待人



 お帰りになりましたよ。という言葉を聞いて、迎えに出た玄関で、俺は迎えたい人間でない方のこの家の住人と鉢合わせた。
 こちらもあちらも思い掛けない人間をそこに見つけ、一瞬だけ動きを止め、俺の待っていた人物の兄である海馬瀬人は、不愉快そうに口を開いた。
「何故、貴様がここにいる。」
 その質問はごもっともだ。多分、海馬は俺がこの家に割と頻繁に通っている事なんて、知らなかったんだろう。俺はそんな素振りを見せた事なんてないし、俺をこの家に招いてくれていたもう一人の住人である彼の弟も、多分、黙っていたのだろう。俺が彼に好かれていないのは明らかだから。
「メイドさんが帰ってきたって言うから、モクバが帰ってきたと思ったんだよ。」
 そう答えると、海馬は怪訝そうな表情を浮かべた。
「モクバに会いに来たのか?」
「そう。お招きされたのに、社長さんに呼び出されたから、待ちぼうけ。」
 実は、昨日も遊びに来ていたんだけど、海馬は昨日帰っていなかったから、そんなことは知らない事だろう。
 どうして知られずにいられたかと言えば、海馬が会社を出たと連絡が入ると、俺はこの家を出ていく手筈になっているからだ。その辺は、メイドさん達も執事さんも流石にプロで、モクバの言い付けをきっちり守ってくれて、海馬には少しも漏らしていなかったようだ。
 実際、俺に間違えて帰りを教えてくれたメイドさんは、俺の横で軽く悲鳴をあげた程だ。モクバだから、その程度の間違いでどうこう言う事はないだろうけど、ここで奴の怒りが向けられたりしたら可哀想だと思った。
「モクバは?」
 なんで、お前が帰って来てんだよ。とばかりに問いかければ、海馬は少しだけ気まずそうな表情を浮かべた。どうやら、あまり胸を張れる理由はないようだと、その様子を見て思った。
「まだ戻らん。」
 理由は言う気はないらしい。まぁ、いい。色々都合ってのもあるんだろうし、あれこれ聞いて機嫌を損ねるのもよくない。子供だけど、モクバは副社長なんだし、それならそれなりにこなさなくちゃならない事だってあるんだろうし。
「そっか。」
 せっかく、開発中のゲームを遊ばせてもらえるはずだったのに、海馬が帰って来てしまったのなら、自分も帰らなくてはならない。見つかってしまったんだから、腹を括って居座るとかいう手もあるけど、この相手に向かってその手段が使える程、俺も図太くない。
「じゃ、俺、帰るから。モクバにはそう言っといてくれな。」
 隣で悲鳴をあげた先程のメイドさんは、俺の言葉にハッとしたように動き始めて、慌てたように俺より先に動きだした。
「……待っていられないのか?」
 メイドさんを追い掛けるように足を踏み出した俺に、後ろから声が掛かった。
「…………そうじゃねぇけど…」
 家主の留守を狙って遊びに来ていた者としては、こうして見つかってしまった以上、もう2度と来ない方がいいんじゃないかとか考えるだけだ。俺は別にあれこれ言われたっていいんだけど、モクバがいらない事で怒られたりしたら可哀想だ。
「ならば、待っていればいい。……それほどは掛からないはずだ。」
 不本意そうな表情で海馬は言い、俺は少し驚いた。
 海馬が、弟に甘いのは知っているし、今日はモクバは仕事は休みの予定で、それを呼びつけたと言うのだから、引け目があるのかもしれない。でも、だからって、こいつが俺をこの家に居座らせるとは思わなかった。何せ、俺はこいつに相当嫌われているっぽい。いや、歯牙にも掛けていないという状況だから、嫌われているわけでもないのかもしれないけど。
 大体、同じ学校の同じクラスにいるのに、俺のこの家での立場というのが、瀬人坊ちゃんの御学友じゃなく、モクバ坊ちゃんのお友達。ってので、海馬の俺に対する感覚がわかるだろうってもんだ。俺だって別に、こいつと仲良くしたいなんて思ってないけど、でも、正直言って、この立場は複雑だ。小学生のお友達として扱われる高校生の立場ってなんだ?と思うだろう。
「……いいのかよ。」
 家主はきっと怒り狂うであろう。と、この家の誰もが思ったから、誰もが俺の事を海馬に言わなかったというのに、この反応はかなり意外だった。海馬の向こうに見える執事さんも、めずらしく吃驚した顔をしていた。俺だってきっと、相当驚いた顔をしていると思う。
「俺が追い返したなどと言われるのは不本意だ。」
 きっぱりそう言い、海馬は俺の荷物を持って帰って来たメイドさんを見て、眉を顰めた。
「モクバの部屋にいたんじゃないのか?」
 モクバの部屋は、こんなにすぐに戻ってこられる程、表側にはない。メイドさんが行って戻って来たのは、俺がモクバを待っていた応接室だ。
「主がいない部屋に、勝手に入れるわけないだろ。」
