大城英司、バンクーバーを行く

 

キネマ旬報 キネ旬コラム 1998年12月上旬号から1999年3月下旬号に隔号掲載

 

 

1998年 9月25日〜10月11日、カナダ、バンクーバーで行われたバンクーバー国際映画祭。

この映画祭新人監督コンペに『ある探偵の憂鬱』(矢城潤一監督)がノミネート。

監督と同行した海外映画祭初体験の大城英司が、思い入れたっぷりで描く、ライターデビュー作。     

 

大城英司、バンクーバーを行く

No1  1998年12月上旬号 No1272

 

 8月初旬、「ある探偵の憂鬱」(やぎじゅんいち矢城潤一初監督作品)がバンクーバー国際映画祭、新人監督部 門コンペティション(THE ALCON DRAGONS&TIGERS AWARD FOR YOUNG CIN EMA)に招待が決まった。
この映画祭、全世界から約300作品が招待されそのうち、賞を競うコンペに該当する作品は約 100作品、かなり大規模なものである。
我々が招待を受けたこのコンペは、東アジア地区から8作品が選ばれ、新人監督賞を競うという
もの。日本からは、「ある探偵の憂鬱」(英語タイトル、Watching the Detective),「これまでの
あらすじ」(原田一平監督)の2作品。過去、この新人監督賞を受賞した日本作品は 【この窓は
君のもの ふるまや監督 1994】 【幻の光 是枝監督 1995】この2作品。
日本からの招待は21作品(うちアニメが7作品)、主な作品は、【中国の鳥人、ブルースハープ、
レイニードッグ】三池崇監督、 【Dogs】長崎俊一監督、 【生きない】清水浩監督などがある。
私の旅費は出ないということだったが、これが初主演作品、張り切って出かけることにした。

10月6日(火)バンクーバー入り。
この日は映画祭の本部でパスカード、プログラム(A4サイズ豪華版)などを貰い、インターナショ
ナルな雰囲気を味あわせてもらった。7:00pmから「中国の鳥人」(三池崇監督)を観る。会場は
大入りで、日本映画に対する関心の高さを感じた。我々の上映もこうなってくれればと思いつつ…
時差ボケで寝てしまった。三池監督、ゴメンナサイ。この後、矢城監督はもう1本観ると言い(なん
とタフな)、私はホテル(自前の)に帰って爆睡。
我々の映画「ある探偵の憂鬱」の上映は8日7:00pm、10日12:30pmの2回である。
                                                                      

10月8日(木)
さて、いよいよ第1回目の上映日。映画祭の本部では、私は少々興奮気味で酒を飲まずにはい
られなかった。(毎日、ゲストのために簡単な食事と飲み物が用意されている。それに私は基本
的に酒が好き) 監督も同じ様子だったが、『ここまで来たら腹を括るしかないですよ』 と淡々とし
たいつもの口調。この方の心理はなかなか読めない。
こちらに来た最大の理由は、この映画にどんな反応があるのか自分の目で見て、肌で感じるこ
とだった。それがいよいよ、1時間後には一般の、それも異国の人々の目に触れるのである。ど
んな反応があるのか、楽しみでもあり、怖くもある。

6:45pm,劇場入り。既に半分の席が埋まっている。
そして、トニー氏からの説明。まず、本篇の前に2本のショートフィルムが上映され、そのあと監
督と私の紹介、挨拶がありスタートするということ。終了後、お客さんとのディスカッションがある。
ちなみに2本のショートフィルムは、北野武監督のミュージックビデオ(娘さんのデビュー曲)、ロン
カーウァイ監督のコマーシャルフィルム(浅野忠信主演)、それぞれ5分ほどのものだった。

 

 

大城英司、バンクーバーを行く No2
1999年1月上旬号 No1274

 『すごいな、たけしさんとロンカーウァイが僕らの前座ですよ』と冗談を飛ばすと、『それでこんな
に客が入っているのか、でもこの2本が終わったら、ほとんど帰ったりして』と監督、初め笑えはし
たものの、本当に心配になってきた私。いつのまにか、場内は大入り満員となった。
舞台でトニー氏の挨拶に続き、ショートフィルムが終わった。場内が明るくなると、我々は舞台に
向い、(どうやら帰る人はいないらしい、よかった)トニー氏が我々の紹介をして監督の挨拶。こん
なに多くの人に来てもらったことを感謝する、という意味のことをいうと今度は私に回ってきた。右
に同じと言った。(俳優はあまりでしゃばってはいけない)すると、なぜかその言葉がウケた。我々
が席に戻ると、場内が暗くなり矢城潤一初監督作品「ある探偵の憂鬱」がスタート。恥ずかしい話
だが、私は涙が出そうになった。そして71分間の上映が終わった。

終わると拍手が起こった。映画の後に拍手をする習慣がないので戸惑ったが、なんだかつられ
て自分も拍手をしていたので、慌ててやめた。
場内が明るくなり、再び我々は舞台に上がり、質疑応答が始まった。質問したくなる映画である
ことは確かだが、お客さんの7割が残ってくれたのは嬉しかった。多くの質問が飛び交い、手応え
を感じた。トニー氏、通訳のポールさんも面白いフィルムだと言ってくれ、日本人ボランティアや他
の関係者からも同様の賛辞を貰った。私も初号試写に続きこれが2度目で、監督の実力、計算さ
れた脚本の上手さを再認識した。
深夜、監督と私は、カナディアンウイスキーを飲みながら、静かにしみじみと打ち上げをした。出
来ることならこの映画に携わってくれた皆とこの場で飲みたかった、そう監督と話しながら…
私はこのあたりから少しずつではあるが、新人監督賞を意識し始めた。

