カラカラと音がした方向へと目を向けた海馬は、手慣れた様子で車椅子を動かす城之内の姿を見つけ、小さく息をついた。
遊戯に負けた恨みに飲まれて暴挙に走り、廃人の様になった間、座らされていた車椅子は、一度この部屋から片付けられた。
見れば、自分の暴挙と愚行を思い出して、我が事ながら、不愉快になる為だったのだが、それを、どこからか城之内が探し出し、モクバとそれで遊びはじめたのである。
長い廊下を、モクバを車椅子に乗せて走る城之内を見た時は、ここは小学校の廊下かと、呆れ返った海馬だったが、そうされているモクバがあまりに楽しそうに声を上げていたのを見て、何も言えなくなってしまったのだ。
そんな理由から、処分させる事ができなくなってしまったそれの置き場として、城之内が選んだのが、この部屋だった。
モクバの部屋に置くと邪魔だし、あの頃を思い出して落ち込むかもしれないから。との言い分に、こちらの不愉快な気持ちはどうしてくれるのかと思った海馬だったが、それは自業自得だから我慢しろと城之内は言い切った。
確かに、言われればその通りで、その日から部屋に戻されたそれを見ては、時折、自戒などしている自分に気付くと、なんとも言えず、嫌な気分になるものだった。
そうしてこの部屋の片隅を占領しているその車椅子は、時折こうして、城之内を乗せて、ゆっくりと窓際に移動する事がある。
ソファの置かれた位置は、部屋のほぼ中央。窓からの明かりは入るが、日光に当たる事はできない。この部屋には、彼が暇を潰すような物は殆どなく、何もする事がないのなら、日に当たろうと思った城之内は、ソファからクッションを一つ持って、窓ガラスを背もたれに、床へ腰を下ろすようになった。
最初の頃は、ぼんやりそこで座っているだけだった彼は、その内に、この部屋にいる緊張感を失って、窓際でうたた寝をするようになった。眠れば体は傾き、床に転がるようになる。さすがにそこまでされれば、仕事をしている海馬が不愉快になるのは仕方のない事で、城之内はその度に、海馬に足蹴にされて起こされるようになった。
そこで城之内は、部屋の隅に置かれた車椅子を使う事を思い付いたらしい。
座って眠っている間は起こされないが、床に倒れ込んだら蹴飛ばされる。ならば、椅子に座っていれば、蹴飛ばされる事はないだろう。
そうは思っても、ソファを窓際まで引いてくるのは無理で、他に椅子はない部屋に、楽に動かせる椅子が一つ。しかも、家主を座らせていた、座り心地のいい物である。城之内がそれに座って窓際でひなたぼっこをするようになったのは、当然の運びだった。
そして、今日も今日とて、出された茶を飲み干し、茶請けを平らげた彼は、当然のような顔をして車椅子を操り、窓際へと移動していた。
「お前さ、なんでそんなに、一番にこだわるんだ?」
自分に目が向いた事に気付いたのか、前触れもなく、城之内はそう問い掛けた。
「何の話だ?」
手を止めて、当人を眺めていたからには仕方ないと、無視を決め込むでなく、海馬はくるりと椅子を半回転させて城之内に向き直って問い掛けた。
「今の流行りってさ、ナンバーワンよりオンリーワンだろ?今時、勝ちにこだわるやつって珍しいぜ。」
とある歌が流行ったのが拍車を掛けたのかもしれないが、今の世の中、「癒し」にとって代わったかのように、「オンリーワン」が大流行りだ。そのせいか、「ナンバーワン」にこだわる人間が、卑しい人間のように見られなくもないような風潮もある。
「馬鹿だな。貴様は。」
呆れたように決めつけられて、城之内はムッとして海馬を睨み付けた。
いつもの事だが、否定の言葉を口にする為に、罵倒する必要はないと、城之内は思う。罵倒と言う程強くもないが、馬鹿にされるというのは、決して、心踊る事ではない。そんな事を言われるから、カチンと来て、思わず怒鳴り返してしまい、更に馬鹿にされるという悪循環が産まれている事は、さすがに城之内でも理解しているから、とりあえず黙って睨み返すだけにとどめる。
「自己肯定の為に、自分が唯一無二であると認識する事ならば、俺はとうの昔からそうしている。」
