英二のヨーロッパ紀行

1985・8・14

 

1985年、19歳にして鬼太鼓座ヨーロッパツアーに参加、ツアー中、俳優の道を選択、帰国の飛行機内で書き上げた幻のライターデビュー作!拙さが残る文章に敢えて無修正。現在の芸名、英司になる前、本名大城英二の原点を是非!

 

 今は空の上。大きな鉄の塊が中に浮いている。なんだか私の頭ではわからないが、そんな事はいいとして…

 日本に向かって飛行機はとんでいる。逆にヨーロッパからは遠ざかっている。

 私のヨーロッパ紀行…半分は仕事、半分は旅行といったところだろうか?19歳にしてまだ東京にも行った事のない若造がヨーロッパの地を踏み、1ヶ月近く暮らした。何もかもが初めての事であった。そしてこの1ヶ月の中で私自身、ある時は喜び、そして考え、また悩んだ事がある。

 イタリアの東のはずれの町 Udine(ウディネ)、人口10万たらず…よくはわからないが。そこの住む Manuera Trevisan。私たちの出会いは、その町にある小さな野外劇場だった…

 本番の3日前にUdineに入った私たちは、その日同じ劇場でフラメンコがあるとの事で出かけた。私は勉強のつもりでさほど興味もなかったが行く事にした。行ってみるとやはり面白い事もなく、後方のベンチに腰を下ろした。そこで私は彼女と出会ったのである。一通り挨拶、自己紹介をして二日後にここで公演するということを話し、私もそれだけのつもりであったがどんなわけか二人の時間を持つ事になった。広場にBarがあり、その前ではあるグループがJazzを演奏している。それをさかなにビールを飲みいろんな話をした。そう、あの時 I love you とも言った。全く私は節操がないのである。その後「二日後は必ず来てくれ」といって別れた。

 それから二日間、彼女に会いたくて、また自分なりにいろんなことを考え悩みもした。この時点で私は彼女を愛し始めていたのかもしれない。

 公演の日、ステージが終わりあとかたづけをやっている私の前に彼女はあらわれた。彼女の笑顔は最高である。私はその夜、彼女を自分のものにしたかった。しかし彼女は笑って No と答えた。その日、私はいろんなことを考えた。しかし私は日本人、彼女はイタリアーノ、やはりこれが最後だろうと思った。

 次の日わずか3日間ではあったが、思い出深い Udine を後にして Firenze に向かった。その日我々はミーティングの時間を持った。それぞれの不満が飛び交った。私も私なりにさまざまな意見を出した。その後数人の気のあった仲間と食事に出かけ、少々アルコールが入りいい気分でホテルへ戻った。

 その時、私のとって良かったのか悪かったのか、ある事件が起こり私とひとりの仲間がチームを辞めることになった。彼の友人が スイス・Bern にいるとのことで私たちはさっそく Bernに向かった。この事件がなかったら4ヶ月の演奏旅行を終え、日本に帰っていたのかもしれない…

 それよりも私は今後の事より、彼女 Manuera のことで頭が一杯だった。そこで私はいったんスイスに行き、単身 Udine 行く事にした。Bernに着いたのが7月28日am9:00頃でその日はホテルに1泊し、翌朝am8:13,Venezia行きの列車に飛び乗り Udine に向かった

 私は半日、約12時間をかけて Udine にたどりついた。列車の窓から Udine の駅が見えると私はまるで天下をとった気分になり、改札を抜けタクシーに乗り彼女の家に向かってもらった。わりと簡単に彼女の家を見つける事が出来た私は、ドアをノックした。すると彼女の妹らしき(よく似ていた)女性が現れ、めちゃくちゃな英語ながらもなんとか通じたが彼女は不在とのことだった。

 数時間待ったが彼女は来ない…私はチームで利用した駅前のホテルに行くことにした。彼女の妹にここに連絡をくれと伝言を頼み、ホテルにチェックインした。ホテルのフロントも憶えていてくれて歓迎してくれた。休みを利用して来たんだと言っておいた。キーをもらって部屋に入り一息ついているところへ電話の音、前もって言っておいた、私に電話があるだろうと。電話では彼女はホテルまで来ていると言う。私はそれまでの疲れも吹っ飛び、ロビーへ降りて行き10時にホテルの前で待ち合わせをした。

 初めての夜2人で行った Bar へ足を運んだ。私は幸せ一杯だった。彼女はどうであろうか?ただ、とても驚いている様子だった、それもそうだろう。いきさつを話し、今夜は一緒にいたいと言ったが、やはり答えは No だった。互いに言葉の勉強をした。彼女の「ありがとう」がとてもかわいかった。いろんな話をするうちに彼女は「私に幸せはない、もう人を愛する事が出来ない」と言い出した。私自身悲しくなった。(そんなばかなことがあるか、どこのどいつだ、彼女をこんな目に会わせやがったのは!)私は下手くそな英語で怖がってはいけないとしか言えなかった。もっと英語を勉強しておけばと悔やんだがあとの祭りである。私たちは次の日また会う約束をして別れた。

