ゲーム制作の舞台裏
お仕事日記2006

12月26日(TUE)RAIN

関東地方は雨。大雨。
あまりにひどい雨だったので、S宮君とオペラシティの初台駅から新宿まで一駅京王新線を使うことにしたのですが、 オペラシティの前、悪名高い初台交差点の歩道もひどい水たまりができていて、 NTT側から信号を渡ったEXTROは、迂回するようにしてそろそろと歩いていたのですが‥‥。
何を思ったのか、S宮君がすごい勢いでスキップしながら水たまりへと突っ込んでいきました!  しかもなんだか超うれしそうに! 
派手に上がる水しぶき、当然靴はべちゃべちゃに。はね上がった水でEXTROもびしょびしょに‥‥。・゚・(ノД`)・゚・。 
「な、なにを考えて‥‥」
「水たまりがあるなんて見えなかったんですよー(><;)」
嬉しそうに見えたのは、浸水を始めた運動靴に顔をしかめて急いでいたのだとか。 それにしても、足元くらい見て、水たまりくらいよけろよ‥‥とか内心思いました。

れーえーえーえーえーええええーん あどんまーいん♪ (Beatles“Rain”)
って、気にするわい!(><;)

12月25日(MON)クリスピー・クリーム・ドーナツ

新宿駅のサザンテラスに出来てたんですねー。ってことで、会社の某先輩絵描きの方に行ってみたかと聞いてみました。
いんこさん「行くわけないじゃないの! あんな混んでるとこ! テーマパークで人気アトラクションが乗れるわよっ!」
‥‥なぜか猛烈に叱られました‥‥。

12月22日(FRI)S宮君ダウン?

S宮君、ノロウィルスでダウン! 
ただし自己申告。3日もぶっ倒れっぱなしだったら医者いきなよー。 家でデイトレやってて3万円以上損してるのは内緒にしとくからさ‥‥。

12月17日(SUN)理想的なゲームの攻略本とは?

‥‥というようなことを考えてみました。
人それぞれでいろいろ考えられるとは思いますが、ものすごく根本的な部分に立ち戻って、
「ゲームをより楽しめるようにしてくれるのが良い攻略本といえないか?」
攻略本、という名前の定義から考えると、そのゲームを「クリア」する助けとなることが最も求められているかとは思いますが、 だからと言って、とにかくクリアできるように、というだけではあまりに貧しい遊び方だと思うのです。 というのは作り手的な見方も多分に入っているとは思いますけど、 つまり、ゲームとして作ったからには、解ける解けないではなく、楽しんで欲しいわけで。
例えば、とにかくクリアまでの手順がなんのフォローもなく書き連ねてあって、 「これで100%クリア保障!」とかうたってるもの、これはないんじゃないの? とか思います。 そういうゲームを作る方も作る方だけど (そして、想像以上にいっぱいある気がします‥‥クリア後のムービーを見てナンボ、という作り方だからなんでしょうけど)。

じゃあ、良い攻略本は? というと、例えばゲームの進め方に多様性を持たせてくれるものなんかは、EXTRO的にはいいなーと思います。 RPGなどでは、武器や防具なんかのデータ、モンスターのデータ、宝箱の中身、ドロップ品、そういったデータが載っていることが 定番となっているわけですけど、これなんかは、まずここに行ってこのアイテム手に入れて、そのアイテム使ってこのダンジョンに挑戦して、、、 みたいなことをゲームをする前から考えて、実際にゲームをやって、アテが狂ったり予定通りに行ったりすることに一喜一憂、 これなんかは典型的なゲーム攻略本を使った楽しみ方だと思うのですよねー。

これは、ゲームそのものの方がそれに応えられるだけの多様性、懐の深さを備えていなければなりませんし、 攻略本の方も、その先まで突っ込んではダメだろうと思います。こっちに行ってこれをやってから次にここに行くのが正解、みたいなの。 そこを考えることがゲームの一部だって分かってるスタジオであれば、そういうヨケイなことは書かず、詳細なデータを、 ゲームの内情に即した形で、利用し易くまとめてくれている、そんな気がします。

突然攻略本の話でしたけど、これをとっかかりに、ちょっとゲームの企画を考えています。 次回はそのへんの話を、ちょっとだけ書こうかな‥‥ 一応現在進行形でやってる企画でもあるのであんまりたいしたことは書けないんですけど、 そんなんでもいいかな? 

