。
侘助も、変わって来ているのだ、と思っていたが、やはりまだ、慣れるには時間が掛かる事なのかもしれない。
「お前も少しは考えろよ」
同棲しようとか言っておいて、あとは任せますとは、随分やる気のない話だな、と思うけれど、侘助は住まいの事など気にした事もないだけなのだとは理一にもわかる。その辺は、大学生の頃と少しも変わっていないのだろう。あの頃も、不動産屋に勧められるままに決めたと言っていたように思う。
「家の事なんてよくわかんねぇし」
侘助はそんな事を言いながら、ほっとしたような表情を浮かべたから、奥さんとか同棲とか、そんなのは適当な言い分で、単に東京で暮らしたいだけなのかもしれないな、と理一は思う。
きっと、暫く一緒に暮らせば、侘助が何をほしがっているのかは見えて来るはずだと、理一は嬉しそうに笑う侘助を見て思うのだった。
次は侘助
侘助は多分、自己完結暴走型の人なんだと思う。
自分がこうだと思ったら、周りに説明するのも、周りの言葉を聞くのも、途中で投げるような。
多分、誰とも正しくコミュニケーション取れない。そんなイメージ。
(2010.1.28)