時々、突然、あの顔を思い切り殴り飛ばしたら、随分すっきりするだろうな、と思う事がある。
暴力はいけません。という教育を受けてきたから、その想像を実行に移した事はないけれど、彼の顔が歪んで、泥まみれで転がる姿を想像した事はある。
何故、そんな事を思うのか、よくわからないのだけれど、とにかくそれは突然起きる事で、そして、割と昔からある衝動だった。
「なにしてんの?」
縁側に腰を下ろして、ぼんやりと外を眺めている弟の姿を見つけて、理香はそう声を掛けた。
「ん? うん」
理一は後ろに立つ姉を見上げて、首を傾げる。
「何よ、変な顔して」
戸惑う表情は、その前になにか苛立っていたのか、と思う程度にどこか険しい。
理香はあまり理一が怒ったところを見た事がない。それは、理香が自分に声を荒げる事など理一に許さなかった事も理由ではあろうけれど、そもそも理一はあまり怒ったりしない性格だった。
「時々、あの顔を殴りたいなぁ、って思う時があるんだよね」
そう言って視線を戻した理一の見る先には、一緒に帰ってきた侘助の姿がある。
帰ってきてまず母に挨拶をして、それから仏壇に手を合わせて、その後は庭に出てハヤテで遊び始めるという、どうみても子供の行動を躊躇わないその男は、こちらの様子に気付いている様子はなく、ハヤテにボールを拾わせてご満悦だ。
「あんたがそんな事言うなんて、珍しいわね」
暴力的な侘助と、非暴力の理一。というのが、周囲の一般的な認識だ。といって実際、侘助が誰かを殴った事なんてないのだが、周りを威嚇しまくる態度に、そんなイメージが定着したものと思われる。
「言わないだけで、割と考えてるよ」
腹の立つ上司とか部下とか。歪んだ顔を想像して怒りを収めるなんてよくある事だ。社会人ともなれば、簡単に人を殴る事なんて許されないし、立場と腕力を考えれば、顔が歪んでおしまい、という事に落ち着いてくれるかどうかも謎だから、行動に移したりはしないけれど。
「そうなの?」
「うん」
姉や母を殴るなんて考えた事もないけれど、腹が立ったら殴りたくなるのはごく自然な衝動だと理一は思う。
ただ、侘助は別だ。侘助を殴りたくなる時には、何の理由もない。ただ突然、ああ、殴りたいな、と思うのだ。
「なんで殴りたくなるのか、理由もわからないんだけど」
今日ここへ帰るのに侘助が反対した事もなければ、ここまでの車の運転だって何のトラブルもなかった。途中で止まったSAで土産を買うべきかな、なんて侘助が言い出した事には驚きと感動を覚えた程で、ストレスがたまるような事だってなかったのに、と思う。
「私だって、あいつの事は殴りたくなる事あるけど?」
理香は理一の隣に腰を下ろして、庭で遊ぶ侘助を眺める。
侘助が理一と暮らすようになって、親戚たちは少し驚いた様子を見せたけれど、仲のいい兄弟だったから、それもありかもしれないな。という認識に落ち着いたようだった。
理香も母も、侘助の存在が理一の邪魔になる事がないのなら、別に構わないだろうと思った。
増々この二人は結婚から遠のいたなとは思ったけれど、侘助が結婚をしたいと思う事があるのかどうかも疑問だったし、あれを一人で放っておくのも心配だけど、本当は理一だって心配だと思っていた理香は、侘助の理一に対する執着に望みを託す事にした。
以前に侘助と言い争いになった時に聞いた、俺のもの宣言は、どうやら勢いで出たものらしかったが、侘助と暮らすようになって、理一は普通に楽しそうな顔をするようになったから、何かいい影響があるのでしょうと思っている。
「馬鹿な事したりとかね」
「別に、理由はないんだよね…」
衝動は一瞬である事が多くて、姉と話している今はもう、理一の心は凪いでいる。思い返しても、理由があったようには思えなかった。
「ふぅん…」
あんたは意外に、自分の事に疎いから。と理香はじっと侘助を見ている理一を横目に思う。
昔はそんな風には思わなかったけれど、最近時々見せる表情を思い出すと、自覚がないだけで、何か本当は理由があるのだろうと思う。流石に、それが何かはっきりはわからないけれど、侘助がポイントなのは明白だわ。と理香は庭の侘助を見やる。