10月31日(TUE)もみじまんじゅう

コーヒーを買いに出た午後。
出張の誰かのお土産のもみじまんじゅうがリフレッシュルームに置いてあったと、 S宮君がもってきてくれたので、コーヒーのアテにいただこうと、ウェットティッシュで手を拭いていたら、

「今更手きれいにしたって無駄ですよ。ぼくが汚い手で持ってきたんだから

。・゚・(ノД`)・゚・。

10月28日(SAT)フラッシュメモリ

バッファローの1Gのフラッシュメモリを買いました。

マニュアルのこんな一文が目を惹きました。

●本製品の取り付け/取り外しや、ソフトウェアをインストールするときなど、 お使いのパソコン環境を少しでも変更するときは、変更前に必ずパソコン内 (ハードディスク等)のデータをすべてMOディスク、フロッピーディスク等に バックアップしてください。誤った使い方をしたり、故障などが発生して データが消失、破損したときなど、バックアップがあれば被害を最小限に 抑えることができます。バックアップの作成を怠ったために、データを消失、 破損した場合、弊社はその責任を負いかねますのであらかじめご了承ください。

必ずパソコン内(ハードディスク等)のデータをすべてMOディスク、 フロッピーディスク等にバックアップしてください。

‥‥おまえがバックアップメディアちゃうんかと小1時間問い詰めたくなりました。

10月2日(MON)成熟

今回は、仕事(もちろんゲーム業界)で壁に当たってる、という友人の日記を読んで思ったことを書いてみます。

社会人としての暮らしが長い方なら、誰でも経験があるのではないでしょうか。頼まれた仕事を一生懸命やってたのに、 あるいは仕上げたのに、全部パーになってしまった。これって私のせい? 私のやり方がなにかまずかったの?  と反語で思いつめてしまうこと。内省的な方であれば、何割かは本当にそう思い込んでしまうのかも知れません。 でも。

社会ではよくあること。

反語でもなんでもなく、それは仕事を仕切ってる人が悪い。だからあなたには何の責任もない。 それで仕事の進捗が悪かったり、出来が良くなければ責任を取るのは仕切っている人であって、 その人は、そういうつもりで仕切っているとも言えるでしょう。 すなわち、その仕事をちゃらにしても良い、その方が仕事としてより前に進むことになる、 そうその人が判断したのだと。

それはつまり、あなたが何の責任もない仕事しかやっていないということであるし、 そのあなたの仕事に対して、仕事を回してくる人がその程度の評価しかしていないということでもあります。 それは正しい評価ではないかもしれない、そんなことはほんと、社会ではよくあること。 ゲーム業界はいい加減な社会だからというのはあるけれど、 古い大企業であれば過去の偶然のような実績やらコネやらでそのような立場に居座っている人は少なくないし、 新しく勢いのある会社だとしたら、そもそもそこにあなたは居場所を作るだけの仕事が出来るでしょうか? 

もちろん、出来るに決まっています。そう自分で思えないなら、こんなことで悩んだりはしないはず。 でもそれが出来るというなら、頼まれごとであっても、気安く切ることが出来ない仕事として仕上げることだって出来るはず。

‥‥というのは、私自身の社会との折り合い方なのだけど、社会で生きてゆくということは、 詰まるところ、どうにかしてその社会と折り合ってゆく方法を見つけるということに他ならないのではないでしょうか。 頼まれ仕事もよく吟味して、真面目にやっても仕方ないようなものは上手に手を抜くことを憶えるのもありでしょう。 頼まれ仕事だけしていればいいというなら、全部その調子だってやってゆけます(いや、ほんとかな‥‥?)。 より自分が得意とする仕事に注力して、そちらで実力を認めさせるというやり方もありますし、 仕事を頼まれない立場、これは必ずしも出世とは限らないのだけど、そういう仕事をする選択肢だってたぶんあります。

