笑うかお

 すっかり遅くなったと私は家の鍵をポケットから出しながら考えた。
 大学に入って遊ぶ時間が増えたとはいえ、日付が変わる頃に帰るのはあまり良い環境とはいえないだろう。
 夜中の2時だ。辺りはすっかり寝静まっている。
 私は鍵を開け、やれやれと部屋に入った時、ふと部屋の奥の方から気配を感じた。
 何者だ?最近この辺で多いと聞く泥棒なのか?私は警戒しながら奥をすっと覗いた。
 しかし。
 誰もいない。
 部屋は私が昼出掛けた時となんら変わる事は無かった。
 いや。
 一つだけ。
 良く見ると真っ白いはずの部屋の壁に「しみ」が出来ていた。
 なぜしみが。
 私は恐る恐るそのしみに近づいていてみた。そのしみは何やら黒とも赤とも言いようのない色をしていた。一番近い色で言うのならセピア色とでもいうのだろうか。
 私はそこである事に気付いた。
 何だかこのしみは若い男の顔のように見えないか。
 私がそれに気付いた瞬間。
 そのしみははっきりと目に見える形で大きくなっていった。
 しみはみるみるうちにその範囲を増していき、やがて人の形になっていった。
 私があまりの事に茫然としていると、そのしみの顔にあたる部分がにたぁと笑った。
 私は何が起こったのか一瞬判らなかったが、その現象をようやく判断した時、強烈な恐怖に襲われたのだった。
 体ががたがたと震え、歯が噛み合わない。
 そうこうする内にしみはますますはっきりと人の形へと変貌していく。
 しみが人の形に完全なった時、顔の部分が「にゅっ」と飛び出した。
 壁からしみのまま這い出してくる。このままほっておくと全身が壁から出るのも時間の問題だ。
 その時。
 私は本能的にわぁと叫んだ。
 実際にはかすれて大きな声など出なかったが私にはそれが精一杯の抵抗だったのだ。
 すると今までにたにた笑ってた顔は一瞬驚いた表情になった。そして少しだけ哀しげな顔をすると、そのままゆっくりと壁の中に埋まっていった。
 埋まったしみは広がった時の全く逆の動きをしながら、ゆっくり消えていく。やがて全てのしみが消えた時、そこには何事も無かったかのような静寂だけが残った。
 私はそれを確認すると同時にどっと疲れてそのまま倒れこんだ。
 気付けば朝だった。
 私は起きた直後から早々に簡単な荷仕度をして実家に逃げ込むように帰った。このような部屋にはいることなど出来まい。
 そして、実家に帰ってから暫くしたある日、私はアルバムを整理しているとある一枚の写真が出てきた。古いスナップ写真だ。
 私はその写真の人物に見覚えがあった。忘れられまい。
 そう、あの部屋にいたあのしみの人物とそっくりなのだ。
 私は少し腰をひけながら母親にこれは誰なのかと尋ねてみた。
 母は懐かしそうな顔をしながらこの人物の名を言った。
 なんとその人物は私が小さい頃に死んでしまった祖父の若い頃の写真だったのだ。
 祖父は私を随分かわいがっていたが幼稚園に上がるか上がらないかぐらいの時に病気で死んでしまったということだ。
 笑うのが下手な祖父だったと言う。
 もしかしたら、あの時にたぁ笑ったのは私に対して浮かべた満面の笑みだったのではないだろうか。
 哀しい顔をして去っていった祖父に、私は心の中でごめんなさいと謝った。
 
                      −終−

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