バイトを終えて帰った家の台所のテーブルに、突っ伏して眠っている父親の姿を見つけて、城之内は苦笑を浮かべた。
今日は珍しく、酒の瓶も転がっていなくて、その代わりに、どこかで買ってきたらしい、弁当の空箱が脇に置かれていた。そして、突っ伏した腕の下に、明日のレースを大きく取り上げたスポーツ新聞が広げられている。
「……まだ、やってんだ…」
そこへ近寄っても、父親は目を覚ます事もなく、城之内は、適当に畳まれて脇に置かれた競馬新聞を開いて、それを眺めた。
城之内の父親は、ギャンブル好きと言っても、現在は、ごくごく真っ当なギャンブルにしか手を出していない。しかも、競馬、競艇、パチンコの3つだ。賭けマージャンのような、危なげなものには手を出さないようになったらしく、最近は、借金も増えなくなった。
妻にも逃げられ、身内からも付き合いを切られて、流石に、何か考える事があったのかもしれないし、そちらの方が金が手に入るだけかもしれないが、その辺りのことは、城之内にわかる事ではなかった。
両親が揃って暮らしていた頃から、父親がそれらに手を出しているのは、城之内も知っていた。競馬場に連れていってもらった事もあれば、パチンコ屋についていった事だってある。
でも多分、そんなのは、大して珍しい事じゃないし、母親も認めていた事だった。本当に、家族4人が仲良く暮らしていた頃は、それだって、楽しみの一つだったのだ。
G1レースの時だけだったが、父親の買ってきた競馬新聞に印をつけて、お小遣いから静香と二人で合わせて五百円を出すことにしていた。当日、父親が母の分と合わせて馬券を買いに行ってくれた。当たれば、配当金はきちんと二人に戻ってきて、二人で揃ってお菓子を買いに行ったりした。母と静香の3人でテレビで競馬中継を見て、父の帰りを心待ちにしている間は、本当に楽しかった。
それが、どうしてこういう状況になったのかと言えば、収入もないのに賭けにかける金を減らす事をしなかったせいだと、城之内は母方の伯父から聞いていた。会社をクビになって、それを告げる事もできず、消えた稼ぎをごまかす為に、リスクの大きいギャンブルに走ったらしい。
胴元のいる賭事など、そこが損をしないようにできているものなのだ。それにも気付かずに、借金までした頃には、何の為に賭けに走ったかすら忘れていたようだ。
結局、その借金の取り立てが家に押し掛けてやっと、父親が職場をクビになっている事に気付いたのだから、家族として、情けない話ではある。
川井の親類は、父親が酒に酔って息子や妻に手をあげるようになったと聞くに及んで、借金の肩代わりと交換条件に、母との離婚を承諾させたらしい。そして、静香は母に引き取られ、城之内は父親の元に残った。
『お兄ちゃん、早く迎えに来てね。』
借金が返済されたら一緒に暮らせると聞かされた静香は、そう言って城之内と父に手を振り、それを聞いた父親は、残された幾らかの借金返済を息子に投げやった。
小さな娘の言葉に他意などない。それを、自分には何の期待もされていないのだと受け取ったらしい。その後、城之内は、何かある度に、借金を返して妹を迎えにいってやれと、言われたものだ。立ち直る為にと望みを賭けて残された借金は、結局何の役にも立たず、城之内家の家計を逼迫させるだけとなった。
テーブルの上に転がった、赤いマジックを手に取りかけて、それと一緒に転がっていた青いマジックを見つけて、それを手に取った。
「……一番人気は、好きじゃねぇんだよな…」
あれこれと考えながら、青いマジックで二重丸を二つ付け、財布の中から五百円玉を一枚取り出し、チェックした表を上にして畳んだ新聞の上に置いておく。父親がそれに気付かない事はないだろうが、それで馬券を買うかどうかは保証はなかった。
それでも、なんとなく、そうしたい気分だったのだ。時には、自分だって、小さい頃の自分を思い出す事だってあるのだ。
「親父は、昔から、手堅く一番人気狙いだったよな。」
突っ伏している新聞につけられた、赤いマジックの印を見て、城之内は笑みを浮かべた。珍しく、一番人気以外に、穴狙いの馬に印がつけられている。
「今週は、金ないのかよ。」
台所の棚に入れてある財布の中身は、先週空になっていた。そこにあるのは、どちらが使っても構わない金で、城之内が稼いだバイト代から、家賃などの生活費と、学費、借金の返済分を差し引いた分を入れている。
城之内家の銀行口座の、キャッシュカードと通帳、銀行印は、城之内が管理していて、父は銀行口座の中にある残金を引き下ろす事ができない。だが、それで、金がないと言って犯罪に走られても困るため、その財布を城之内が用意したのだ。父親は、それに文句一つ言わず、黙って頷いただけだった。
その父親は、自分の飲み代などの生活費は、自分で稼いで作って来る。だが、それがうまく行かなかった時だけ、その財布の中身を持っていき、何らかの方法で増やして使っているらしい。そして、儲けが出た時などに、その財布の中身を増やしておくのだ。