そういうことを考えるのも仕事をするということだと思って、自分で道を選んでゆくことですね。 どの道を選んだとしても、やっぱり壁はあるでしょうけど、それもくっだらない壁かも知れませんけど、 そんなときは、一人で思いつめても無駄なので、親しい友人や肉親なんかに思い切り愚痴って、 それで流してしまうといいですよ。悩むことは人を育てるけど、悩み自体にはたいした価値はないものですから。

とまあ、そんなことを考えたんですが、長々とこんな説教じみたレスされても嬉しかないよなー、と思って、 自分に向けてぶつけてみることにしました。もうひとつ、これはあふれるほどの才能を持ちながら、 それを無駄に持て余すことがかっこいいことだ、と思っている友人と、 そして自分に対して繰り返し突きつけたい言葉があります。 スタージョン「海を失った男」(晶文社)収録の「成熟」の結びの一文で、 スタージョン自身が2年に渡って会う人会う人に「成熟とは何か」と問いかけてきた果てに生まれた結晶。 なによりもっと大人になりたいと思い続けている私が、壁に当たるたびに導を示してくれる言葉であります。

それは成熟の定義ではなく、彼らの捜し求めた目標−成熟を納める聖杯−の素描である。
「ほどを知るのが成熟−」


9月14日(THU)mixiのIPO

S宮君が当たりまして、上がり過ぎのため隣席からは嬉しい悲鳴が。 今回は、今回こそはちゃんと美味しいごはんおごってもらえるかなー‥‥。

8月27日(SUN)ゲームのシナリオを考える(3)

とまあ、理詰めでゲームのシナリオの作り方というのを考えてみました。

作り方の部分は別として、システム/世界観をベースに物語を組み立てるという手法は、 実際にこれまでのシリーズでウチの親分がやってきている方法に他なりません (ただし、そのシステムの一端を担っていた私は必ずしもそれを理解していたとは言い難いのですが)。 それをこうして整理してみて、どうにか私なりに形に出来たという話であります。

こういう方法論は、実際のところ、本当にその才能に優れた人などには完全に不要なものかも知れません。
19世紀は小説の世紀、20世紀は映像の世紀だったといいます。 では、21世紀を代表とする文化に、ゲーム、あるいはその先にあるかも知れない、 インタラクティヴ・リクリエーションとも呼ぶべきものが昇華することができるでしょうか。 そのためには、それをごく一部の芸術家とも言える異能の人種のみに頼っているのでは今となっては全然不足で、 意欲と最低限の素養を備えた職人階級の人種(私みたいな人種)にも開かれることが必要であろう、 そのように考え、そのための標のひとつを置いてみたいと思って、これをまとめてみました。

書いてみて考えるのですが、これとは全く異なったアプローチで「シナリオの良い」 ゲームが作られることもありましょうし、また、ここでこれまでEXTROが理想としてきたような形以外にも、 シナリオの良い、面白いゲームというのはあるんだろうなあと思っています。 思っていますというか、実際にあります。 いつかはそれらに対しても制作論のようなことを考えてみたいと思いますが、 今はこれだけ、私の手の届く範囲だけで。

あとは、この手法で「面白かった!」と言えるゲームのシナリオを組めるかどうか。 それなりのネタはあるので、実践して示すしかないと思います。 首尾よく完成させられたら、あるいは、その過程で何か致命的な誤りに気づくようだったら、 また筆をとってみたいと思います。長文にお付き合いありがとうございました。

8月25日(FRI)ゲームのシナリオを考える(2)

(承前)

作ったものは、それがどのようなものであるか説明したくなる、という業が人にはあります。 ですが、作り手はそれをこらえて、受け手の意思によって読み解けるように話のアウトラインを組み立てる、 そういう作り方をしやすいのが、プレイヤーの操作によって話が展開してゆくゲームの利点でありましょう。 小説でもそういう傾向を持った作品というのは存在しますし、どちらかというと受動的なメディアである映画にも、 「メメント」のような、能動的な推察が物語を面白くする、という野心作は見受けられますが、 この点に関しては、能動的なプレイヤーからの介入が物語を展開させることが基本のコンセンサスとなっているゲームの方が、 映画より小説より向いていると言って良いでしょう。

