月がぼうと光っている。かつて月の光は死んだ光だ、とも言われたが、しかしその下の少年は、生気に満ち溢れ、内燃機関と外気温との差を白い息で表しながら、ただひたすらに真っ直ぐに歩いていた。
冬の空。こうこうと蒼白い月がかかっている。その位置は、現在が真夜中であることを教えていた。雪はなく、ただただ白いのは月光と少年の吐息だった。
動きやすそうな黒い服、適当に短い黒い髪。それ以外にこれと言った特徴を見出すことが出来ない菅だった。深夜に歩き回るという点のみが、この少年を異質なものに感じさせていた。
――いや、ヒトと違う点は確かにあった。少年の、その瞳はぎらぎらと赤く輝き、周囲を油断なく見ていた。例え月の光しかない暗がりの道でも、その足取りは迷うことなく、やがて一つの建物へと行き着いた。
大きく、しかし今は薄寒い雰囲気のそこは、広々とした敷地を持つ学校であった。少年はぐるりと外壁を回ってみたが、どこも開いていないことを確認したにすぎなかった。
「――ちっ……。面倒だな」
そして少年は、裏手に回り、やがて一息ついて――その少年の身長よりも高いその壁を軽々と飛び越えた。
音もなく着地し、再び歩き始める。まっすぐに、校舎へ向かって。昼間は人の声が絶えることのないここは、しかし今は世界が息をひそめたかのような静寂だけがあった。
たとえば夜明けのように。たとえば夕暮れのように。昼と夜。光と影。そして人と、魔。この世界に明確な境界線は存在しない。
だからこそ、その狭間に揺れるモノがいる。それが半魔。魔物でありながら人の世界に生きようとするモノたち。吸血鬼。人狼。自動人形。他にも多種多様な魔物たちが、この世界には関わっている。それら全てが人の世界に足を踏み入れることを好んでいるわけではないが、しかし決して人は世界の支配者ではない。
半魔たちは人の中、息を潜めるように生きている。彼らにはそれぞれの事情と理由があり、望むにせよ望まないにせよ、仮の姿をまとって生活しているのだ。
少年は校舎の屋上にいた。その前には一人の男が――侍がいた。それほど広くないこの場に、二人は向かい合っていた。
侍は――魔剣という魔物の使い手だった。いや、魔剣の方が使い手を作っているのだ。鞘人と呼ばれる、魔剣の力が生み出した自らの使い手。具現化された幻想とでも言い換えられそうな、そんな虚ろな存在。しかしその姿で魔剣はヒトの世界を生きているのだ。
少年は、その姿に唇をゆがめる。
「やる気たっぷりだな、ええ」
「――この期に及んで命乞いか?」
高くもなく、低くもなく、魔剣は、使い手の口を使って、少年の軽口に答えた。そこからはなんの感情も押しはかることはできない。いや、本当に感情という人間的なものがあるのだろうか。その存在すら疑わしい。彼の手にされた刀は月光を浴び、曇りない空と同じように恐怖すら感じるほどの済んだきらめきを少年に向けた。ただ構えている。
ちっ、と舌打ちをした後、ゆっくりと、少年はその上着を脱いだ。夜気はその身を切り刻まんとしたが、しかし少年は身じろぎもしなかった。そんな余裕を、少年は体に与えなかった。
そして少年も――その姿を本来のものに戻した。赤い紅い瞳の、人狼の姿に。直立した狼の威風たる巨体を前に、侍はただたたずんだままだった。
「――さぁ、始めようか」
人狼となった少年は、しかし変わらない声で侍と対峙した。
その瞳の中に、真っ赤な月が映った。
切る、突く、薙ぐ。魔剣は縦横に、しかし的確に人狼を追い詰めていった。二人の魔物にとっては、この屋上は狭すぎる。逃げ場すらないここでの決闘を望んだのは魔剣だが、乗ったのは人狼の少年だった。
魔剣は、とある退魔組織のモノだった。自動的な狩人として、ヒトのうちに潜む、半魔を含む魔物たちを追い、駆り立てていくモノ。
少年は魔物だった。狩られる理由はそれだけで十分なことを、少年自身が知っていた。少年は魔物として人間に害をなしたことはなかったし、もちろん人間的な犯罪とも無縁だったが、しかし半魔はそういうものだということは理解していた。――こうしたやっかいごとは、無論この魔剣が初めてではなかったから。
自分の本来の姿がこういうものだと知ったのは数年前のことだった。血によって受け継がれる、呪いのような獣の一族の末裔とは、本当に気づかなかった。