何時聞いても、そっくり返って話しているのではないかと思うような、上から見下ろした言葉が返ってきて、城之内は小さくため息をもらした。
言われてみれば、確かにそうだろうと思う。あの、何処までも自信満々な態度は、人と自分を比べてどうこう言うような人間にできるものじゃない。少なくとも、自分と人を比べている人間には、不可能だろうと、城之内は思っていた。
「だが、他人に自分を認めさせる為に、手っ取り早い方法は、最高位を手に入れる事だ。」
「……自己肯定ができてるなら、他人に認めてもらわなくてもいいんじゃねぇの?」
正直言って、城之内も、他人と自分を比較する事はそれ程重要だと思っていない。確かに、過去の栄光を自慢した事がないわけでもないけど、だから、自分が偉いなんて思ってるわけでもないし、自分が立っている為には、他人より優位にある事が必要だって事もない。
「お前のような、凡骨にはわかるまい。」
「おっしゃる通り、さっぱりわかんねぇよ。」
いい加減聞き慣れて、さっぱり苦にもならなくなった呼び名の本当の意味が、それ程悪くないという事に気付いてからは、それを聞き流すようにしている城之内は、先を続ける事を促すように言葉を返した。気になる事に答えを貰う為には、時にはその為に話の流れを作る事は必要なのだと、城之内は知っていた。
「いいか。この国は、資本主義社会だ。資本主義経済の中で、企業の最大の目標がなんであるか、わかっているか?」
問いかけられて、城之内は首を傾げた。城之内は、そういう内容の話は、授業でも殆ど頭に残していない。城之内の脳は、M&Wのルールと、バイト先のマニュアルと、新聞配達の為の住宅地図に大半が割かれているのだ。時折組み込まれる、スーパーの安売り情報は、次の日には消えてなくなる。
「利益配分?」
とりあえず、答えを用意してみた城之内は、海馬の呆れた表情を見て、かくり、と項垂れた。罵倒されるのも嫌だが、黙って冷たい目を向けられるのも、意外に堪える。口に出して馬鹿にされるよりも、更に馬鹿にした表情がはっきりするからだ。
「利益追求だ。どれだけ儲けられるかが、最も重要なことになる。どれだけ儲けたか、というのは、どれだけ売り上げを伸ばしたか、どれだけ支出を抑えたか、という所から出る。リストラをして社員の首を切るのは、支出である人件費を抑える為だ。その為に、人件費の高い、年長者が対象になる。」
「ああ…なるほど。」
すっかり、ナンバーワンの話から逸れているような気もしたが、城之内は海馬の説明に、コクコクと頷いて、先を促す。
「だが、支出を抑えるには限度がある。給料が減れば、勤労意欲は下がるし、福利厚生を削り過ぎれば、不満も出る。その辺りのバランスを見ながら、それでも、利益追求が企業の最大の目標である以上、何とかせねばならん。」
確かに、働いてもバイト代がそれ程もらえない仕事は人気がないし、城之内としても、短時間の楽な仕事で給料が沢山もらえるようなものがあれば、そちらに傾く。報酬は、やはり、勤労者としては、最大の関心事だ。正社員には簡単ではないかもしれないが、バイトの身分ならば、早々に別に移る者も少なくない事を、城之内は経験で知っている。
「ならば、支出を上回る売り上げをあげるしかない。しかし、売り上げを伸ばすのは、容易ではない。他社よりも広い市場を持ち、優れた商品を作り、より多く売り捌く。そこで行なわれるのは、競争だ。この国のそこここで、日々、競争が行なわれているのだ。そこで、勝ち残れば、名前が売れる。名前が売れれば、商売はし易くなる。だが、そうなれば、敵も増える。それでも、そこを勝ち上がっていかねば、成功はないのだ。」
この世は競争社会。最近は、あまり聞かなくなった言葉だけれど、それでもやはり、それがなくなったわけではない。
会社の中でも、隣の席の営業よりも、多く売り上げて報賞を貰いたいと必死になっている者もいるだろう。学校でも、隣の席の誰かより、1番でも上になろうと、必死に競争意識を燃やしている奴もいるだろう。見てわかる結果は安心材料には最適だからだ。
