部屋

 寝苦しい夜はどこまで続くのだろう。
 私はそう思いながら今日もまた浅い眠りから目が覚めた。ふと時計を見るとまだ午前の2時ちょっと過ぎだ。
 熱帯夜と呼ばれる日が始まってからもう2週間は続いているのではないだろうか。エアコンもなく、風通しも悪い部屋に住む貧乏学生と云われる類の私にとって夏はとても嫌いな季節の一つだ。家賃が安いというだけで何の取柄もないこのアパートの部屋は脆弱な生活に慣れた人が暮らすにはあまりにも辛すぎる。
 私はせめて扇風機でも買った方がいいのかと思いながら水道の蛇口をひねる。
 相も変わらずちょろちょろとしか出ない水の勢いに溜息をつきながらも私は顔を洗う。寝苦しい夜はこんなささいなことで体を冷やすというのは私の習慣にいつからかなってしまっていた。
 私は毎日のように繰り返されるもの悲しい思いを抱きながら再び眠りにつこうと布団に向う。
 そのまま寝つけずに火照った体をもぞもぞと動かしている時、ふと背後に何かの気配を感じた。
 また幽霊か?
 私はぼんやりと無感情な気持ちで考える。
 丁度ここに入居しようと考えた時、大家に直に言われたのがこの幽霊の存在だった。なんでも随分前にここで殺人事件があったらしいのだがその被害者が出るというらしい。もっとも私にとっては出ると云う事よりも、そのお陰で部屋の条件の劣悪さもともなってただ同然で部屋が借りられるという事実の魅力の方が遥かに勝っていた。
 確かに最初は驚いた。もともと殆ど信じていなかった幽霊なんかの存在を現実にあるものとしてとらえるようになるとは正直思ってもいなかった。しかし、だからといって少し考えてもみればそれが何の実害があるというのだろうか。噂に聞く祟りと云われるものもある訳でもなし、ただ単純に出るだけなのだ。
 これで恨めしいの一言でもあればまだ可愛げもあろうというものなのにこいつときたら何も言わない。ただじっとこちらを物悲しげに目つめるだけなのだ。
 確かに自分の部屋に勝手に居座られているというのは面白くないが、それは向こうだって同じだろう。結局実害がないという意味ではあちこちに出没している虫の類よりはよっぽどいい。私は最初の1週間であっという間に慣れてしまい、入居半年目となる最近ではあぁまた出たな。ぐらいの印象しか持っていなかった。
 そんな訳で今日も少し寝苦しい材料が増えたな程度にしか考えていなかっただが、今回は少し様子が違っていた。
 背中越しに感じる気配が少し大きい。私が今までに感じていた無害な何かとは少し違う。一言で言ってみればそれは殺意だ。今までの奴とは違うのか。
 私はとっさに振り向いた。
 成程。
 後悔というのはこういうことを云うのか。
 私は目の前に広げられる光景を見ながら思った。目の前に繰り広げられるのはかつて惨劇の再現フィルムだったのだ。
 出刃包丁をふりかざす人とふりかざされる人。今までは聞こえることの無かった音の類まで聞こえてくる。腹に刺さる刃物の音というのはこの上なく不快なものだった。
 刺した側も刺された側も何やら大声で叫んではいるのだが何故だかそれは聞こえない。ただ不気味に刺す音だけが続いていた。
 刺した人がゆっくり離れた。不自然なほどに辺りを静寂が襲う。そういえば普段なら聞こえるはずの近辺に住む住人や虫たちの音すら聞こえない。耳が痛くなる程の完全な無音だ。
 私は目の前の光景よりもその無音の方に何故かしら強烈な恐怖を感じながら、見えているのか見えていないのか判らないままこっちに向かってくる刺した人を見ていた。
 幽霊を半年見ながらも初めて感じる金縛りというやつを体感しながら、私は目を見開いたまま気が遠くなっていくのを感じた。
 
 日が空け街の発するざわめきの中、私は布団から大きく離れた場所で倒れこんだ姿勢のまま目覚めた。
 あわてて自分の体に異常がないかを確かめ、問題ないことに心底ほっとしながら部屋から逃げるように外へ出た。そのまま大家の元へ駆けつける。
 息も切れ切れにやって来た私を見ながら、大家は何を今更という顔をしながら事件があった日が丁度昨日の夜であることを明かした。
 すぐにでも引っ越すべきだったのだろうが、先立つものもなし、そのまま私はそこで暮らした。恐怖は凄まじかったが実害のレベルでいうのなら悪い夢と言い聞かせられるだけで実際に体を壊したとかいうのではなかったのもある。
 私はそれから4年間そこで暮らしたが、幽霊はそれからも相変わらず出没し続けた。私は以前のように何も気にしないというとこまでは達観できなくなっていたが、なんとか気持ちをそらしつつ過ごした。人間とは不思議なものでそんな不自然な状態でも結構慣れたりするものなのだ。だか、それでも事件のあったその日だけはどうしても部屋にいることはできなかった。何がとは言えないが次こそはという気がしてしまったからだ。
 気を失う直前に感じた体に刺さるものの生々しさだけは、それからはるかに刻が過ぎた今でも忘れられずに残っている。
 
                   −終−

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