失くせないもの



「ねぇ、兄サマ。城之内が、お母さんの話した事ってある?」
 久しぶりの兄弟揃っての夕食の時間に、モクバが躊躇いがちに問い掛けた言葉を聞いて、彼は記憶を探って首を横に振った。
 当然のような顔をして、城之内がこの家を訪れるようになってから、2カ月程になる。前半分は、海馬はそれを知らずにいたが、それでも1カ月もほぼ毎日、時間にしては短いが、何らかの会話を交わしていれば、家族の話が出る事もある。
 だが、記憶を探っても、そこに『母親』という言葉が出てきた事はなかった。
 高校生にもなれば、嬉しそうに母親の話をするのはかっこわるいという気持ちもあるだろうし、傍にいない母親ならば、これといって話題にならなくてもおかしくはない。
 だが、その母親が連れていった妹の話は、呆れる程に出てくるし、褒め言葉が混ざる事はまずないが、時折、父親の話が出る事もある。そうなると、敢えてその話題を避けているように思えなくもなかった。
「何かあったか?」
 モクバには、当然だが、母親の記憶はない。写真を見せた事はあるが、顔がわかるだけのことだ。だからなのか、時折、母がどんな人だったかを聞くこともあった。しかし、そんな海馬自身も、母と共にいた期間は短く、あまり多くを話してやる事もできないでいる。
「この間、城之内のお母さんはどんな人だったか聞いたんだ。そしたら、なんか変な顔して、優しかった、しか言わないんだぜ。」
 その言葉を聞いて、やはり、彼は母親の話題を故意に避けていたのだと、海馬は思った。幾ら何でも、母親を語るのに、『優しかった』だけはないだろう。城之内の性格からして、ついでに、どんな事をしてくれたとか、話題を膨らますのが当然の筈だ。それでは、モクバが気にしてもおかしくはない。
「あれは、生活も脳の中身も貧困だから、女を褒める言葉を知らんのだ。一つでも出た事を褒めてやれ。」
 適当に話題の方向をずらしてやれば、モクバは素直に頷いた。
「悪口は、あんなに沢山出てくるのにな。」
 モクバはそう言ってから、目の前の兄も、罵倒の言葉なら、呆れる程に並べ立てられる事を思い出し、小さく息をついた。悪口を言うのはよくない事だけど、でも、褒めるよりもずっと簡単なのだと、思い知らされたような気がして、なんとなく、気が重くなる。
「お前は、あんな人間になるなよ。モクバ。」
 兄の、自分を棚に上げた発言に笑って頷きながら、せめて自分は、人を沢山誉められるようになろうと、モクバは心に決めた。
 
 
 
 
 
