隣の

 壁の向こうから声が聞こえる。
 時刻は午前1時を過ぎているというのに、隣人は何を考えているのだろうか。
 私は軽い苛立ちを感じながら壁に背をむけるように寝返りをうった。無論それで聞こえなくなるというわけではないのだが。
 隣の人が引っ越してきたのは恐らくは一月前ほど前。断定ができないのは隣の人に私は会ったことがないからだ。ただ、そのころから壁の向こうから声が聞こえ始めたという現象が起こったからの判断に過ぎない。
 声の主は男だったり女だったり、若かったり老いていたり、日本語だったり外国語だったり、とにかく様々だ。 いろんな人種が日ごとに変わっていたり一斉にいたりで、それが大体深夜の11時から3時にいたるまでいつも続く。騒がしいことこの上なく一体何がどうなっているかの判別すらつかない。
 時折あまりの騒がしさに隣の部屋のドアを叩いたのだが誰も出ることはなかった。それどころか、私が自分の部屋を出た途端、声はかっきり聞こえなくなり気配すら感じることはできなかった。どう考えてもこちらの意思に気づいているとしか思えないし、本当に腹が立つ。 そのくせ怒り心頭に私が声のする壁に大きく蹴りを入れたりした時は声は全く止む気配をみせない。もうなんらかの悪意があるとしか思えない。
 あまりにも毎晩続き私はもうたまらないと大家に隣人の苦情を述べた。
 すると大家はなんだ。という顔をしながら隣は今はいないよ。と話す。
 なんてことだ。と私はどうしようもない感覚にとらわれながら大家とともにその部屋へ向かい鍵を開けてもらった。
 がらん。
 確かに人は住んでいなかった。住んでいないと知った時、誰かが毎晩勝手に入り込んで騒いでいるとばかり思っていたのに人が踏み込んでいたという気配すら無い。
 これは一体どういうことなのだ。私は特別に部屋の鍵を貸してもらい夜を待つことにした。
 そしてその夜。
 私はいつものように声が聞こえるのを確認し、そのまま一気に隣の部屋へとかけこむ。通常ならそこにたむろしている輩があまりにも多種多様なことによる不気味さで近づくのもはばかられるが、ずっと続く毎晩の騒音によって気分が振り切れていたので決断してからの行動は素早い。
 ばん。と音を立て部屋にのりこむと部屋の中は、がらん、としていた。
 入る前からほんの少しは予想していたことだが、気分が底冷えする。
 わからないことは恐ろしいが、わかることによってもっとわからなくなることはさらに恐ろしい。
 じっとりとした汗が全身をさっと覆う。これは…なんだ。
 一歩も動きたくなかったが、心の奥の好奇心が体を無理矢理声の聞こえていた壁へと動かす。
 まるであやつられるように、一歩、また一歩と進み壁の付近に近づいた時、聞こえた。
 声が。
 いつもとかわらぬさまざまな声が壁の向こうから聞こえる。壁の向こう。私の部屋から聞こえるのだ。
 信じられない事態を目の当たりにしながら私はゆっくりと腰を下ろした。
 立ち上がる気力が出ずにそのまま体育座りになり体をぎゅっと縮める。声はそんなこととは関係なく延々と続く。
 じっと汗ばんだままその場を過ごし、時間は刻々と過ぎていく。声は楽しそうだったり悲しそうだったり騒がしさは続いている。
 突然声が止んだ。
 どうやら時刻は3時を過ぎたようだ。いつもと全く変わらぬまま状況はいつものように終わったというのか。
 私は重い腰を無理矢理立たせ、ゆっくりと部屋を出た。
 不思議なほど音の全くない暗い廊下を見渡しながら自分の部屋のドアノブに手をかける。
 ふと、その時ドアの向こう側に気配を感じた。
 ざわざわと声が聞こえる。体中の血が逆流するかのような感覚を持ちながら、一気にドアを開けた。
 静寂だった。
 私は行き場のない感情がふつふつと沸いてきた。得体の知れない恐怖から、馬鹿にされたような感情を逆なでされた怒りへと変わっていく。
 ふざけるな。と私は大声で怒鳴り散らしながら部屋中を荒らし、例の壁に手当たり次第に物を投げつけた。
 息もたえだえに疲れ果てた頃、 部屋の隅から光が差し始める。朝だ。
 すっかり日も上がり大家が私の部屋へ様子を見に来てその部屋の様子に大層驚いた。無理もない。自分でもどうしたものかと思うぐらい荒れた部屋となっていた。
 大家は一瞬怒りの形相を見せたがすぐにそれは心配の表情へと変化した。部屋の中に立つ私の姿があまりにも哀れに見えたからかもしれない。
 もう一度私と大家は隣の部屋へと入った。夜に私が暴れたせいか部屋のあちこちに埃が落ちている。
 ふと壁をみると何かがはがれかけている様子が見えた。大家はリフォームしたときは気づかなかったのに。と呟きながら壁をそっと触った。
 ごわごわしていると言いながら壁をさすっていると紙みたいなものが壁から剥がれた。どうやら壁に一見それとわからぬように埋め込んだみたいだ。
 その紙はよくみてみると何かの札のようで、難しい崩し字がびっしりと書かれていた。詳しいことはわからなくとも禍々しいものが発している感覚だけははっきりわかる。
 何故こんなものを貼ったのか私はさっぱりわからず私は恨まれるようなことをしたのかと胸に手を当て考えてみるが、咄嗟に思い当たるような節はなかった。
 結局そのいかがわしげな札は近くの神社に預け、疲れた体で部屋を少しだけ片付けそのまま寝ることにした。
 ふと目覚めると辺りは暗い。昼過ぎに寝たから夜になってしまったのだろうか。時計を見ると丁度日付が変わる頃を指している。
 結構寝たな。と漠然と思いながら冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲む。飲みながらふとなにか違うような。という気になり、そこでいつもと違う現状に気づいた。
 声が消えたのだ。あれほど毎晩続いていた声がきれいさっぱり消えている。やはりあの札は本物の恐ろしい何かだったのかもしれない。
 それから暫くたったある日、大家が私に連絡をいれてきた。 なんでも前の部屋の住民だった人物が無理心中を起こし、その事で警察から事情聴取をうけたらしいのだ。
 あの札との関係はあったのかどうかはわからないが、ただ人というものがとても恐ろしく感じたのだけは確かだ。
 私は今はもう何の変哲もない壁を見ながら、死者の冥福を祈った。
 
 
                   了

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