すなわち、ここに力を入れることが、ゲーム的に良いシナリオを作ることへの一番の近道なんじゃないでしょうか。

簡単な手法であれば、情報をNPCなどに振り分けて、それを得たプレイヤーが自分なりに話の全体像を再構成できるような作り方。 NPCという擬似人格を介することで、情報の引き出し方にワンクッション入れられますし、 あえてミスリードを誘うような情報も混ぜられるのがなんといっても強み。 特定の誰かに全て語らせるのではないため、情報が整然と整理されている必要はなく (むしろ時系列に添って適切に再配置を行わないとやはりミスリードしてしまうような仕掛けを入れることも可能)、 したがって最初にゲームの目的に相当する情報を公開して、現在の情報、そして目的に至る行程の情報の断片を様々な手段で 入手が可能なように工夫すれば、やがてプレイヤーはゴールへの自分なりの道筋を作り上げられることになるでしょう。

イメージとしては、伏せた情報カードの海があって、それをゴールへ向かって開いていくような感覚かな、と思います。 開き方によってはそこからどこへも繋がらないカードと化したり(ミスリード)、話の性質によっては、 そもそも目標となるゴールのカードが伏せられていて、それを自分の現在地から四方へと手探りで探していったり、 逆に明確に分かっている開かれたゴールカードへ、最短で向かおうとするととにかく難問が待ち受けていて、 案外急がば回れが有効だったり、力押しが出来たり‥‥。

それが(物語、というような意味合いにおいての)シナリオか? という疑問はあるかも知れません。 ただ、これは情報の出し方の手法なので、バックボーンとして物語があることを否定はしないと思います。 それが主人公に直接関わることであろうと、なかろうと。 ただし、お話とゲームの目的を関連付けることは、これはなんとしても必要なことなので、 この部分を考えなくてはならないことだけは必定ですが、それがないなら、 ゲームのシナリオである必然性もないことになりますよね。

ところで、少し脱線しますけど、ゲームもモチロンそうなんですが、完成させるということは本当に難しいことで、 ゲームでシナリオを詰めていきたい、と考えている人には、小説を書くとこと、これはぜひ経験して欲しいと思っています。 表現手段として小説とゲームでは根本的に違うものではありますが、完成させる難しさを知ることは、 どちらにとっても有益なことですし。
というか、ゲームでシナリオがやりたい、という人の多くは、例えば作家になりたい、 あるいは脚本を書きたい、みたいな人が多いんじゃないかと思うのですが、どうでしょう? 
それを最終目標に、とまで考えている野心のある人は別としても、 ライトノベルの仕事が来たり、脚本やアニメ原作とかはちょっとどういう口があるのかそもそも分からないですけど、 実はそっちの仕事の方がやりたかった、みたいなことってないんでしょうか。

そういう人/才能を取り込みやすい点が今のゲーム業界のメリットでもありますし、 一方、実は映画やアニメがやりたかったんだけどゲームである程度の成功を収めたので、 ゲーム向きであるか否かに関わらずそれをゲームで表現しようとする、という状況が見受けられるのは、 同時にゲームの新しいメディアとしての発展を阻害する要素ではないかと思います。 しかし、それは文化として成立するためには乗り越えるべきハードルでもある訳で、 例えば先に上げたような手法で作られている「シナリオの面白かった良作ゲーム」が一定量供給され続けて、 それらが一般に認知されることになれば、ゲームは小説や映画の模倣ではなく、 その手法を真に取り込んだ新しい文化として成立するのではないだろうか、と、 その業界に巣食う身としては、夢想してしまうのであります (それが成就することまで生きてはいないとしても)。

(‥‥ひとまずこんな感じですが、もう1回、簡単な結びで終わりにします)

8月23日(WED)ゲームのシナリオを考える(1)

という訳で(19日のお仕事日記参照)、中途半端に予告になってしまったシナリオの話を開始します。 第一回はRPGのシナリオが良いとはどういうことか、について。ナガイヨー(><;)


ゲームの、RPGのシナリオが良いというのはどういうことだろうか、と考えています。

まず、話が面白いことと、ゲームのシナリオが良いこと、 ここがちゃんぽんになりやすい部分だと思うのですけど、 分けて考えるべきところだ、というところからはじめようかと思います。

