キィと、かすかにドアがきしみ、ゆっくりと開いた。ほんの少し、部屋の中の影が動く。

 暗闇に、ぼうと灯がともった。

 机の上に置かれたランプからあふれた血のように赤々しい光は、机を挟んで向かい合う二人を照らした。

 一人は男。長身の体躯を、執務机の向こうのゆったりとしたソファに沈め、壮年に届くであろう皺の浮かんだ顔を、ほんの少しゆがめた。

 一人は少女。クラシカルな、と形容すべきブレザーをすらりとした長身にまとい、長い黒髪をまっすぐに下ろして、りりしくも整えられた容姿を無表情に凍りつかせながら、少女は静かにそこにいた。

 部屋は薄暗く、その隅には闇が澱のようにたまっていた。かろうじて、そこが洋装の一室であることがわかる。壁には本棚。その中身は神経質なまでに隙間なく埋められているが、その黒革張りの背表紙はランプの明かり程度ではなんと書かれているかわからない。

 男の後ろには窓。分厚いカーテンの向こうには、夜と雨雲が広がっているはず。

 男はソファをきしませ、ゆっくりと口を開いた。

「永劫に生きるというのは、存外に退屈なものだ。

 大方、100年も生き続ければ大概のことはやりつくしてしまうものだ。そこから先は常に倦怠感が付きまとう。

――君は、どう思うかね? 永遠の生について」

「――そうね」

 彼女は聞いているのかそうでないのか、コンピューターの電子声のような判別のつかない口調で相槌を打った。

「――趣味でも増やせばよかったんじゃない?」

 それはなんでもないことのように、そして事実なんでもない一言だった。

 しかし、それは男にとって別の意味を持っていた。男は興味深げに彼女を見た。彼女はそれこそ何気なく続ける。

「――たとえば、ガーデニングとか。少なくとも、人殺しなんていう悪趣味ではなくてね。
――ねぇ、吸血鬼さん?」

 その言葉に、男はついと唇をゆがませた。そこからは犬歯がのぞき、少女を見る目が、いつのまにか金色に変じている。

「――ガーデニングか。考えたこともなかったな。あいにく日の下には出られないが、試してみる価値はあるな」

 男は、本当におもしろそうに言った。だが彼女は、あくまで聞いているのかどうか、判別のつかない淡々とした口調で言うのであった。

「――それは地獄でやるといいわ。あなたはやりすぎた。人の世界で生きるには、魔物としてのエゴが強すぎたようね」

「そうかも知れない。私はきっと、半魔としてはとても未熟だったのだろう」

 男は天を仰ぎ瞑目した。その胸には後悔もなく、ただ、これから自分が死ぬと言う事実のみが浸透していった。なぜかとても、静かな気分だった。生き飽きていたのは真実。年齢を数えることにすら飽きてから、気まぐれにここまで歩いてきた。その途上で、幾多の人間の血をすすってきた。捕食者として、食事の後はすべて殺してきた。そのツケがこうして目の前に現れている。

 だというのに、いやだからこそ、男はとても満ち足りていた。なぜなら、人に出来ることで彼に出来ないことは、死ぬことだけだったから。

「――人の法では魔物を裁けない。魔物には法などない。半魔を罰せるのは、半魔だけ。
――処分、実行」

 少女の姿が変わっていく。その指はごつごつした鋼鉄の指に。その切れ長の瞳は冷徹な真紅の硝子に。その長髪はしなやかな銀の糸に。ブレザー姿のまま、少女は機身と化した。

 それはとても異様な姿で、しかしこの場にとても見合っていた。自動人形という、人を模して作られ、人を超える能力を持ち、しかし人に焦がれる魔物。

 仮の姿を捨て去った彼女を前に、男はゆっくりと眼を開き、静かに言った。覚悟はもうずいぶん昔にしてある。全く抵抗するつもりはない。やっと待ち望んだ時が来たのだ。この時のために、あえて見つかるように死体を目立つところに置いたのだ。

「――300年の生を終わらせてくれる相手の名前を知らないと言うのは、地獄に行ったときに何かと寂しい。――聞かせてくれないか? 君の名前を」

 男は――吸血鬼はやはりソファに座ったまま、その最期の情景を目に焼き付けようとしていた。

 しかし彼女は、やはり淡々とした、誰に向かってしゃべっているのかわからないような合成声のように話していた。

「――自動人形に名前はないわ。わたしは失敗作だから、銘すら刻まれなかった」

 しかし男はかすかに、その声が揺れているように感じた。だから男は言った。――人を気遣うのも、ずいぶんと久しぶりなことだった。

「それでも、君は半魔だろう。ならば人の名前があるはずだ。せめてそれはお教え願えないかね?」

「――――」

 聞き取れるか否かの小さな声で早口に紡がれた言葉が、やっと感情のある人間のものであったことに満足した男は、200年ぶりに微笑んだ。

 そして彼は、最期に聞いた彼女の名前を口の中でつぶやきながら、その一瞬を待った。



 たとえば夜明けのように。たとえば夕暮れのように。昼と夜。光と影。そして人と、魔。この世界に明確な境界線は存在しない。

 だからこそ、その狭間に揺れるモノがいる。それが半魔。魔物でありながら人の世界に生きようとするモノたち。吸血鬼。人狼。自動人形。他にも多種多様な魔物たちが、この世界には関わっている。それら全てが人の世界に足を踏み入れることを好んでいるわけではないが、しかし決して人は世界の支配者ではない。