 いつものように、ぼんやりとソファの上で膝を抱えている城之内を見て、海馬はふと、先日のモクバとの会話を思い出した。あれ以来、モクバはその話に触れる事はなかったが、思い出せば気に掛かり、海馬はそれを問い掛けた。
「両親が離婚してから、父親の元を出ていこうと思った事はないのか?」
 城之内は、その問い掛けに首を傾げて、その発言の意図を探るように、海馬を見返した。
 両親が離婚している事も、借金がある事も、全く隠していないため、今更、何でそれを知っているのかと問うのも馬鹿らしいが、そんな事を聞いてくる意図はわからなかった。
「出て、何処に行くんだよ。」
 両親の離婚は、城之内が10歳の時に成立した。小学生に一人で生きていく手段などないし、そんなことは、城之内の頭の中には、欠片も出てこなかった考えだった。
「母親の元へ行くとか、できただろう?」
 海馬は、その返答が理解できず、そう問い返した。
 人伝の噂にすぎないが、城之内の父親が、子供に手を上げた事はあったらしい。借金を作った夫に呆れはてて妻が出ていったのだとか、夫の暴力に堪えかねて妻が逃げたのだとか、いう話だ。ならば、その暴力をふるわれていたという城之内が、母を頼るのは、おかしな事ではないと、海馬は思っていた。
「できねぇよ。」
 どこか、傷付いたような表情を浮かべて返された答えに、更に戸惑い、海馬は黙って城之内の様子を伺った。母親の話題を避けたり、父親のことはどこか楽しそうに話したり、城之内の考えは、海馬にはさっぱり想像がつかなかった。
「それでもう一度捨てられてくるのか?」
 どんなやり取りがあって、自分が父の元へ残ったのか、それは城之内の知るところではなかった。でも、一度だけ、酒に酔って気弱になった父親が、泣きそうな声で、城之内に言った事があった。
『お前も俺も、あいつに捨てられたんだよ。』
 ああそうか、と、その時の城之内は思ったのだ。
 自分が、父の傍を離れないのも、妹を思い出しても、母を思い出さないようにしていたのは、捨てられたと思っていたからだと。
 今も、城之内は、妹の静香には会うが、母には会わないようにしている。嫌いなわけではないし、恨んでるわけでもない。でも、一緒に暮らしていた時のようにはいかなかった。
 会っても、お互いどこかぎこちなくて、言い様もなく気まずくなるから、会わない方がいいんだと思い知らされてからは、お互いに避けていると、城之内は感じていた。
 嫌ってる父親とは、喧嘩していても、殴られても、気まずくなんてならないのに、母親とは、ただ会って話をするだけで、気まずいのだ。母親は息子を捨てたのだと思い、息子は母親に捨てられたと思っているから、言葉は少なくなり、話題もなくなる。
「……城之内。」
 膝を抱える腕に力が入るのが見て取れ、海馬は椅子を立ち上がり、ソファに足を向けた。
 まさか、ここまでの反応が返るとは、思っていなかったのだ。母親の話題の出ない理由の一端でも垣間見えるかと思っていただけだったのに、立ち入るべきでない部分の質問を向けたかと、自分の失敗にやっと気付いた。
 親がいないのは自分も同じだと思っていたが、親と死別した海馬と、親が離婚して離ればなれになった城之内とでは、事情はまるで違うのだということを忘れていた。
「俺まで、親父を捨ててくわけにいかねぇ。」
 酒に頼ったり、ギャンブルに頼ったりして、必死に足掻いている父親を、好きだと言うのは躊躇うけれど、それでも、あれが自分のたった一人の親で、今でも、昔のように戻ってくれないかと、期待までしてる。
「………そうか。」
 失くすものは後一つだけだと思っているのだろうと、思った。自分にはモクバしかいないのと同じだ。クズでろくでなしだと口では言っても、親は親。何もしてくれなくても、保護者であってくれたのはたった一人。そういう事なのだろう。
「あいつ、俺の父親だから。」
 一瞬前までの暗くて力のない声とは打って変わって、へらりと笑って、そう言った言葉に、微かに柔らかい感情を見つけて、海馬は少々驚いた。
 他人から見れば、切り捨てて当然としか思えない者でも、本人達の間には、何らかの重要なつながりのようなものがあるらしい。
「俺には、わからんな。」
「だろうな。」
 わかってもらえなくてもいいのだと、苦笑を浮かべた城之内が思っているのは、簡単に知れた。
「自分の役にも立たないものなど、切って捨てればいい。」
「じゃ、お前、モクバを切り捨てられるか?」
「モクバは、そういうものではない。」
 役に立つとか立たないとか、そういうものではなく、モクバは自分に必要な存在だ。そんな事を忘れていた時期があった事が、今でも信じられない事がある。
「そういうもんなんだよ。あんなでもさ…」
 自分がここまで来るのに、絶対に必要だったのだ。自分を傷付けたとしても、それでも、いなくてはならなかった。それは、間違いない事だ。この先も多分、いなくてはならないと思う。
「………馬鹿みてぇだけど。」
 父にも自分が必要だろうと思う。生活する為にとか、そういうんじゃなく、自分は絶対に、必要だと思う。妻に逃げられて、息子に八つ当たりしたり、酒に逃げたりするしかできない奴だから、絶対、自分が必要だと思う。そう、思いたい。
「本物の馬鹿だな。貴様は。」
 すぐそこで聞こえた、呆れたように投げ付けられた言葉は、それでもどこか優しくて、驚いて顔を上げた先に見つけた海馬が、声とは違って怒ったような顔をしている事に、城之内は驚き、勢いで返す。
「うるせぇよ。」
 さっきまで、心配そうな顔をしていた癖に、どうして怒った顔をしているのかもわからなければ、何がそんなに気に入らなかったのかも、城之内にはさっぱりわからなかった。
「…………親は親、か…」
 それでも、ぽつりと漏れた言葉に、海馬にも彼なりの事情があるのだと思い、城之内は口を噤んで、膝を抱えていた腕を解いた。





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