 生憎、モクバが会社に呼びつけられたのは、俺がこの家に来る前の事だった。執事さんはモクバの部屋で待っているかと聞いてくれたけど、やっぱり、勝手に入るのは申し訳ないと思った。
 だって、見られたくない物が置いてあるかもしれないし、そうじゃなくても、モクバだって会社役員なんだから、俺が見ちゃまずい物があるかもしれない。そう思ったから、応接室で待たせてもらっていたのだ。
 俺の答えを聞いて、海馬は少し驚いたような顔をした。多分、俺がそんな事を言い出すとは思ってなかったんだろう。俺の事馬鹿にしてるから。
「……あの…」
 メイドさんは、俺に荷物を渡していいのかどうかを迷っているようで、俺と海馬を見比べて、戸惑いつつ声を掛けてきてくれた。
「ありがと。でも、待っててもいいって。」
 荷物を受け取りつつ答えると、メイドさんはしっかり吃驚した表情を浮かべて海馬を見やり、それが雇い主に対して相当失礼であったかもしれない事に気付いたのか、慌てて頭を下げた。
 でも、その反応だっておかしくないだろう。俺と遊戯が最初にこの家に招かれた時の事を考えたら、どう考えたって、俺が海馬に快く迎えられるわけがない。モクバが連れてきた時だって、皆、かなり不安そうな顔をしてたのが頭に残ってるくらいだ。それが、未だに打ち解けているとは到底思わない人間が、この反応だ。その気持ちはよくわかる。
「………」
 さすがの海馬も、そこまで露骨な反応を2度もされたら何か思うところがあったのか、小さくため息をついた。ここで怒らないなんて、ちょっと、俺の考えていた海馬瀬人とは違っているような気になった。もしかしたら、俺が思ってる程、海馬は俺や遊戯の事にこだわってないのかも知れない。
「着いて来い。」
 ふいに言われて驚く俺に構わず、彼はさっさと歩き出し、俺はメイドさんと顔を見合わせて、更に執事さんを振り返って、彼が頷いてくれたのを確認して、慌ててその後を追い掛けた。
 執事さんは、モクバが席を外さなくちゃならなくなった時なんかに、俺の相手をしてくれたり、俺たちがせがむと、海馬の話を少ししてくれた事もある。年の功。って言うやつなのか、海馬の事をよくわかってる人だ。その人が、俺が着いていっても問題ないと判断したのならば、きっと大丈夫だろうと思った。
 黙って先を歩く海馬を見失わないように急ぎ足で後を追い掛けて、辿り着いた先は、モクバの部屋に近い場所にある部屋だった。
「入れ。」
 随分偉そうだけど、多分、招いてくれているのだろうと思ったから素直に後に続いて部屋に入った。
「………ここ、お前の部屋?」
 さっきまで俺のいた部屋よりも、ずっと陽当たりのいいこの部屋は、間違いなく、この屋敷の中で一番いい部屋だろう。その窓に背を向けるように、なんだか偉そうな机がどん、と置かれていた。そして、その手前にソファセットがこれまたどんと置かれていた。部屋の奥の方にはドアが二つ付いている。多分、どっちかは寝室に繋がっているんだろう。
「そこにでも座っていろ。」
 ソファを示して彼は机の方へ足を向け、俺はどうにも落ち着かない気分でソファに腰をおろした。
 これは多分、彼なりに気を使ってくれているんだろう。さっきまでいた応接室は、確かに客を通す部屋だけあって綺麗だし、落ち着く場所ではあるけれど、窓から見える庭とか、陽当たりとかを考えたら、やっぱりここよりも劣る。もちろん、モクバの部屋よりも劣るから、本来なら、そのいい場所で過ごしていられたはずの客に、お詫びも兼ねて。という事なんだろうと思う。全然面識のない人間だったら放っておかれたかもしれないけど、まぁ、一応、同級生だし、知らない相手でもないから、こんな事をするんだろうけど。
 そんな事を考えていたら、彼は机の向こうの椅子に腰を掛けて、じっとこちらを見据えてきた。
「……なんだよ。」
 もしかして、これは、御招待ではなくて、尋問の為に計画された事だったんだろうかと、俺は気付いた。この部屋にいれば、メイドさん達は入ってこないだろうし、誰にも文句を言われずに、俺に文句もつけられるはずだ。
 でも、執事さんは笑って送ってくれたのに…と、俺は内心びくつきながら、それでも精一杯虚勢を張って、海馬を見返した。
「……いつから、来ているんだ?」
 やっぱり、尋問目的だったらしい。問いかける声は固くて、彼が楽しんでいる様子はさっぱり見当たらなかった。
「……一月ぐらい前かな……」
 ペガサスの仕掛けたゲームが終わって、海馬がまともに動くようになってからの事だから、多分、それくらいだ。モクバは、あれで大分、俺たちに好意的になってくれたみたいだった。俺も、弟ができたみたいで、ここに来るのが楽しかったから、こうして通ってきているんだけど。
「貴様だけが来ているのか?」
「最初は、遊戯と一緒だったけど、あとは、俺だけ。」