 午前中、適当にひまをつぶし、午後公園で待ち合わせをした。二人で一緒に写真を撮り Udine の郊外をドライブした。もちろん彼女の運転で…私はとても幸せだった。見晴らしのいい小高い丘で彼女は言った「私にはボーイフレンドがいるの、それでもいいの?」私は一瞬凄い顔をしたらしい、が素直に今の自分の気持を話した。

「あなたがたとえ私のことを嫌いになろうと、私は自分の気持を変えること出来ない、私はあなたを愛している、ただそれだけだ」

「If you don like me.I’m not changing my mind.becouse I love you only 

彼女は私の顔をじっとみつめていた。

「でも、もし私にもうこの町に来て欲しくないのなら言ってくれ」

彼女は黙ったままだった。私は…

「よし、わかった。目をつぶるから、さぁいってくれ!」

私は待った(内心、こんな事は言わない方が良かった)

すると彼女は黙ったまま私の唇をふさいで来た。

時間は過ぎ私は経済的な事情から今日の列車で帰らねばならなかった。駅に向かう途中、互いに二言三言、話をしただけだった。彼女の家は、夕食を必ず家族全員で食べるのだそうだ。その時間はもう過ぎている。私はしつこく「帰っていいよ」といったが、彼女は「いや、おくる」と言ってくれた。

 私にすれば簡単にまた来るつもりだった。が、しかしそれが最後となった。彼女は女のカンという奴で悟ったのかもしれない。

 彼女は別れ際に物哀しそうな微笑で私をじっとみつめていた。私たちは人目を気にせずをキスをした。そしてそれが最後となった。

 

 私はなおも書きつづけたい。そう書こうと思えば1週間でもそうするだろう。この文章に主題などない、そして私は日本人であり、彼女はイタリア人であり…この文章は私の自己満足に過ぎないのである。これ以上は見苦しい、このあたりで筆を置く事にする。

 その後、私はスイスに帰り、自分の立場、それに男として Manuera を愛している自分の事を考え日本に帰ることにした。

 

 

 ここはソウル、3年後に開かれるオリンピックのマラソンで、瀬古選手に白いテープを切ってもらいものだ。そんな事はいいとして…

 いよいよ私の旅も終わる。19歳にして異国の地を踏み、恋ができたというだけで幸せだろうか?とにかくあの Udine の彼女と過ごした時間は、私の生涯の思い出であり、また宝でもある。出来る事なら、近いうちにヨーロッパを旅してみたい、今度は仕事ではなく旅をしたい。しかし先の事は私にもわからない。ただこの長い文章を締めくくる言葉は書く前から決めていた。

それでは、ひとまず、さようなら Manuera、

そしてみんな。そして、ほんとうにありがとう。

 

                                           1985.15.August

                                                  Eiji Oki

 

15年後のあとがき

 先日の金沢での上映でのトークショー。小幡氏の話で、ヨーロッパでの事、鬼太鼓座の事を懐かしく思い出し、戦友という言葉がぴったりの小幡氏と酒を酌み交わした。

 ふと、この文章の存在を思い出し、読み返してみた。なんともまぁ…厚顔無恥というか…それでもホームページに載せたのは、15年前の自分が書いたその時の想いがストレートに表現されていて、それは否定しようの無い事だと思ったからだ。

 15年前のヨーロッパツアーでは、私は日本から「竜馬がいく」(司馬遼太郎著)を持参し読んでいた。なるほどこの文章は司馬さんのそれに少し似ている気がする。そして鬼太鼓座を飛び出したその無謀とも思える行動も、今にして思えば竜馬の影響が大きかったと思う。鬼太鼓座で一緒だった仲間の証言によると、みんなと別れるときに「竜馬が脱藩したのは19歳の時だ、自分も…」と言ったらしい。(正確には坂本竜馬が剣術修行のため初めて土佐を離れ江戸に行ったのが19歳の時)荒波に出て行った竜馬に自分をダブらせたのだろう。

 高校卒業してすぐに、この鬼太鼓座の合宿所に入り、毎日ランニングと稽古の日々が続き、高校時代、駅伝部での日々とあまり変わらぬ生活をしていた。つまりまだ高校生で何かに属しそこに依存いていた私が、初めて自分で何か道を切り開こうとしたのが、このヨーロッパ(イタリア・フィレンツェ)だったと思う。そして小幡氏の存在なくしては飛び出す事は出来なかった。

 それにしても19歳という感受性が豊かなこの時期に、ヨーロッパ演奏旅行を経験出来た事は私にとってかけがえのない財産となった。人生70年と考えれば、今私は降り返し地点にいる。そのゴールまでには青春の思い出が残るこの地を訪ねてみようと思う。

 

                                                2000年 12月28日

                                                        大城英司