……それは、限りなく新月に近い、月夜の晩。
飲み慣れない酒に酔っていた私は、曲がるべき路地を一つ間違え、一人の絵描きに出会った。
人通りの絶えた路地裏に、スケッチブックを抱えて座り込む男。
普段の私なら目を合わせずに、その場を足早に通り過ぎていたはずだが、その時の私はそうしなかった。
「絵を、描かせていただけませんか」
こざっぱりとした服に身を包む、針金のように痩せたその男が、人懐っこい笑みを浮かべて私に言う。
「……いいわ」
酒席で狒々爺どもの相手をさせられて、ムシャクシャしてた私は頷いて、勧められた椅子に腰を下ろした。
男の描いた絵を、扱き下ろしてやるつもりで。
スケッチブックを開いた男が、手にした鉛筆を走らせる。
一定のリズムを保って、紙にシャッ、シャッと線が引かれていく音に、私はいつしか眠気を誘われ……
「終わりました」
事実を淡々と告げる男の一言。
まどろんでいた私は目を開き、
「え……?」
差し出された絵に驚いた。
何処とも知れぬ異国の風景。─―私は、何処にも描かれていない。
「お気に召しませんか?」
現実と見紛うばかりに描き込まれた絵を、食い入るように見つめ続ける、私は返答しなかった。
手渡された絵に魅入られていた私には、そんな事をする余裕は無かったから。
「……そうですか。では、その絵は貴女に差し上げます。どうぞお持ちになってください」
この言葉を最後に、絵描きはその場から姿を消し、私は色を失った。
双眸に映る全てのものが、色褪せているように感じられてしまうのだ。
仕事も、友人も、─―恋人すらも、今の私にはどうでもいい。
ただ一枚の絵に描かれた風景だけが、私の全てになりつつある。
そんな自分に何の感慨も浮かばなくなった時……私は、旅立つ事になるのだろう。
この世のものには行けぬ場所─―絵画の中の世界へと……
end
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