「海馬コーポレーションはそれまでの主力であった、軍事産業からほぼ手を引いた。新しい分野への進出の為には、他にない売りがなくてはならん。バーチャルシミュレータで乗り込む事はできたが、それでも、新参である事は変わりない。これを生き抜いていくには、海馬の名前を売る事も必要だ。他社から、名の売れた技術者を引き抜くのも手だが、金が掛かるし、金で片をつけたと悪評もたてられる。ならば、俺が名を売って、その俺が経営する会社だとして注目を集められれば、一番手っ取り早い。そのせいで、俺のいない海馬コーポレーションが倒れかかったのは確かだが、地盤を持たぬ俺たちには、まずはそうでもせねば、生き残る可能性が低い。だからこそ、俺は、頂点を目指さねばならんし、そうあらねばならんのだ。」
話がナンバーワンに戻ってきて、城之内は思わず拍手をしそうになるほど、納得させられていた。確かに、そういう意味では、遊戯や自分達とは違う種類の責任というものが、海馬にはあるのだろうと、城之内は思う。あの、恐ろしいまでの勝利への執着も、そう言われてしまえば、わからないでもなかった。
「しかし、貴様とて、負ける気でデュエルをしているわけではあるまい。」
あんなゲームにのめり込んでいる人間は、結局、一番を目指しているのではないか。と、海馬は思っている。M&Wに限らず、他者と闘う事で、何らかの自信をつける者は少なくないはずだ。
「そりゃまぁ、そうだけど……でも別に、俺は、一番になりたいってわけでもないからなぁ…」
やるからには、勝ちたい。でも、勝つ事が目的になるわけじゃない。城之内のそんな感覚は、海馬には理解の及ばない事だった。
目的を達成する為になら、負けてもいい。そんな心境には、死んでもなれないと、海馬は思う。バトルシティでの準決勝の組み合わせ決定戦でも、海馬は負けて相手を選ぶ事など、到底選び取れなかった。だが、城之内は、目的の為にならば、その勝負に負ける事も構わなかった。
負けて勝つ。海馬には、決して選べない行動を、城之内は選び取れる。その違いが、自分達の、何よりの違いだと、海馬は思っていた。この先、何らかの変化が起きて、自分達の感覚が一致する事があったとしても、それだけは、決して一致する事はないだろうと思う程の明らかな違いだ。
「俺には、その気持ちがわからん。」
「だけどさ、お前だって、俺とかモクバとデュエルする時、そういう勝負の背景とかないだろ?」
「………まぁな。」
最近では、モクバもM&Wを始めて、城之内がせがんで海馬を巻き込んでのデュエルという事も、時折行なわれている。その時には、海馬はあまり勝ちに執着する姿は見せない。もちろん、そんな姿を見せねばならない程強い相手ではないというのが、大きな理由であるのは確かなのだが、それでも、海馬は明らかに肩の力が抜けていると、城之内は思っていた。
「そんだけ、俺が身軽って事なのかな。」
城之内はそう言って、視線を窓の外へ向ける。
自分が背負っているのは、精々、自分の身内の事だけだ。大事な妹と、嫌いだけれど捨てられない父親。大事な友人たち。海馬の会社にかける気持ちより、自分が彼等にかける気持ちが劣っているなんて思わないけれど、でも、多分、方向性が違うのだと思う。
「それで、お前は、自己肯定はできているのか?」
自分が意識を反らした事で、そこで話が終わるかと思っていた城之内は、海馬からの問い掛けに驚いてそちらへ視線を戻した。
「あ〜。……うん。…最近、なんとなく。」
自分に自信がついたとか、そういうわけではないのだけれど、自分がいる事で、喜んでくれたりする人がいると、やはり、自分は自分でいいんだな。と思えるようにはなった。まだ、ちょっと、虚勢に近いものはあるけれど、でも、誰かと比べて、自分を下に見るのは減ったと思う。
「そうか。」
そう呟いて、椅子の向きを戻した海馬の表情が、いつもより少し柔らかいのを見て、城之内は表情を緩めた。
あの顔が、自分を見て笑う日が来るなんて、絶対にないと思っていたから、あの変化だって、自分を肯定する材料の一つなんだって事を、彼はきっと、気付きもしないんだろうと、そんな事を考えて。