時々、城之内が驚くような額が放り込まれている時があり、そういう時だけ、城之内は、その中身を幾らか自分の懐へ入れたり、借金の返済に当てたりする。
真正面から、自分に金をやる事もできなければ、借金を返しにいく事もできない父が、時々まともな頭に戻って、何らかの行動を取りたくなるのだろうと、城之内は読んでいたが、多分、それが間違いでないという自信もあった。
本当に時々だけれど、そんな父を見ていると、自分達は、もしかしたら、まだやりなおせるのではないかと思い、そんな期待があるから、父親を見捨てる事もできないでいる。
空になった弁当の箱をゴミ箱へ捨て、城之内は自分の部屋へ足を向けた。
「腹が減っているのか?」
怪訝そうに問いかけられて、城之内は首を横に振った。
「なんで?」
どうして、その質問が来たのかと思って問いかければ、海馬は呆れたような表情を浮かべて、城之内の手元を指で示した。
「食事前に、パンなど食べはじめれば、誰だってそう思うだろう?」
カサカサいう音に反応して、視線を向けた先に、『クリームパン』と書かれた袋を開けて、中身にかぶりついた姿があったのだ。ここへ来れば何らかの食べ物が出される事を、城之内は経験上知っているはずで、それなのに、食べる物を持ってきたとなれば、相当腹が減っているのだろうと、考えるのは、当然の筈だ。
「ああ……これ、賞味期限が今日だから。」
一日過ぎれば腐る物でもないのだが、食パンと違って、中身の入っているパンには、不安もある。ならば、食事の前に食べてしまおうと、城之内は思ったのだ。昼食にしてもよかったのだが、何となく、食べる気にならなかった。
「わざわざ、買って来たのか?」
「買ってもらった。」
もぐもぐと食べ進めながら城之内は答え、海馬はその返答に違和感を感じた。
答えた城之内の声は、どこか嬉しそうで、それでもそれは、随分控えめな様子でもあった。もし、それを買ったのが、遊戯やほかのオトモダチであったなら、そんな控えめな喜びは示さないのではないかと思ったのだ。実際、昼食を奢ってもらったなんて話になった時は、満面の笑みで自慢する程だ。
「誰にだ?」
「おとーさん。」
へへ、と、笑うその様子を見て、首を傾げた。噂によると、その人物は、酒乱で息子に暴力を奮うような人間ではなかったか。と。
「父親が、わざわざ、クリームパンなど買ってきたのか?」
「そう。昨日のレース当たったから。」
昨日のレース。というのは、多分、競馬のG1レースのことだと、昨日、城之内が見ていたテレビ番組を思い出して推測する。確かに、城之内はレースが終わった後に、拳を握っていた。
「……それでどうして、クリームパンなのだ?」
「クリームパン嫌いなの?お前。」
すっかりそれを胃に納めてしまった城之内は、不思議そうな顔で問い掛けた。
海馬の口から、『クリームパン』という言葉が出るだけで、何故か、笑える。海馬瀬人とクリームパン。なんとも似合わない。海馬瀬人とクロワッサン。だったら、なんとなく、合わないでもないような気がするが、あんぱんとかクリームパンとかは似合わない。
「最近は食べていないな。」
海馬になる前は、施設にいたりしたのだから、普通の生活をしていたのなら、食べた事はあるはずだと、城之内も思った。海馬経営の施設とは言えども、生活水準はそれ程高くもなかった事だろう。
「で、理由は?」
「………あいつ、時々、昔に戻ったみたいに、俺がガキの頃に欲しがった物とか、買ってくるんだ。」
では、子供の頃の城之内は、クリームパンが好物だったのだな。と、海馬は思った。今でも、甘い物を喜んで食べているから、それもありだろうと思う。
「パチンコで儲けたとか、競馬で当てたとか、なんかのきっかけで、突然、昔を思い出すのか知らねぇけど、ガキの俺に、土産買ってくれるんだよ。」
競馬場へ連れていってもらうと、必ず、クリームパンと牛乳を買ってもらった。自分がいると、当りが来るとか言って、馬券を買う時も、自分にさせたりしたのを、城之内は覚えている。
「………そうか。」
あの控えめな嬉しさの表現は、そのせいかと、海馬は納得した。
借金を自分で返そうとしない父親でも、親なのだと言って、代わりに生活費まで作っている彼は、それでも、父親に対して、期待をしているのだろう。だから、昔のように行動する父親が嬉しいということだ。
「だから、俺、今日はちょっと、いい気分なんだ。」
父親は城之内の置いておいた五百円玉と青いマジックの印に気付いたらしく、今朝、部屋を出ると、ドアノブにビニール袋がぶら下げてあり、その中に入っていたのが、配当金とクリームパンだった。
それで、父親が昔のことを忘れてなどいない事がわかり、城之内には、予想が当たった事よりも、自分達は、まだ大丈夫だと、そんな事を考えて、そちらの方が嬉しかった。
「流石に、お手軽だな。貴様は。」
呆れて馬鹿にするようなその声も、どこか楽しそうにも聞こえて、城之内は笑って、ソファの背に体を預けた。
「お前と違って、貧乏人だからな。」