それでも、自分が何者でも、それでも生きていきたかった。生きていたかった。――いっそ気が狂ってしまえば。そうも思ったが、狂気の門は狭く、彼はそこを通ることを許されず、彼岸には渡れなかった。
それにはただ一言。たった一言、何も知らなかったころからの幼馴染から言われた一言が、彼の渡河を邪魔したのだった。
「――キミは、ただそのままで、ただのキミだよ」
そんな言葉で、ヒトは生きていけるんだな、と後に少年は思うことができた。
あれから数年。どれだけ彼女の存在に救われたことか。あの何もないところでも転べるような少女が、少年にとって支えになっている。
だから、ここで死ぬわけにはいかなかった。――誰のためでもなく、自分のために。彼女を悲しませない自分のために。
「くっ!」
袈裟斬りに振り下ろしてきた魔剣の攻撃を何とかかわし、人狼は距離をとろうと大きく飛びのいた。音よりも疾く動いた人狼に、魔剣は反応できていないようだった。人狼は振り下ろしたままの魔剣に屋上の端から爪を振るい、その先から衝撃波を放った。
倒せるとは思ってない。それでもけん制になれば――そう期待した矢先に、魔剣は、すばやく剣をその場で振った。まだ音が聞こえない人狼には、その闇を切り裂く音は届かなかった。衝撃の弾丸は魔剣によって切り裂かれ、その断末魔は何も魔剣に損傷を与えなかった。
「なっ……!?」
やっと音が戻った人狼は、それだけの声を出すのがせいいっぱいだった。しかし――魔剣の行動はそれだけではなかった。高々と剣を振り上げ、まっすぐに振り下ろしたと思うと、次の瞬間、人狼の目の前に魔剣は飛んでいた。
「――空間斬り……!」
「その通り」
やはり高くとも低くともない声で、淡々と絶望的な事実を告げた。
そして、そのまま、自らを人狼の腹に、差し込んだ。
それが引き抜かれたとき、人狼は自らの血が描いた軌跡を宙に追った。そして、自分が膝を地に屈したのをその衝撃をもって理解した。
空間そのものを切り裂き、彼我の距離を一瞬で0にする。それが空間斬りだった。まさかそんな芸当までできるとは。魔剣は人狼の腹を突いた後、再び距離をとった。反撃をすら許さない一撃離脱。まったくもって完全な戦闘機械のようだった。
死ぬのは怖い。なぜなら――失うものが多すぎるから。それほど長く生きてきたわけではないが、それでも惜しいものがある。だから死ねない。だからは死ぬのは――嫌いだった。
昔、同輩の魔物に、何か機会でそんなことを言ったら、好き嫌いの問題かと笑われた。しかし人狼にとって――少年にとって戦いと死はそういうものだった。
なんて奇麗事。そんなことは自分でもわかっている。だが、しかし最後にすがれるのはそれだけだった。ヒトの世界で、ヒトのまま生きていたい。
「(欲張りかな……)」
意識を半ば失いながら、人狼はそう思った。それでも――立ち上がろうとする力を与えてくれた。
「へへへ……」
どこか、しまりのない笑いがこみ上げてくる。どうしてだろう。
折れそうな腕。くじけそうなひざ。崩れそうな心。
身体はもう限界だった。奈落は大きな口を開けて俺が倒れこむのを待っている。さっさと楽になればいい。
魔剣の傷は、激痛を与え続けている。特にさきほどの攻撃はひどく、魔物の中でも強靭な種族であるはずの人狼をして、とめどなく血を吐き出し続けさせている。
それでも――立ち上がる。ただ死にたくないがために。エゴイスティックなほどの罪を胸に、人狼は闘う力を取り戻した。
真っ赤に染まった月を見上げ、人狼は自らを奮い立たせた。
魔剣は、けっして手加減してはいなかった。これまでに多くの魔物を屠ってきた彼だが、それによる慢心とは無縁だった。なぜなら――魔剣とはそういうものだからだ。
道具とは、生命より明確な目的と理由をもって生み出される。魔剣が生み出されたのは、ただただ魔物を狩るためであったから、そんな人間的なものなど、そもそも持ち合わせてはいなかった。
だから今、満身創痍の人狼を前に攻撃を中断したのは別の理由があった。空間斬りからの突きは、まさに必殺の勢いをもって差し込んだ。しかし――人狼は生きていた。そのことに声もなく驚愕した魔剣は、自らを下がらせた。
これまで殺してきた魔物とは違う。そう感じた。