 
 10月10日(土)
 映画祭の最終日、2度目の上映日でもある。そしてこの日、各賞の発表もある。今回も同じ劇場
で12:30からの上映。
有り難い事に1回目同様、劇場前には列が出来、満員となった。そして上映が終了。多くの人が
残ってくれ、質疑応答が始まった。細かい質問が多く、時間が延び劇場スタッフから次のプログラ
ムの時間だ、という催促で終了した。私にも多くの質問があり、更に手応えを感じた。

 

 

大城英司、バンクーバーを行く No3
1999年2月上旬号 No1276


 劇場を出てからも数人の人から、握手とサインを求められた。そのあとカフェに向かう路上でも
映画を観てくれた人が、わざわざレストランの店内から出てきて、声をかけてくれた。きっと私たち
の映画の事を話してくれているのだろう、と勝手に想像。ただ女性を口説いていたのかも知れな
いが…
こちらでは800円弱で映画を観ることが出来、少なくとも日本よりは映画が人々の生活に近い
感じがした。
さあ、残すは各賞の発表がある Screening of Last Night は7:30pmスタート。

 私はドレスアップに手間取り、少し遅れて席についた。すでにレセプションは始まっていて、古館
伊知郎さんのカナダ版とでもいうような人の司会で観客はやたら受けていた。私は監督を探した
が1500人の中から見つけだすことは容易なことではない。
 会場はドレスアップされた人々で満たされ、その華やかな雰囲気は私が経験する初めてのもの
である。かといってお高く留まっているわけではなく、とてもフレンドリーな空気が流れている。映
画祭に参加するために映画を創っているわけではないが、映画に携わる人達にこの雰囲気を味
わって欲しいと思った。
 そして新人監督賞、今日話した限り監督も多少は意識しているような気がした。この雰囲気の中
での受賞は言葉では言い表せない感動があるはずだ。
その時私の視界に矢城監督をとらえた。なんと、かなり前の方に座っているではないか、これは
呼ばれてすぐに前に出られる位置だ。私は遅れたために前に座ったが、監督は違う。今日まで監
督賞のほかの作品を見た結果、勿論私の独断と偏見からであるが、8分の1から4分の一と確率
は上がっていた。
そして、いよいよ新人監督賞の発表となった。もう私の頭の中では監督が受賞する時の映像が
流れていて、その後のこともこれから再生の為の準備に入っていた。賞金の5000ドルで何処に
呑みに行こうかとか、私の事務所に連絡するのに、時差を考えこんがらがり、そうだFAXにしよう
と考えてみたり、監督賞だから私が出ていくのはおかしい、きっと監督がマイクで呼んでくれるだ
ろう、と。
ひとしきりの挨拶があり(たぶん)、そしてまさに今、プレゼンテーターから新人監督賞が読み上
げられようとしていた。私は力が入り、拳を握った…


 

大城英司、バンクーバーを行く 最終回
1999年3月下旬号 No1279

 30分後、映画祭本部近くの日本の炉端焼きで監督と二人、チューハイを呑んでいた。

新人監督賞は中国の『Xiao Wu』 Jia Zhangke監督に決まった。発表後、拍手はしたもの
の悔しくて悔しくて、とにかくこの場を離れたかった。すべての発表が終わって監督とお互いを確
認できたので、とにかく会場を出ることにした。
店に向かう道すがら、私は、見ていなかったその中国の作品について監督から聞いた。一人の
スリを生業とする青年の、中国を舞台にした青春映画らしい。しかし私の悔しさはまだ続いていて、
大声で叫びたい心境だった。

監督はいつもの調子だったが、(楽しくはないはず) 私はもちろん自棄酒。しかし、店がいけな
かった。会話が途切れると、BGMの演歌が耳に入ってくる。明るく振舞うがだんだん暗くなってい
った私。  
そのあと、映画祭のラストナイトパーティ(1000人以上の豪華なやつ)と、ボランティアパーティ
をはしごして、原田一平監督の部屋で朝4時まで飲み明かし、その日の飛行機で日本に帰国し
た。
こうして私にとって5泊6日のバンクーバー国際映画祭は終わった。


1995年の秋、この作品の脚本をいただいた時、面白いと思った。その時は自分が主役だとは
思わなかった。最近では私も脇役をいただけるようになってきたが、この頃はまだマイナーリーグ
にも上がっていなかった。
それから約3年、ようやくこの映画が完成した。この映画はいわゆる自主映画だ。しかし出来上
がった作品に関してそんなことは関係ないと思う。要はその作品がどうであるか、1000万円の
予算で作った映画が、バンクーバーでいい評価を得たことは紛れもない事実である。
そして今回、日本映画のエネルギーをバンクーバーの人達から感じることが出来、映画祭のあ
の雰囲気を体験できたことは、これからの俳優生活においてかけがえのない財産となった。
私クラスの俳優が主演をいただいたこと、しかもその作品が海外の映画祭に招待されたことに
感謝したい、心からそう思う。
この作品のスタッフ、関係者、さらに映画祭の日本人ボランティアの人達、映画祭のスタッフ、そ
してこの映画を選んでくれたトニーレインズ氏、最後に矢城監督、本当にありがとうございました。

最後に身の程知らずかも知れないが、あの会場で心から悔しく思えたことを私は誇りに思ってい
る。そしてあの悔しさは絶対に忘れない。
                                                       大城英司