窓の外
窓の外から声が聞こえた。 熱帯夜が続き浅い睡眠しかとれなかった私は、その声に反応しながら手もとの時計を見る。時間は午前2時を指していた。 こんな時間に誰だと思いながらじっとしていると、再び声が窓の方から聞こえる。 「うなあ」 なんとも判別のつきにくい甲高い声だ。とっさに私は発情期の猫だと判断する。今時分にこういう猫をあまり見ないが、決していない訳ではない。しかし、耳障りな声である。 もう一度ないた。 「おぎゃあ」 ん。 私は猫ととは微妙に違うその泣き声に反応した。 これは……。赤ん坊の泣き声ではないのか。 確かに春先のシーズンにとなれば、猫達は大合唱で声を張り上げ、不気味なことこの上無い。しかし、猫は猫だ。例え似ていたとしていても赤ん坊のそれとは違う。 そしてこれは人間の声ではないのか。 私はこんな時間に明らかに外から聞こえる声にぞっとしながら恐る恐る窓の方へ向かった。 起きてしまった赤ん坊をあやしに母親が外に連れ出ているのではないだろうか。しかし、迷惑な話だ。等とぼんやり考えながら私はさっとカーテンを開いた。 すると。 「ぎやあ」 目の前のそれはそう低くうめいた。 私はカーテンを開いたまま硬直した。その目線の先には、窓にしっかりとへばりついている、赤ん坊の姿があった。 こんなことが果たしてあるのだろうか。 その赤ん坊は手に吸盤でもついているかのようにしっかりガラスに吸いついて、小さな体は完全に宙に浮いている。服は無い。肌は赤い。そして、独特の深いしわがはっきりわかる。赤ん坊と一まとめにするよりは新生児であると言ったほうがいいのかもしれない。 私はあまりの非現実な光景を目の当たりにして全く動けず、ただ、あ、あっ…と微かに声を出すのが精一杯だった。 今までにも怖い思いというものを幾度か体験したこと事があるがこれはどれとも違う。なにか原始的な恐怖というのだろうか。 赤ん坊は私の目をじっと見つめて決して視線をそらさない、まばたきすらしてくれない。それは私の中に湧きあがる恐怖をいっそう増幅させる。 私の方も私の方で目が乾いてきていると感じているのに何故だか目をつぶることができない。目が合ったまま全く動くことが出来ず、ただ、呼吸だけが無性に荒い。 赤ん坊は目を開けたまま時折表情を変化させる。なあ。と、なく。 それは確かに笑い顔なのだが、決していい笑顔なのではない。ひどく歪んでいる。いや、こっちがそう勝手に受け取っているだけの無邪気な笑顔なのか。 私はその永遠とも言える時間を汗がしたたるのをはっきりと感じながら、過ごした。 じりりん。じりりん。 じりりん。じりりん。 その異様な沈黙は、不意に訪れた一本の電話によって破られた。 私はそこで初めて自分の体が自由になり、慌ててあとずさる。赤ん坊は依然としてこちらをじっと見ている。 あわわわ、と声を震わしながら私は恐る恐る電話を取る。指どころか腕や体全体が震えてなかなか耳元まで受話器を持って行くことができなかったが、とにかく目の前のものから逃げ出したい一心で電話口の相手に助けを求めようと奮闘する。 なんとか耳元まで持っていき、助けてと声に出そうとした時、電話口のそれは先に声を出した。 「あぁあ」 赤ん坊の猫なで声だった。 私はどこにも逃げ場のない絶望感がはっきりと全身を覆っていくのを感じた。 「だあう、だあう」 赤ん坊はそれを全く意に介さないかのように、不気味というのか無邪気というのか判らない声で電話口と窓の外で同時に笑った。 私は恐怖のあまり部屋から逃げ出すこともできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 声と視線だけが変わらずに続く。 そのまま立ち尽くしてどれくらい時間がたっただろうか。 私の体が汗でびしょぬれになった頃、赤ん坊の背の方が白い光を感じ始めた。 夜明けだ。 光が静寂の闇をゆっくり生ある世界へと変えていく。 私はまだ動けないままだったが、赤ん坊の方には少しばかりの変化が見え始めた。 徐々に、徐々に光にまるで溶けこむかのように、その姿が透明になっていく。 ずっと笑っていた赤ん坊の声もだんだんとうっすらしたものになり、聞こえなくなっていった。 完全に太陽がその姿を現した頃、赤ん坊の姿もすっかり消え、私も自由を取り戻した。 それは生涯で恐らくもっとも長い夜の終焉だったといえよう。 私はそのまま部屋を出て友人宅に泊まった。流石に昨日の今日で部屋にいられる筈も無い。 一度落ち着いてからは果たしてあれはなんだったのかと、この部屋どころか街や人のことで原因となるような事件や文献などを調べてみたのだが、結局それらしきものは見つかることが無かった。 逆にそれがとてつもなく恐ろしかったが、わからないものはどうしようもない。また判ったとしても防ぐことなどできるだろうか。 あれから幾許か刻はたったが、あの赤ん坊は今のところはまだ再び現れてはいない。 私はあれは真夏の悪い夜の夢だったと思いこむことにしようしているが、あのどうしようもない声と視線、そして窓にこびりついた小さな手の跡だけは一生忘れることはできないだろう。 −終− |