話の面白さであれば、例えば、力のある作家さんが作った話をもらってくればよろしい。 ただしゲームというジャンル自体は、小説や映画などからは遥かに格下と見られているものですし (そういう上下を置くことの是非はさておき、一面の真実ではありますね)、 良作をもらえるとは限らないという面もありましょう。 ならば更に一歩進めて、過去のヒット作を貰ってくればいいでしょう。相応のロイヤリティは発生するでしょうが、 開発費が並みの映画を遥かに上回ってしまう昨今のゲームにおいては、ネームバリューも含めて、 必ずしも高い買い物とはならないと思います。

‥‥というのは、今更私が持ち出すまでもなくもちろん過去にも例のあること。 むしろゲームのことを知らない人ほど至りやすい発想という気がします。 だけど、こういう原作付きで大ヒットしたゲームって何かあるかというと‥‥。 実は‥‥思ったより見当たらりません、よねえ?  (ぱらさぃt‥‥は、原作がアレですので)

では、対してゲームのシナリオが良いということはどうかというと。 あのゲームのシナリオが良かった! という具体例は各々方で頭に思い描いてもらうとして、 それは、例えばこんな要素を備えてはいなかったでしょうか。

1)キャラクターの成長が、ゲームのストーリー展開にダイレクトに関わっている。
2)世界の在り方を理解する、謎がほぐれてゆくことがゲームのストーリー展開に関わっている。

1は、RPGとして最も一般的と言って良い形で、ゲームの目的とストーリー展開のベクトルが一致しているため、 プレイヤーは躊躇なくゲームを楽しみながら話を進めてゆけます。あまりに多用されすぎ、 ステレオタイプを嫌うシナリオライターの人が敢えてここを捻じ曲げるということもありますが、 「伝説の戦士、でもレベルは1」‥‥これは、シナリオとゲームが見事に乖離してしまった悲しい例だと思います。 いや、問題は、それをシナリオライターの方が気にもしていないという点がむしろ悲しいといいますか‥‥。

2は、世界観をゲームの展開にしたがって体感していくことを楽しむゲームの場合。 例えば魔法が当たり前のものとして使われている世界、プレイヤーは当然そういう世界の住人ではない訳で、 その世界に馴染んでゆく、という形の成長がストーリーに絡んでゆくと、 プレイヤーにとって、システム理解>使いこなす面白さと、物語が展開していく面白さがリンクする訳で、 ゲームとストーリーのベクトルが一致することになりますね。 ベタな例をあげれば、主人公が記憶喪失、あるいは、別の世界からの来訪者、という、 プレイヤーと同じ立場から始まる物語。 こういう極端な例でなくとも、例えばドラクエなんかは主人公を寡黙にすることで、 あえて「主人公は知ってることだけど自ら語らない」ことによって、プレイヤーがキャラクターとなって、 世界を体感していくという部分を邪魔しないようにしている側面もあると言ってよいでしょう。 (8作も同じシステム、世界観で続いているシリーズ作にあっては今更な感も強いですが)

どちらもが、すなわち、ゲームのシステムあるいは世界を基準に、その上にストーリーが展開されている、 その点こそが重要なことだろうとEXTROは考えます。 もう一言付け加えるなら、システムと世界観というのはひとつのものの異なる断面に過ぎません。 世界観もまた、設定というものとしばしば混同されることがありますが、それは、 世界がどのようにして成り立ち、動いているか、というシステムを体系化することで、 見えない部分を手作業で作りこむこととは真逆の、見える部分さえも自動で補完されるような工夫、 ゲームにおける世界観というのは、そのようなものであると考える次第です。

(‥‥続きます、次回はつくりかたの話)

8月19日(SAT)メールの行方

ここに載せるか、ミクの方にプライベートに公開するか、そんなつもりでゲームのシナリオについてのメモを 会社で取ってたりしたのですが‥‥。
メモと言ってもEXTROはネットワーク知性体(低性能だケド)。テキストファイルな訳で、 これをメールに添付して、この週末でまとめるかな、と、送ったのです。家の方に。
送ったのです‥‥送ったはずなんです‥‥。
なんで届いていないだぁーー!(JoJo風)

