「お前さ、ここで、煙草吸うの?」
テーブルの上に置かれた灰皿を指差して、城之内はそう問い掛けた。
この部屋は、海馬の私室だと城之内は思っていたのだが、いつ来ても、この部屋のテーブルセットにはガラスの灰皿が置かれている。
それを見て、人が殴り殺せそうだよな…とか、誰かにぶつけた事があるに違いない、とか思っている事は、この部屋の主には内緒だ。
「俺は、煙草なんぞ吸わん。」
冗談ではないとばかりに、きっぱりと返されて、城之内は首を傾げた。
この部屋に通される客は少ないのだと、モクバから聞いている。この部屋で昼寝までした客は、城之内が最初で最後だろうとも言われたが、その辺は聞き流した城之内である。
所謂、『身内』と呼ばれる人々が通されるのみで、それでも、その身内は頻繁に訪れるものではない上に数が少ないから、結局のところ、最近この部屋に通されている客と言えば、城之内のみだという話だった。
だからこそ、この部屋の主が使わないものが、ここにあるというのが意外だったのだ。
昼寝をしたのは自分だけ。それは、この部屋に来る客が、海馬に遠慮をする人間だという事だ。そんな人間が、煙草を吸わない主人の前で呑気に煙草なんて吸えるだろうか。
それに、そういう人の為に、わざわざ灰皿を用意しておく海馬というのも、城之内の想像の範疇を越えている。目の前で煙草を吸われたくなければ、灰皿すら用意しないだろう。
「じゃぁ、なんであるんだよ。」
やっぱり、腹が立った時にぶつける為だろうか、と城之内は思った。
以前、窓際の床に転がって寝ていた頃、遠慮なしに蹴り起こされた事を思い出す。あの時、これをぶつけられていたら、無事では済まなかったかもしれないとも思う。
「使う人間がいないとは限らんだろう。」
自分以外にこの部屋に通される人間はいないのだというのが本当ならば、使うかもしれないと想定されている人間も自分以外にいないと、城之内は考えて答えに辿り着く。
自分は煙草を吸わないし、どうやら、表情と声音からして、それを嫌っているらしい海馬が、もしかしたら、自分が吸うかもしれないと思って、わざわざ灰皿まで用意させたというのは、驚きだった。
だってそれは、城之内が煙草を吸うのなら、自分は我慢してもいいという事だ。
あの、自分がルールで、それに外れる人間は蹴倒して進む海馬が、譲歩する相手に、モクバだけでなく自分も含めているのだと気付けば、それはもう、晴天の霹靂、天地がひっくり返るような驚きに近い。
「ふぅん……」
言外に含まれた、吸いたければ吸うがいい。との許しを貰ったという事は受け取ったが、生憎、城之内は煙草を吸わない。それ故に、それじゃ、ありがとう、と言って、煙草を取り出す事はできない。だから、仕方なく、そんな返事を返す事しかできなかった。
そんな城之内を見て、海馬は少し不思議そうな表情を浮かべた。
「お前はどうなのだ?」
やっぱり、間違いなく、自分の為に用意されていたのだと、それで確認して、城之内は首を横に振った。
「俺も、煙草はやらない。」
中学生の頃はよろしくない方向へ進んでいたし、高校に入ってからも厄介な誘いはあったが、それでも、城之内は酒も煙草も薬も手を出してはいない。理由は簡単、金が掛かるからだ。
「意外だな。」
正直な返事に、城之内は苦笑を浮かべる。まぁ、当然のご意見だろう。今時、普通の高校生だって煙草を吸う事もあると言うのに、脇道にそれていた人間が、手を出していないとは思わないだろう。
「俺は、そういう、常習性のあるものには、手を出さない主義なの。」
煙草、酒、薬。中学生の頃、グループの上の方に位置していた城之内は、それを用意させる事は簡単だった。一言、そう言えばいい。城之内が金を出さなくても、下の誰かが金を出す。なければ、誰かからカツアゲでもして作ってきただろう。
でも、それが自分に本当に必要なものだとは、城之内は思っていなかった。
父親はアル中で、酒に対しては、あまりいい感情がないから、手を出したくない。それに、飲んでも美味しくはないし、そんなものにわざわざ手を出して、父親のようになるのは嫌だった。煙草もそれと同じで、手を出したくはなかった。
クスリなんて、更に馬鹿らしくて、それに手を出す人間を、城之内は理解できなかった。高い金を出して、一時いい気分になって、それがやめられなくなって、金がないから誰かから手に入れる。それで報復されたり、補導されたり、なんて馬鹿なんだろうと思っていた。
大体、誰かの金で、いい気分になろうという事自体が、城之内にとって不愉快な事だった。息子に金を稼がせる父親に、どうしたって重なる事だったからだ。
あの頃、何よりも憎かったものと、自分が同じになるなんて、何より嫌な事だった。
「煙草買う金があったら、借金返すか飯を食うのが、俺の生活。」
借金取りは容赦がなくて、給料が入る頃を狙ってやってくる。両親が離婚する前なんて、そりゃもう、酷かった。玄関を蹴りつけるのは当然で、家に上がり込んで、家捜しするような奴らもいた。今考えたら、それは犯罪なのだけれど、その時は怖いのが先に立って、母と妹と共に、彼等が帰っていくまで部屋の隅で震えているのが精一杯だった。
両親が離婚した時、肩代わりをしてくれた親類が、危ない所からの借金を片付けてくれたおかげで、最近やってくる借金取りはそこまでではないが、それでも、きちんと指定日には受け取りにやってくる。時々、準備ができていなくて逃げる事もあったが、僅かでも受け取るまでは、彼等はきちんとやってくるのだから、容赦がないといえば容赦がない。
だって、家の前でごつい顔が待っていたら、御近所さんにも迷惑で、とても肩身が狭いのだ。彼等は、城之内の立場を理解してくれているから、心配してくれるだけだけれど、子供達は不安になると思う。それなのに、その子供達ですら、『克っちゃん、大丈夫なの?』なんて聞いてくれるともう、泣けてくる。
だったら、恥を捨てても、借金は返す。必要ないものは切り捨てて、必要なものだけに金をかける。そう決めたのだ。
「流石に、貧乏人は言う事が違うな。」
鼻で笑うように返された言葉ではあったが、馬鹿にしているのではないのはわかっているから、城之内はそれを聞き流してやった。
海馬は、城之内の現状をよくわかっているらしい。それでも、哀れみで金を用意しようとはしない。
モクバから、報酬だと言って金を貰った事もあったが、あれはどうやら、海馬の指示だったらしい。それでも、その額はそれほど多くもなくて、城之内としては、有り難い事として受け入れる事ができるものだった。
正当な報酬だと主張するなら受け取る。役に立ったかどうかは知れないが、立ったと言うのならば、それはそのまま受け取る。バイトで金を貰う経験のある城之内にとって、それは、受け入れられない事ではなかったからだ。
そういう、城之内の性格を読んでいたのだとしたら、海馬はやはり、一企業を動かしているだけはあるな、と、城之内は思ったものだ。
「それが、貧乏人の心得ってもんよ。」
次に来たらきっと、この灰皿は消えているんだろうな、なんて事を思いながら、城之内はソファを立ち上がった。