 半魔たちは人の中、息を潜めるように生きている。彼らにはそれぞれの事情と理由があり、望むにせよ望まないにせよ、仮の姿をまとって生活しているのだ。

 少女は一人、雨にうたれながら歩いていた。すでに人の姿へと戻っている。いや、こちらが仮の姿ならその言い方は正しくないが。

 傘も差さず、深夜の道路をうつむき加減に歩く。仕事は終えた。後は帰るだけだ。しかしその足取りが重いのは、ずぶぬれになったからだけではなかった。暗澹たるモノをその胸に抱え、少女は鬱々と足を動かしていた。

 半魔は、その存在が人間に知られることを恐れる。彼らが侮ってはいけないことを知っているからだ。人間が炎を得てから、魔物と戦う術を手に入れたことを知っているからだ。

 容赦なく群から異物は排除される。それを防ぐため、こうしてあまりにもやりすぎた半魔は、人がそれと気づく前に同じ半魔に処分される。

 少女にとって、これがはじめての仕事ではない。魔物としてのエゴを捨てきれない半魔は多いのだ。その手が血塗られていることは彼女自身もよく知っている。

 しかし――今回は少々別だった。

 せめて、抵抗してくれればよかったのだ。魔物として異形の奈落に落ちてしまってくれていればこれほど思い悩むこともなかったのに。せめて最期に――微笑んでさえいなければよかったのに。

 半魔は常に揺れ動く。人ではないから。魔物にもなりきれないから。彼女もいつか、処分される対象になるとも知れない。――あの吸血鬼のように。

 そう、自分もまた永遠に生きることが出来る。自動人形は、壊れることはあっても死ぬことはないからだ。――いつか、あの男のように捨て鉢な選択をしないとも限らないのだ。

「――――」

 どれくらい歩いたのだろう。そこで少女は、気配を感じて顔を上げた。そこには街灯の下、傘をさした学生服の少年がいた。その手には、もう一本の傘が握られていた。

 少女はこの少年を知っていた。仮の姿で通っている学校の同級生であり、自分と同じく半魔の存在。確か、人狼だったか。

「――風邪、引くぜ」

 少年はぶっきらぼうにそう言い、そしてつっけんどんに手に持った傘を差し出した。自分が自動人形というモノだということは知っているだろうに。どうしてそんなことを言うのだろう。冷え切った頭で、ぼんやりとそんなことが浮かんだ。

「……」

 そうして、少女は自分の前に差し出された傘と、少年を交互に見た。それには手を付けず、無表情ながらかすかに疑問に彩られた顔で、少年に言った。

「――もしかして、待っていたの?」

「……ああ、そうだよ」

 少年はためらいがちにそう答えた。そして照れを隠すかのように、急いでその後に付け足す。

「べ、別に心配して、とかじゃねぇぞ。俺は頼まれただけなんだから」

 どうしてか慌てた口調で、最後に名前を付ける。それは少女が親友と思っている者の名前で――ただの人間の女の子の名前だった。

「お前の様子が変だって言ってな。それでこの雨空に探しに出て行かされたわけだ。ほら、さっさと取れよ」

「仕事のことを漏らした覚えはないけど……」

「それでも、わかったんだろ。それが絆ってやつだ」

「――――」

 傘を受け取りながら、少女はほんの少し唇を歪めた。すぐさま背を向け、帰途へ着こうとしている少年はそれに気づかなかった。

 なんてことを言うんだろう、こいつは。――どうして、今一番欲しかった言葉を、そんな風に何気なく言えてしまえるのだろう。

 受け取った傘は親友のものだった。彼女らしく、それゆえに自分にはとても似合わない傘を開きながら、少女は彼女の言葉を思い出していた。

 ――例えキミがどういうヒトであっても、キミはわたしの親友だよ。

 彼女は少女が人間ではないと知ったとき、そう告げたのだった。そこに偽りの感情がないことを、自分は知っていたはずではなかったのか。

 これがあの吸血鬼と、自分との違い。ただ一人、自らの死を待っていた男。しかし私には彼女がいる。せめて彼女が最期の時を迎えるまで親友でいたい。そのためならば――魔物のエゴを抑えることなんて、苦でもない。

100年後、自分がどんな選択をするかまだわからないけれど、彼女が望む限り、ヒトの世界の半魔であり続けたいと思う。

「――おい。どうした? まさか仕事で怪我でもしてたのか?」

 傘を開いて、それでも歩き出さない少女に、少年は心配そうに尋ねた。その応えは、もはや決して機械のような声ではなかった。

「――大丈夫。帰ろう。待ってるだろうしね」

 思い悩むなんて、自動人形らしくない。人間らしくなりすぎているなと、少女は感じ、自嘲めいた苦笑を再び浮かべた。しかしそれは、とても暖かなものだった。

end

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