 つーか、遊戯が一緒にいなかったら、俺なんか誘うわけねぇだろう。多分、質問もそれと同じ意見から来てるんだろう。俺がそう答えたら、海馬は納得したように軽く頷いた。
「ただ遊びに来ていると言うわけじゃないだろうな?」
 ただ友達と遊ぶだけなら、モクバだって学校の友達の所へ行ってるだろう。最近は、モクバの家や立場を見て侍ってる友達ともおさらばしたみたいで、友達と楽しそうに歩いてる姿も見た事があるし。まぁ、モクバの立場上、色々問題もあるだろうから、それもなかなか難しいのかも知れないけど。だって、友達と遊ぶのに、黒服のSPが傍にいたら、楽しくないだろう。それで、結局こうして俺と遊んでたりするんだから、モクバも可哀想だって言えば可哀想だ。本当に一緒にいたいだろう兄貴は、なかなか構ってくれないみたいだし。って、結局悪いのは、この目の前でやたらに偉そうにしてる海馬だって事になるんじゃないんだろうか。
「新しいゲームのモニターしてる。」
 あれこれ考えながら、答えが返らなくて不機嫌そうにしている海馬に、慌てて答えを返した。
 最初は、遊戯にそれを頼みたかったようだけど、遊戯はゲームには勘が働く方だから、モニターとしては今一つなんだそうだ。やっぱり、そういうのは、できるだけ世間一般の普通のレベルの人間で試した方がいいらしく、それで、結局、俺の方を選んだらしい。
 そう説明してやれば、海馬は更に納得したらしく、鼻で笑ってくれた。
 きっと、腹の中で、『負け犬』とか『雑魚』とか言ってくれてるんだろう。あっさりわかっちまうから、反論する気もないけど、やっぱり、ちょっと複雑だ。だって俺は、馬鹿にされて喜ぶような頭の作りなんてしない。
「報酬は受け取っているのか?」
 俺が借金背負ってるのを知っているのかいないのか、金絡みの質問が来たのは驚いた。確かに、正規に人を雇えば、金を払うのは当然だけど、俺はちょっと遊ばせてもらってるのに近いから、そんな話はなかった。
 まぁ、ここへ遊びに来たら、お茶も菓子出るし、飯時にここにいれば、飯も食わせてもらうし、それが報酬と言えば報酬だ。自分の家じゃ、考えられないような見事な物が貰えるわけだから、俺としては万々歳。バイトだって行ってるから、金は他で手に入るし、まともな食事が出るってのは、俺にとって、金を貰えるより凄い事かも知れない。特に、今時期の金が減ってきた頃には。
「飯食わせてもらってるくらいかな…」
 素直にそう答えたら、海馬はちょっと驚いたような顔をした。
「それだけなのか?」
 もしかしたら、この家じゃ、客に飯を食わせるのは、当然の事なんだろうか。俺は家に客を招いた事はないが、他所に遊びに行ったって、飯が出てきた事なんてないし、その時間には帰るのが常識ってもんだと思ってたんだけど。
「発売前のゲームで遊ばせてもらってんだし、それで充分じゃねぇの?」
 俺の感想なんて、どれくらい役に立ってるのかもわかんねぇし、そもそも、ゲームのモニターってのが金になるってのも、俺には驚きだ。
「………貴様がそれでいいのなら構わんが……」
 なんだか、納得いっていないような事を言い、海馬は何かを考えるように、俺から視線を外した。
 蛇に睨まれたカエルみたいな気分で、質問に答えていた俺は、それでほっと息を付いた。これで尋問が終わりなら、早いところ、モクバが帰ってきてくれればいい。この部屋は確かにいい部屋だけど、やっぱりちょっと緊張するし。
 視線をうろうろと部屋の中に飛ばしていたら、ふいに海馬が立ち上がったのが目に入った。
 尋問終了、さぁ帰れ。と言われたらどうしようかと身構えた俺に、海馬は小さくため息を着いて、微かに苦笑を浮かべたように見えた。
「モクバが帰るまで、ここにいろ。」
「……お前は?」
 俺の座るソファを通り過ぎる海馬に問い掛けると、振り返って首を横に振った。
「客が来る予定がある。」
 だから、あの部屋を開けたかったんだろうと思い、俺は頷いて海馬が出ていく後ろ姿を眺める。
「俺が、部屋の中掻き回すとか思わねぇの?」
「好きにしろ。」
 ドアを出ていく後ろ姿に声を掛けたら、こちらを振り返ってそう言ったその表情は、俺がそんな事をするわけがないと思っているような、なんだか、見た事もないような顔だった。
 それ以上何も言えずに閉じたドアを眺めて、俺は深く息を着いてソファに倒れ込んだ。
 あれ以上、質問を続けられていたら、倒れていたかもしれない。これまでほぼ相手にされていなかったような人間に向き合っているのは、相当の緊張を強いる事で、今も心臓がバクバクいっている。
「助けろ、モクバ…」
 早く帰って来い。と、モクバに祈るような願いを掛けて、部屋の主がそれまで帰ってこない事を、必死に願った。





幻想の闘技場へ