「涙」
感情を表現しようとするとき
身体が感情の大きさに耐えられなくなったときに涙を流す。
ということは、感情を表現するのが下手な人は涙もろいのだろうか?
違うな。感情を表現するのが下手で、かつ、感受性が豊富な人が涙もろいんだ。
感受性が豊富というのはどういうことだ?
感受性:外界からの刺激を深く感じ取り、心に受けとめる能力
だそうだ。
ある情報を理屈で処理できずに、感情に直接訴えられること?
その量が人より多い?
もしそうだとしたら、全ての事柄を理屈でとらえられたら涙を流すことはなくなるんだろうか。

「心」
心とはいったい何なのか?
全ての情報の処理は頭が司ってるはずだから
心(この場合場所は心臓を指す)は存在しえないはず。
だけど、ふられた時確実に胸が痛くなる。
興奮状態に陥り脈が速くなっているというわけでもない。
全ての情報は電気信号に置き換えられて脳に送り込まれるだけなのに、
なんでこんなにも胸が痛いのだろうか?
この現象は種の保存に必要な現象なのだろうか?
他の動物も同じように感じているのだろうか?
人間しか持ち得ない現象なのだろうか?
とはいえ、それを理解できたところで、何の解決にもならないのだが。

変わる
最近、横浜弁を使ってない自分に気が付いた。
使う相手がいないってのもあるけど、
たぶん、自分のなかで「知られたくない何か」を守っていたのだと思う。
こっちに戻ってきてから、地元の友達にたいしても、
なんかしゃべり方を気にしてしまう。
でも、それは本来の自分でないということに気が付いた。
本来の自分がどこに存在するかわからないけど、
しかし、今の自分は嫌いだ。
だから、変わる。僕が変われば周りも変わる。
嫌われるかもしれないし、好かれるかもしれない。
でもそんなこと気にしてたら、自分を変えるなんて到底無理な話だ。
変わるのは言葉だけじゃなく、いろいろと・・・そういう気分

日本人
日本人って「定義」することが好きらしい。
たしかに言われてみれば、僕も何かあればすぐ「定義」しようとする。
すぐ型にはめようとするのも、形から入ろうとするのも、
「定義」好きだからといえるのではないか?
逆に一切「定義」をしないというのはどういう事なんだろう?
より直感的になるのかな?
なのでアメリカ人(だったかな?)は直感的な人種なんだね。

宗教
日本の宗教論ってYesとかNoとかいろいろ言われるけど、
僕がちょっと思ったのは、日本のそれと海外のそれって、
基準が全然違うんではないだろうか?
例えば人が人を愛するように、また神の事もそれ以上に愛しているのだとしたら、
しかも、その民族全体で唯一絶対の価値観だとしたら、
宗教戦争が起こるのもわかる気がする。
戦争がいいかわるいかってのは置いといてね。
それにそういう絶対に信じれるものがあるなら
ちょっとやそっとじゃ負けないでしょ。
日本ってそういう国民全体の共通の絶対的な価値観がないから
今、必要以上に不安がるんじゃないかな。
もし、民族の宗教を持っていたなら、
「神の為に(神が見てるから?)頑張ろう」とか思うんじゃない?
普段動かない人でも恋人や家族の為なら何かしらやろうと思うでしょ。
だから、日本っていざという時弱いんだろうね。きっと
と、思いました。

戦争がなくならない理由
結論から言うと人間が動物だから。
犬や猫その他の動物を見てみると分かると思うけど、
同種でいわゆる縄張り争いがある。
つまり、理屈とか理性とかよりもずっと奥深い本能的な部分で、
そういう命令が出ているのだろう。
だから人間が人間正確には動物をやめない限り戦争はなくならない。

人殺しとは
上に続く内容だけど、
本当に人殺しがいけないことなのかどうかに疑問を覚える。
確かに人間「社会」においてはいけないことなのだろう。
とりあえず、法律とやらがあるから。
ただその枠を一歩出たら、たとえば「動物」あるいは「地球」という観点から見た場合、
人間にだけ天敵がいない。
地球上の何千何万あるいはそれ以上の生物がいる中で、
ただ一種「人間」だけが「食物連鎖」に含まれない。
現状考えた場合人間の天敵になりうる動物は地球上にはいないだろう。
人間を除けば。
つまりそういうこと。
「命は尊いもの」なんて意見はだめだよ。
そう言っている人間がいろんなもの殺していろんなもの食べているんだから。

価値観
上の2項目にも通じることだが、
価値基準をどこに置くかで意見が180度変わる。
たとえば上の項目で言えば「郷に入れば郷に従え」という言葉がある。
(ここで人間の諺を持ってきてもしょうがないかもしれないけど)
そう考えたら自分が自分に、あるいは、人間が人間に良い悪いを説いても
意味がない。
そんなことを考えていたら、自分がどこへ向かおうとしているのか
凄く不安になるときがある。