そもそも最初からこの相手は今までの相手とは異なっていた。狩人は獲物を逃さない。つまりそれは、狩られる側は常に逃がれようとあがく、ということだ。過去に処理してきた魔物たちは、魔剣に対し、絶望的な抵抗をするか、必死で逃げるか、どちらかを選んだ。
だが――こいつは。自分が追い詰められたことを知ると、なんと決闘を挑んできた。そしてそれを――自分は受け入れた。
逃げたならば、追えばいい。そう思って手ごろに広く、夜間ヒトの姿が絶えるここを選んだ。人狼は――いやその時は少年の姿だったが――その提案に少々表情をゆがませ、そして頷いたのだった。決めた後で、少年の通っている学校が、ここであると知った。
決闘が始まるまで半信半疑だった。――まさかこんなことになるとは。少年が屋上に姿を現すまで、時間稼ぎのはずだと、そう思っていた。――信じていた。
しかし、少年はここに来た。そして人狼となり、戦いを始めた。その結果として、魔剣は彼を追い詰めた。
しかし――再び立ち上がった彼を前に、魔剣はなぜか動けなかった。
自暴自棄の抵抗ではなく、ただ、ひたすらに一つのことを望み、かなえようとしている。
――本当に、こいつは、魔物なのかと、魔剣は、自分に問い掛けたくなった。
本当に――本当に、今までの魔物とこいつは違い過ぎる。
何かを振り払うように、魔剣は再び自らを構えた。
刀身をしたたっていた人狼の血がはね、月にかかる。
真っ赤に染まった月を天に、二人は最初のときのように屋上の端と端で対峙した。
「なぜ立ち上がる?」
動きを止めた侍は、ぽつりとこぼすように尋ねた。
「……そうだな」
苦しそうに笑う人狼。立ち上がったのはいいが、抑えた腹から血があふれてくる。そんな人狼に、魔剣は再び言った。
「わかっているのだろう?」
「何がだ?」
ゆがませた口の端からは、獰猛な牙が覗く。しかしそこから発せられた声は、苦しげな少年が、せいいっぱい耐えているような、そんな声だった。
「ヒトの側にいられるのは、ヒトに従うモノだけだ。お前は人狼で、魔物。つまりはヒトのテキだ。だから――狩られるんだ」
淡々と、決まりきったことを話すかのように魔剣は言った。そこに人狼の答えを期待する響きはなかった。まるで自分に言い聞かせるかのように、魔剣は言った。
それでも人狼は答えた。
「じゃあお前はなんなんだ?」
「俺は道具さ。ヒトが作り、ヒトが使う、それ以外の何に見える? ただテキを殺す、そのためのモノだ。そしてテキとは魔物のこと、つまりは貴様のようなやつさ。
――ここはヒトの世界だ。お前はここにいてはいけないんだ」
目の前の、人狼ではない誰かに言い聞かせるように魔剣は言った。抑えていた手を離し、人狼も戦闘体制を整えようとするが、血はとめどなく流れ続けている。
「――それでも俺は、ここで生きていきたいんだ」
「それが貴様の――立ち上がる理由か」
そこで、魔剣は初めて、人狼に向けて言った。
人狼は、今度は自分で笑ってみせた。上手く出来たかどうかはわからないが、それでも。
「そんな難しいものじゃねぇよ。ただ、ここは俺が俺として生きていくのに必要な場所だから。ここを離れて、生きていくことができないから。――そんなものさ。世界の違いとか、ヒトのテキとか、そんなものは俺の中にはねぇよ」
それはまさに、人狼の、少年の、本能のような願いだった。だから理由なんかではなかった。――最大級のエゴで願う、未来だった。それはヒトであれば、たやすく手に入ったかもしれないモノ。それゆえに、恋焦がれるのかも知れないモノ。
「そうか……」
魔剣は、どうしてか、この人狼に、勝てる気がしなくなった。――魔物を狩るのが自らの宿命で、使命で、運命だと、それこそ道具のエゴで信じていた。しかし――魔物ではないモノは、狩れない。
なるほど。自らが信じてきたモノというものは、つまるところ、そんなものだったのかと、魔剣は自嘲した。――それは道具ではできないことだった。
「さて、第二ラウンドを始めようぜ」
人狼はそう言って、傷ついた身体を疾駆させた。そして人狼はその時、魔剣の鞘人が、かすかに微笑んでいるのを、確かに見た。
戦いは、再び始まった。月がこうこうと輝いている、真っ赤に染まった月が――――。
End
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