自分用に家にメールしたり、会社にメールしたりするとき、EXTROは専用の振り分けフォルダをきっているので、 そこの適当なメールを選んで、返信として、そこにテキストファイルなんかをドラッグ&ドロップして、 というやり方をしているのですけど、思い当たることといえば‥‥
だれか、別の人からのメールに、やっちゃった!?
ううっ、明日会社行くの怖いなー‥‥。 フォルダの構成だと、間違ってベントの山下さんのとこに送っちゃった可能性さえあるんですよー;  あうー、やヴぁいやヴぁいやヴぁすぎですーー(><;) 別の人のとこでもやヴぁいんですけど。。。
送信エラーか何かでありますように‥‥。そして、ここを見ている方で、 間違って怪しげなメール(本文なしで、memo.txtが添付されてるという‥‥)がEXTROから届いてましたら、 問答無用で削除していただけると大変ありがたいかと‥‥!

追記:無事メールは自宅宛で、エラーにより発送されておりませんでした!
今度は、なんで送られなかったのか悩む日々です‥‥送りなおしたコンパクト版も届いてないや。むー。

8月1日(TUE)8末に向けて

さて8月。仕事は今月末で一段落させる予定です。いや、特にどこからも望まれていないというか、 プロジェクトのプロデューサー氏もディレクター氏も割とどうでもいいみたいなんですけど、 でもって相変わらず人は4人(ディレクターは何もしていないので頭数に入れていません)、 プログラマもいなくて、デザイナーは一人素人のバイトさんで一人は別ビルで未だに席も用意されてなかったり、 なんというか、仕事したふりだけしていて給料ふんだくろうというのがありあり分かる情けない陣容ですが、 ゲームを作ることしか能がないEXTROとしては、こんな環境でもゲームを作るのみ! 
好き勝手に仕事をやらせていただきます(*゚ー゚)

7月11日(TUE)世界樹の迷宮

■世界樹の迷宮公式サイト (ゲーム)
■『世界樹の迷宮』のディレクター新納一哉氏にインタビュー!  (ゲーム)
こういうのを作りたかったー、と思わせるような記事ですねー。 EXTROが作っているものは製品化できるかどうか全く目処が立っていませんけど、 こういうソフトが期待通りで、商業的にも成功してくれるといいなーと思います。

古きよき時代のゲーム臭がするデザインですが、単に懐古だけでないとベター。 あと、ちょっとキャラが‥‥ですけど。と、とにかく期待してます(ノ><)ノ 

6月19日(MON)マップ

HSP(言語)製のマップエディタを使って、地上5階地下1階の塔のマップを作ってみました。 セルはエディタについていたサンプルを使っているので適当。というか、ほぼ床セルと壁セルしか使ってなかった!  階段上り、階段下り、トレジャー、イベント床と、細かく見ても6種類‥‥。
とりあえずデータ的に組んでみて、これをデザイナーの人に見せてちゃんと塔らしく見えるようなパーツを作ってもらったり、 それを使って組んでみてもらったりする訳なのでこのまま製品になる訳ではないんですけど。 で、基本パーツをろくすっぽ使っていないにも関わらず、思ったより面白いものが出来た気がします。 仕掛けもほぼナシ(ゴール点でのちょっとした仕掛けくらいで、これはマップの仕掛けに含まれない)。 これは道の分岐と見える範囲を使った一種の心理トリックだけで作られているからで、 こんなでも案外遊べるものが出来たんじゃないかなあと自分では思ったりします。 総マップの半分がこれでもいいかな、私としては。
言語の仕様や目指す方向的にも、凝った仕掛けやグラフィカルな仕掛けは作りにくいところですし、 だからといってダンジョン内をノーヒントであっち行って鍵探して、こっち行って扉開けて、 みたいなのを私はあんまりゲームとは思ってないのですよねー、特に試行錯誤の総当り正解は嫌い。
‥‥って、これが本当に製品レベルのゲームのマップなのかどうかは、 なにせマップを作ったのがあまりに久しぶりなので良く分かりません。 あ、久しぶりというか、会社入ってから初めてだw

6月17日(SAT)恋愛ゲームのドラマツルギー

土曜日にFFXIでよくお見かけする ファミ通PSのTromさんの記事 を探してて、つい目についてしまうバナーの某ギャルゲー‥‥。

「キス...でしか伝わらない想い...」

なにこのBoys be。

なんとなく知り合いさんの中に少なくとも2人くらいやってそうですし、具体的な名前を出すのは控えます。 全然控えてない気もしますが。しかし、それにしてもこれは‥‥。なんか、あえて生理的嫌悪を煽っている気さえするんですが、 気のせいでしょうか? それとも、あえてそこまでをネタとして楽しむもの?  だって、30過ぎて新婚で美人の奥さんがいて間もなく子供が生まれるってのに、 これに金払ってやってるとまでは思わなかったぜセニョール! 