「侘助が特別ってことね」
理一は昔、厄介な子供だった。好きな友達も嫌いな相手も、皆同じように対応できる子供だったのだ。
学校で仲が良いと思っていた少年の事を、実は嫌っていたと事を理香が知ったのは、彼との付き合いが6年を越えた頃の事だ。その間にその少年は家にも遊びに来て、お泊まり会なんて事にも普通に参加していた。周囲も、まさか理一が彼の事が嫌いだなんて、思いもしなかった程、理一は普通に彼とおしゃべりをして遊んでいた。
理香がそれを知ったのだって、侘助にあいつの事嫌いだろう、と指摘されているのを通りすがりに聞いたからだ。その点、侘助は理一の好き嫌いに敏感だった。侘助は人の感情を読んで行動する子供だったから、理一の感情にも気付いたのかもしれない。
それを聞いて思い返せば、侘助はその少年が家に来た時は、一時たりとも理一の側を離れず、彼と理一を二人にしようとはしない程で、理香はそれを見て理一を取られたくないのかしらと思っていた程だったのに、よもや理一を気遣っていたとは驚きだった。
「……特別」
ぽつりと呟いて、理一は首を傾げる。
一緒に暮らし始めて、意外に居心地がいい事には安心している。
外に働きに出ない侘助は、洗濯や掃除もマメにする。料理の腕は今ひとつだけれど、理一だって大して変わらないから、文句をつけるような事でもない。
奥さんがどうとかいう話については、まだよくわからないが、とりあえず上手くいっているのではないかと思う。
家にいる時、この衝動はない。勿論、侘助がアメリカにいた時にだってなかった。ただ、こうして侘助を眺めている時に、時々起こる事なのだ。
「……?」
なんだろう、なんだかすごく、恥ずかしい気がしてきた。理一はそう思って姉の様子をちらりと伺う。
「何?」
言いたい事があるならどうぞ。と理香は首を傾げ、理一は思い至った事に首を横に振って頭を抱える。
例えばそれは、庭先で祖母と二人でいる姿を見た時、朝顔に水をやっている姿を見た時、彼女と一緒にいるところを見た時。
そんなの理由なんて一つしかない。これまで考えた事もなかったけれど、突き詰めればそういう事だ。
同じ家で暮らして、二人でここまでやって来て、その間そんな衝動はなかったのに、庭で祖母の犬と遊ぶ姿を見ただけで。
「理一?」
「なんでもない」
なくないけど。
「どうしたのよ」
頭を抱えて、耳まで真っ赤になっている弟に、理香は驚いて声を上げた。
今日は、見た事もない顔をよく見るものだと思う。今の会話で、何に思い至ったかはわからないけれど、何か自覚したらしいとは理解できた。
あまりにびっくりしておかしくて、その顔をもっとよく見てやろうじゃないかと思った理香が手を伸ばせば、理一は頑にそれを拒んで、理香は楽しくて笑いがこみ上げてくる。
「何よ。白状しなさいって」
「なんでもないから」
ないわけないのに、そう言い張りながら逃げようとする理一がおかしくて、わしゃわしゃとその髪をかき回して笑ってやれば、理一は片手でそれを振り払うけれど、顔を上げる事だけは必死に避けてみせる。
そんな二人の様子にやっと気付いたのか、遠くで遊んでいた侘助が何事かと駆け寄ってくる。
「理香、理一に何してるんだよ」
それ、俺のだから。と続きそうなその態度に、理一はガッと顔を上げて立ち上がると、止める間もなく拳を振り上げ、侘助の頬へと叩き込んだ。
攻撃の予測すらしていなかった侘助は、そのまま後ろへ倒れ込み、ぼうと理一を見上げる。
「理一!?」
驚く理香と侘助を肩で息をしながら見下ろしていた理一は、そのまま縁側を駆け出し、侘助は一瞬後に立ち直ってあわててその後を追いかける。
「……え…?」
あれって所謂、照れ隠し。よね。と思い至り、理香は二人の走り去った先を目で追いかける。
突然殴りたくなるのは、侘助が特別だから。そこから導き出された結論に、理香が辿り着くにはもうあと少しの時間が必要だった。
自覚する理一さん
同棲が始まりましたが、どうやら何事もなく、ただの同居らしい。侘助は意気地なしだから、仕方ない。
理香さんはまだ結婚していないようですね。仲のいい姉弟です。
(2010.2.12)