‥‥そんなことで熱くなるワタシも大概大人気ないなあとは思うんですけどね‥‥。

だけど、この安直さは何? と思う。タイトルと煽り文句、さあかわいい女の子と両思いになってキスできますよー、 相手は同じ中学(高校?)の同級生だったり幼馴染だったり? やってない私が言うのもなんだけど、 なんかこんなんばっかしじゃあーりませんか? ありふれた舞台で、 ステレオタイプ(そのステレオタイプさが浮世離れしてるんだけど)な恋愛をそんなに体験、したいの??? 

恋愛のドラマというのは、それはもうフィクションという形式の文化が根付いて以来ずっとある訳で、 その中で磨かれてきたドラマツルギーというのも広く認知されてますよね。
有名なところでは、例えば「ロミオとジュリエット」。
障害が大きいほど、ひとたび見出されてしまった愛はいやがおうにも燃え上がる、というもの。

これは例えば「ベルサイユのバラ」でも、エンディングテーマで
「苦しめば苦しむほど 愛は 愛は 深まる‥‥」
とあるように、古典のドラマツルギーを忠実に表現されているんですよねー。 子供のころ読んだときには、やっすい少女マンガ、としか思わなかったのだけど、 長じてから再読して、これ、凄い傑作なんじゃない? と思ったのもそれが故で。 アンドレは、オスカルのいわば幼馴染にあたるんだけど、 ここにフランス革命前夜の厳しい身分制度というとても深い溝があって、 二人は安直にこの溝を越えて愛し合うようなことは出来ないんですよね。 そこにフランス革命の激流が来て、それによって初めて溝は埋まり、二人は結ばれるけど、 それは同時に悲劇的な結末にも繋がっていく‥‥。

これですよ! これが、恋愛ドラマってものじゃあないですか!?

じゃあ、ありていに、所詮はドラマのなんたるかも分からないようなゲーム屋が作るゲームのシナリオだから、 今どきのギャルゲーにそんなドラマツルギーなど求めるべくもないのでしょうか?  つまり、ちゃんとしたライターがシナリオを書くと、実はもっと爆発的にヒットするような傑作恋愛ゲームが 出来たりしますかね? 

一から考える才にはもちろん恵まれていませんので、ちょっと借り物でシミュレートしてみましょうか。 そのまま「ロミオとジュリエット」を恋愛ゲームで再現してみたら、どうでしょう。 舞台は現代、それもユーザーに身近なところに置くとして、 モンタギュー家とキャビュレット家の抗争も現代的に置き直して、と。
こんな感じになりますかね。

2ちゃんねらーの主人公男が、韓国人の娘と出会って恋に落ちるのだが‥‥。

うん、続きを書くまでもない、とても売れそうにないね。

5月15日(MON)やっぱり任天堂か!?

■「Wii」は思っていたほどたいしたこと無い (ゲーム)
批判することは格好いいことだ、という少々残念な固定観念を(心の奥底に)お持ちのゲーム通のライターさんが、 直接触れたことのないゲームやゲームハードをずばずば斬って行く、まあよくある辛口コラムサイト。 ただし結構大手なので情報源は豊富で早く、 匿名掲示板等で形成される評判がうかがいやすいという点から、 EXTROも大変重宝しているサイトさんです。必ずしも皮肉ではなく。
で、ときどき、思いも寄らなかった見方に気づかせてくれるのも好評価。

今回の記事では、
>思った以上に操作が複雑。
ここに注目!

これは、任天堂Wiiのコントローラーを使った遊びに関しての感想で、 発表以来同じような感想を抱いている人も多いとは思います。 私自身も、少しはそういう感想を持っていました。 少しは、と断りがつくのは、ひところ社内で採用関係の仕事に携わっていたこともあって、 任天堂DSが発表・発売以来、ゲームの企画に、 それこそ信じられない数の、 DSの二画面構成やペン入力を題材にした企画が寄せられてきている、 という現実を見ているからこそ言えるのであって、 そういう仕事をした経験がなければ、同じように、
「こんなん、だめなんじゃない?」
素直にそう思ったかも知れません。

ところが、こうやって明言されてみるといろいろ逆の考えが働くもので、 このコントローラ・デバイスに関して言えば、 コントローラーを扱うこと自体が複雑、すなわち、それ自体が新しい遊びの要素になりうる そうも考えられると気づいた訳です。

当然ながら、つくり手がそれを意識していないとひどいことにはなると思います。 コントローラー操作自体が一つのゲーム性を有している以上、 それを介して行われる要素の方は逆にシンプルに、正しく操作できることそのもので遊びが完結するような、 そういう意識は必要でしょう。 こういう頭を持たずにデザインされ、開発途上での慣れと強制的なバランス調整で お茶を濁されてしまうと、そのゲームはだめになってしまうかも知れません。

先の文中で、外人は身体を使って遊ぶのが好き、という一文がありますが、 これは何も外人に限ったことではないでしょう。 ただ、日本の家庭用ゲームにはあまり例がなかった (音ゲーなどの分野では少なくもないのだけど、専用コントローラなどの問題が足を引っ張っていた) というだけで、こういう機能のコントローラが存在すること自体が、 それらが改めて登場する下地になるかも知れません。

もちろん、従来型のゲームはコントローラに関係なく遊べるのが前提ですから、 それ自体はマイナス要素となるほどでもないでしょう。 クラシックコントローラが入手しやすいとなお良い気はしますが、 そのへんはハードの普及台数などで自ずと整ってくるのでは、と思います。

ライバル陣営のだめっぷりとは好対照に、任天堂は堅実に強い感じですねー。逆に、任天堂にがんばってもらわないと、 ゲーム業界自体がだめだめになってしまう気もします。CUBEは買わなかったEXTROですが(専用小型CDというのが気に入らなかった)、 Wiiは購入してみようかと考えております。

3月17日(THU)のだめとお料理ゲーム

漫画喫茶に行って、のだめ (のだめカンタービレ) の7巻〜14巻を一気読み。いろんな面白要素の詰まった漫画だなーと思います。

で。千秋君のR☆Sオーケストラ指揮のシーン(7巻かな)を読んでて、 漫画の中の観客と一緒にジーンとなったりして、ふと思ったのですが。

音楽を聴いてる訳じゃないのに、音楽を聴いてるように、音楽に感動してる? 

というか、少し考えてみればEXTROにクラシックを聞き分ける耳がある訳もなく、 だからこそむしろ、観客のうっとりした表情の描写とかだけで、いい音楽を聴いたかのように、 自分も感動してしまえるのかも知れないなー、なんて思いました。

ということは。
以前、料理ゲームの企画とかを出したときに、ウチの親分から
「料理をゲームにしても、実際に喰えないから、それって料理じゃないよな」
みたいにあっさり却下されたのですが (いやま、その企画は実際に料理を作らせるゲーム?だったのですがオヤジハナから読んでねえ!)、 料理の美味しさ、みたいなものをテーマとしても、ちゃんとゲームに出来るかも知れないなー。 なんて思いました。「俺の料理」みたいな基本的に料理と関係ないミニゲームのノリではなく。

そういうことが出来るのが、小説だったり漫画だったり、あるいは映画のようなものの良いところな訳で、 それとは次元の違う話ではあるのだけど、結局、ゲームであっても、 表現できないものを外挿的に表現することが、こういう創作の面白さではないかと思うのです。 そしてそれゆえ、最近のCGをバリバリ使った映画が、表現できなかったものを描くことが出来る!  と勘違いしていると、なんか作り手だけが満足して終わってしまうような、 つまらないものになってしまうんじゃないでしょうかね‥‥ (最後のは殊能将之の受け売りっぽいですけど)。

だからと言って、料理ゲームを作りたいって訳じゃないんですけど(←ここが問題)。